第7話 不採用

 真っ先に、風見が更衣室を飛び出した。遅れて弥彦、麦野と続き、途中で悠然と歩く青ヶ幾を追い越した。

 悲鳴の主である女性が二人、互いに抱き合ってロビーの床に蹲っている。その服装から、アジロの社員ではなく来所した他社の社員だと一目でわかった。

 泣きじゃくる女性の背中ををもう一人がさすりながら、唖然として壁一面の鏡を指差す。

 弥彦が急に後ろへ退がり、麦野はその背中にぶつかった。そのお陰で麦野は鏡を見ずに済んだ。


「ど、どうしたんですか?」

「わからない。あの鏡に何かあるみたいだけど……」


 ――鏡に?

 ……気になる。


 麦野の好奇心がくすぐられる。そうだ。遠くから、自分の顔が映り込まない距離なら、幻覚は見ずに確かめられるだろう。

 自分でも莫迦げた癖だと思う。なぜ堪えられないのか。なぜこういう類を前にすると理性が働かなくなるのか。また幻覚を見ても知らないぞ。構わない。

 そっと弥彦の背中から顔を覗かせる。

 鏡に何かが浮かび上がるのが見えた。こびり付いた赤黒い液体が、大小の歪な文字を形成している。所々血の筋がミミズのように這って掠れているが、最初の三文字ははっきりと読めた。


