二章

第8話 西B工場

 平成の大合併で南渡市が発足するさらに以前、ここら一帯の土地を整備して企業を誘致する〈南渡工業団地開発〉に最初に名乗りを上げたのが、アジロ製造株式会社だった。誘致企業の第一号となったアジロは今日まで南渡市の雇用の確保や地域産業の活性化に寄与し続けている。

 ――とアジロの企業ホームページの会社概要に記載されていた。第一号だけあってアジロが確保した敷地面積は広大である。この敷地内で人間一人を見つけ出すのは……簡単ではなさそうだ。


「おい、記録係。この俺様があんたを首の皮一枚で繋げてやったんだ。感謝して、大人しく付き従え」


 調査のために与えられた小部屋で開口一番、風見は麦野に言い放った。


「莫迦。手伝ってくれる子に何て言い草だ」と麦野の代わりに、弥彦が風見を叱る。友人同士というよりまるで兄弟のようだ。

 風見の言い草に反論する気はなかった。不合格で帰されずに済んだのは風見のお陰に他ならない。当然、馬榎の捜索には真面目に協力するつもりでいる。


「でも、どうやって馬榎さんを捜すんですか?」

「弥彦。アジロの構内図を出してくれ」

「構内図は社外秘だからなァ。あんな口が汚い悪い子に貸す構内図はないかなあ」

「チッ、役立たず」

「ああもう、わかったよ……。ほら――」と弥彦がぱんぱんに膨れた鞄から青色のファイルを引っ張り出す。


「――弥彦設備ウチくらい信頼を得ている会社には、こうして一冊渡されているのさ」


 図面を机に広げる。綴じられた用紙には頁のすべてに社外秘の印が捺されていた。弥彦は〈西B工場〉と記された場所を指す。


西Bにしのビー、ここが馬榎の持ち場だよ」


 偶然にも半年前、会社説明会にて見学させて貰った工場である。三人は目的地を西B工場に定め、総合棟を出た。風見は社員共用の傘立てから黄ばんだビニール傘を拝借する。

 どんよりした厚い雲と空を覆い、雨が降る直前の匂いがした。時折ごろごろと暗雲が唸り声を漏らす。


「あんた、足は痛まないか」

「大丈夫です」


 麦野は目を丸くして答える。あのとき会議室でうずくまった麦野を気遣ってくれたのは悪戯を仕込むための演技だったと思ったが、それだけでも無かったらしい。


「ならいい。調査の途中で駄々を捏ねられたら面倒だからな」


 一言が余計だ。


「あれから時間が経っていますよね。馬榎さんは工場の外に出てしまわれたのではないでしょうか」


 麦野が懸念を口にする。


「それはない」と風見が否定し、「……とあの人事担当の女が言っていただろ」と付け加えた。


「アジロは全員に配布した社員証で警備を管理している。出入りするには社員証を使用して門を開錠する必要があるし、開閉記録は総務が管理している警備システムで確認出来る」

「馬榎が持っている非常用鍵ってのが気になるけど、それも記録に残るんだもんな。あの外壁の高さじゃ飛び越えるのも無理だなあ」


 弥彦が遠くを見て呟く。建物や樹木の合間は、ずっとコンクリート壁で埋められている。内部に居るとアジロは塀に囲われたちょっとした箱庭だ。

 湿った空気が肌に張り付き、早くも汗ばみ始めていた。上空を旋回する鳥が濁声で鳴く。道の両側から樹木の枝が張り出し、山道を歩いている気分になる。

 途中には幾つもの案内板が立っているが、文字が褪せていたり錆びていたりで読みづらく、余り意味は成していなかった。風見が一番に構内図を求めたのも納得である。

 構内図を見てわかったのはアジロはおおまかに東西南北と中央の五つの区画に分かれているということだ。その区画に応じて建物名が割り振られており、西B工場は西地区にある。中央の区画は大半が緑地で、総合棟はそこにぽつんと建っている。


「ありゃ突貫工事だろうな」と弥彦が振り返りながら言った。後ろの樹々に阻まれて視認できないが、総合棟のことを言っているらしい。


「素人目でもあちこち施工が雑だ。急いで建てたい事情があったのかねェ……」


 麦野にはわからないが、設備屋が言うのだからそうなのだろう。

 外観はそれはそれは立派な建物だ。曲線を描いた外壁は総合『塔』と呼んでも良い。


 三人は黙々と小道を辿った。総合棟から西B工場は、途中までは正門に向かう道を戻ることになる。正門から総合棟まで道がぐるりと通っており、構内図上では綺麗な渦巻が書かれていた。それを主幹として狭い通路が蜘蛛の巣のように張り巡らされているのだ。