 マ エ ノ


 こつこつと杖が大理石を叩く音がし、青ヶ幾が追いつく。

 麦野は風見の悪戯を疑った。さっきと同じ手口かもしれないと。

 しかし彼が真剣な面持ちで鏡面を確かめているのを見るに、彼の仕業ではないらしい。


「鏡の向こうにが居たんです!」

「自分の顔じゃなく?」

「違います!」


 泣き叫ぶ女性に風見がずい、と顔を寄せる。


……それは霊か? はたまた悪魔か?」


 女性は顔を歪ませ、「……き、気持ち悪いこと言わないでください!」と風見を突き飛ばした。


「何なの! だからこの会社には来たくなかったのに。私、帰ります!」

「ちょ、ちょっと!」ともう一人も慌てて後を追い、二人は玄関から走り出てしまった。

 風見はスーツを叩いてぶつくさ文句を言った。


「普通、この俺様を突き飛ばすか?」

「あんな尋ね方をするからですよ」


 騒ぎを聞き付けて花丸と仮屋も到着した。二人も鏡に書かれた文字を見るなり「ひっ」と悲鳴を漏らす。


「花丸さん、報告をお願いします」


 鏡から目を逸らさないままで青ヶ幾が命じる。


「は……はい。非常用鍵の使用履歴はありませんでした」

「一箇所も?」

「はい。馬榎主任の所在は不明のままです」

「そうですか」


 麦野は風見がまた何か推理を始めるのでは――と予想した。しかし風見は仁王立ちで鏡を見つめるばかりで沈黙している。


「最初の三文字は明らかに『マエノ』、よね。次の文字は『ナ』……それか漢数字の『十』かしら」

「次の五文字目は『てい』かアルファベットの『T』、掠れる前は『エ』だったのかもしれないな。最後の文字はまったく解読できないか。風見はどう思う?」

「そこの人事担当。馬榎の下の名前は?」

「……直樹ナオキよ」


 マエノナオキ。

 血文字はそう読めなくもない。


「こういう血文字は怨霊からの警告か、呪いの標的の名前だと相場が決まっている」


 風見はにやにやと笑った。この人は、また無闇に恐怖を煽ることを言う。自分が多少他人とズレている程度、彼と比べたら些事であるように思えてきた。

 こつ、と青ヶ幾が杖を鳴らす。


「風見さんに命じましょう。早急に馬榎主任を見つけてください」

「俺が?」

「他に誰が居るんですか。この文字が人為的な悪戯にしろ、そうでないにしろ、放ってはおけません。私の部下でありたいのなら指示に従いなさい」


 常に穏健さを崩さない青ヶ幾にしては厳しい声色だ。


「はいはい、わかりましたよ。その前に一つ、確認したいことがある。……この学生の合否はどうなる?」


 麦野は「えっ」と反応した。

 突拍子もない質問だ。


「筆記試験の結果は出ているんだろ? 面接は仕切り直すのか?」


 突然に話題の中心になり麦野はおずおずと青ヶ幾の、それから仮屋の顔を窺う。


「選考結果は後日伝えることになっているからねェ……。それに麦野さんだって、君達も聞いている場所で合否を知りたくはないだろう」


 仮屋は淡々と答えたが、その事務的な物言いが麦野の直感に訴えかけた。

 ――もう結果は出ている。


「あの、構いませんので、教えていただけませんか」

「いいのかい。こちらとしてもその方が手間は省けて助かるよ」


 仮屋はあっさり掌を返した。


「……実は試験結果が合格の基準点に届いていなくてねェ……」


 自分で訊いておきながら、頬が固まるのがわかった。


「本来なら選考落ちだったところを手違いで面接に呼んでしまって申し訳ない。本当に迷ったのだけれどこちらとしても苦渋の決断なんだ。学生の能力とは別に、社風との相性というものがあるからねェ」


 麦野は無理に笑顔を作って見せる。

 そうか。試験が駄目だったんだ。

 それなら仕方ない。

 自分が至らなかったのだから。


「弊社とは縁がなかったけれど悲観することは無い。麦野さん程の人材なら別の場所で必要とされると思う。工場よりも接客業とかは向いているかもしれない。うん、これからの活躍を祈っているよ」


 仮屋は慣れた調子ですらすらと耳障りのいい言葉を並べる。

 だんだん顔が上げられなくなった。

 麦野はお辞儀をした振りをして、頭を下げる

 仕方ない、次がある。

 挫けず頑張れば、きっと次が。


「そうか。じゃあ俺の助手に付けてくれ」


 腰を折ったままの格好で麦野は硬直した。予想外の申し出に一同が呆気に取られる。


「はァ? どうしてそんなことを……。第一、君に条件を出す権限はないぞ」

「この広い敷地を俺一人で捜せってか?」

「だからって彼女である必要は」

「構いませんよ」


 仮屋がぎょろりと青ヶ幾を見る。


「ついでに、これを麦野さんの二次試験とするのはいかがですか。面接がああいう形で中断されてしまったまま帰すのは可哀想でしょう」


 ほっほっほ、と青ヶ幾は先刻の厳しい声から一転し愉快そうに笑う。


「し、しかし。公平性が」

「ああ……それで内定を出すのは確かにやり過ぎですね。では、二次試験に合格したら面接をやり直すことにしませんか?」


 誰も麦野の意思は確かめようとせず、蚊帳の外だった。この三者三様の男性陣は全員が勝手に話を進めてしまう性格らしい。止めてくれそうな花丸と弥彦は血文字を怖がって離れてしまっている。


「まあ青ヶ幾参与が良いなら……しかし他の取締役に知られたら何と仰るか」


 仮屋は意見をころころと変える。その忠告を青ヶ幾は意に介した様子もなく微笑みを湛えていた。


「では風見さん。早急に――遅くとも今日中には馬榎主任を捜し出してください」


 次々に場を後にし、最後尾の花丸が心配そうに麦野を振り返った。ロビーには麦野と風見、そして弥彦が残る。


「風見。ずっと相棒は要らないって言っていた癖に」

「相棒は不要だが部下は居ても困らない。報告を纏めるのに記録係は必要だしな」

「お前なァ言い方ってモンを考えろ。……麦野ちゃんはこれで良かったのかい?」

「は、はい。内定は欲しいですから」

「……お兄さんはちょっと不安だなあ」


 弥彦は振り向いて、ぴたりと足を止めた。


「文字が消えている」


 呆然と呟く弥彦の横で、風見は機嫌よく「ふうん」と頷く。

 会議室の幽霊は存在しなかった。

 しかし、この会社には何かが居るのかもしれない。

 伝承を聞くのとはまったく違う。これから怪談に成るかもしれない場に居合わせることになるなんて――と麦野はぞくっとして心臓の辺りに手を当てた。早鐘を打たせるのは不安、或いは期待。

 ――意気揚々と乗り込んだのは、本当に助け船だったのだろうか。

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