 見れば見る程、あのとき風見に見つけて貰わなかったら長時間迷う羽目になっていただろうと思った。


「ここは、まるで小さな村のようですね」


 感想を述べると、「間違っちゃいないね」と弥彦が頷いた。


「弥彦設備は俺の父親の代からアジロと付き合いがあってさ。アジロの先代――つまり創始者曰く、当時ここら一帯は農業にも向かない湿地帯で、水害も多く、人が居つかない不毛の地と呼ばれていたらしい。それで先代社長は『村を興すように会社を創り、南渡の礎になりたい』と言っていたんだそうな」

「それは……志の高い」

「昔は社員同士の交流も盛んで、本当に村落みたいな付き合いだったらしいけどね。多くの社員が寮住まいだったらしいし。まあ、今はそういう時代でもないしな。――ああ、見えてきた。あれが西B工場だ」


 濛々と昇る白煙の向こうに古びたコンクリート壁が目に入った。鼠色の外壁を伝う配管の数々は錆ついており、年季が一目で察せられる。

 金属製の扉を引けば開扉を示す赤い明かりが点灯した。中に入ると玄関は二重扉になっている。扉には、全員ここで靴を履き替えること、来客以外は所定の作業着に着替えること、と掲示がある。


「俺らは来客ってことで」と風見が言った。

 借り物の安全靴に履き替え、「三階に事務所がある」と弥彦が説明する。踊り場に据えられた大きな姿見を警戒し、麦野は早足に過ぎた。




「馬榎主任は居ませんよ。採用面接のために呼ばれたと伺いましたが、違うんですか?」


 沢之内さわのうちという社員がキーボードを打つ手を止めないまま答える。幾つもの事務机が並び、奥には給湯室や休憩スペースがある広い空間だが、部屋には彼一人しか居ない。


「とはいえ自分は朝から事務所に缶詰だから、もしかしたら現場の連中なら知っているかもしれませんね」


 麦野は彼の顔に見覚えがあった。工場見学で麦野の班を引率してくれたのが沢之内だったのだ。しかし彼の方は麦野に気付いた素振りはなかった。

 言われて製造工程の現場に向かったものの、こちらは部外者は立ち入ることが出来ない。工程と通路を隔てるガラスの向こうでは青い作業着の社員が慌ただしく走り回っているのが見えた。

 扉が開き、ふらりと作業着姿の男性が出て来たところを風見がすかさず捕まえる。


「……総務さんが何の用事ですか? 今から小休憩なんスけど」


 作業着と同じ色の帽子を握り締め、男性は警戒して歩き過ぎようとした。スーツ姿から彼は三人を総務の人間と判断したらしい。実際は風見以外はアジロの社員ですらないのだが。


「あんた、総合棟の会議室に幽霊が出るって話を知っているか?」

「へ?」


 訊き返したいのは麦野も同じだった。てっきり馬榎について訊くと思っていたのに、想定していた質問と違う。


「知っていますよ。俺は総合棟なんか着替える以外で用事ないんで会議室に入ったことはないですけど。……総務って、怖い話を集めるのも仕事なんスか?」


 厭味なのか本気で不思議に思っているのか図りかねたが、足を止める気にはなってくれたらしい。作業着には白川しらかわと縫ってある。


「まあ安全管理の一環としてね」と風見が煙に巻いた。


「大変っスね。あ、それならウチの現場にもありますよ、怖い話」


 白川は自嘲じみた笑みで口角を上げた。目に見えてオカルト愛好家の血が騒いだ風見は前のめりになる。


「でも、ここじゃちょっと。馬榎主任の耳に入ったら襤褸滓ぼろかすに叱られるんで……」

「それなら問題ない。奴は今、失踪中だ」

「は?」と白川は首を傾げ、「まあ、主任が居ないならいいか」と呟いた。

 風見が嬉しそうに笑う後ろで、麦野と弥彦はそっと顔を見合わせる。横道に逸れそうな予感が。


「あの、風見さん。捜索は……」

「五月蝿ェな。ンなことより記録」

「はい、承知しました」


 手帳とペンを取り出す。この調子じゃせっかくの二次試験にも合格するのは難しいかもしれない。諦めの気持ちと、怪談を聞くとき特有の高揚感が混じり合った。


「しょうもない話なんで、そんなに怖くないかも知れないっスけど――」


 彼は語り始めた。

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