第6話 降霊術

 すでに青ヶ幾と仮屋も会議室に集っていた。弥彦の姿は見当たらないが、あれでも一応他社の人間なので遠慮したのだろう。

 それにしたって何をするつもりなのだろうか……と麦野はそわそわと面子を見比べた。


「探偵の真似事か?」と仮屋がぶつくさと呟く。


「それとも祈祷でもするつもりかねェ」

「言葉で説明するより再現した方が早いと思ってな」


 緊迫した空気でも風見の飄々とした態度は揺らがない。


「今から、ここに幽霊を呼ぶ」

「呼ぶ……だって?」


 仮屋は戸惑い、「青ヶ幾参与。こんな莫迦げた真似を許しても宜しいのですか」と伺いを立てる。


「幽霊を招いていただけるのなら是非ともご挨拶したいですなあ」


 青ヶ幾は少年のように目を輝かせた。


 電灯が消え、会議室が薄暗くなる。


 風見は内ポケットから何かを取り出し、恭しく卓に置いた。それは掌程の小さな藁細工で、藁が縄状に交互に編まれ、一見雪帽子にも似た形状をしている。


「…………」


 風見が口の中で何やら唱え始めると、ぶつくさ文句を呟いていた仮屋も口を噤みますます空気が張り詰めた。


「か、香りが」


 花丸に言われて嗅覚を研ぎ澄ますと、僅かに甘い香りが漂い始めている。隣の米山は、まるで見えない霊を威嚇するように真剣な顔で虚空を睨み付けていた。

 風見が祈祷をしたと同時に香り始めたのだ。彼が何らかに働きかけたことは間違いない。オカルト愛好家というのは嘘で、もしや霊能者だったのか。

 でも――と麦野は深く呼吸をした。……面接のときに嗅いだ匂いとは違う気がする。あの匂いはもっと、表現しづらい奇妙な匂いだった筈。こんな親しみやすい甘さは無かった。

 他の皆は自然と中央に身を寄せ、部屋のあちこちを見渡していた。思考に耽っていた所為で麦野はまたしても輪から外れてしまっている。まあ、いいか。

 風見は一心不乱に読経を続けた。


 こん。


 不意に、扉がノックされる。

 花丸が米山の腕にしがみ付く。


「開けるな!」


 突然風見が叫んだが、誰も開けるどころか扉に近付こうとすらしていない。

 麦野以外の誰もが扉から後退り団子状に引っ付いている。


 こん、こん。


 ――誰かが会議室の扉の向こうに居る。


 ノックをするということは、入室の意思があるということだ。


「どうぞ」


 全員が、はっと麦野に注目した。


「麦野さん、返事しないで!」

「あ……すみません。つい」


 誰かが溜息を吐いた。

 互いの表情もわからない暗い部屋を、甘美な匂いと風見の忙しない読経が支配する。

 こん、こん、こん。

 急かすようにノックが響く。

 麦野は扉を開けたい衝動に駆られた。霊が居るなら本物の怪談だし、そうじゃないならそうと確認しておきたい。焦れったい好奇心が麦野を突き動かす。

 確かめない内に居なくなったらどうする?

 これから先、ずっと気になり続けるのでは?

 そんな後悔に苛まれるくらいなら。


「む、麦野さん!」


 花丸達が止める間もなく、麦野はドアノブに手を掛けた。

 それに、もし霊だとしたら可哀想だ。同じ扉を同じようにノックした自分自身と、沢山の企業をノックしてどの扉も開かなかった自分とも重なる。

 生きていようと死んでいようと、一度抱いた惨めさは共鳴するものだ。


「麦野さん、駄目!」


 拝む風見の肩が震える。

 がちゃり、とドアノブを手前に引く。

 廊下の明かりが扉の隙間から細く入った――そのとき。



「……く。くく。あっはっはっはっ!」



 高らかな笑い声に、麦野は振り返った。

 風見が腹を抱えて笑っている。


「あーあ。面白い。こういう展開になるとは思わなかったぜ」


 麦野はドアノブを握ったまま固まる。他の全員も、急に笑い出した風見を怯えた目で見つめた。


「可笑しいね。あんたら幽霊を否定する癖に降霊術で怖がるのか? そうやって部屋の中央で震え上がっていないで、その学生みたくさっさと扉を開けたら良かったんだ。どうして咄嗟にそう出来ないか――恐怖で思考が停止しているからさ」


 きい、と扉が向こう側から引かれ、大きく開く。

 その隙間から男がぬっと顔を出した。


「や、弥彦設備の」

「すみません、手伝いを頼まれまして」


 仮屋がこほんと咳払いをし、ずり落ちた上着を整える。


「降霊術が風見の小芝居ということはわかった。この匂いも君の仕業なんだな?」


 にやり、と風見が口角を歪める。


「慌てんなって。今度こそ幽霊の正体を見せてやるから」

「勿体ぶるな」


 一行は案内されるがままに会議室を出る。完全に風見の思惑に嵌まっている。仮屋も花丸も口数少なく、特に、米山は顔色が優れず足取りも重い。

 風見は廊下をすたすたと歩き、扉を開けた。

 男性更衣室だ。

 誰も利用していない時間帯らしく、麦野と花丸も後に続く。

 更衣室の奥には〈シャワー室〉と書かれた個室が五部屋、並んでいた。弥彦がその一室を開いた瞬間、米山が「あっ……」と声を漏らした。

 ふわりと甘い芳香が流れ出る。


「さっきの香りだ」

「そう、匂いの源はここだ」


 まさか。

 会議室と更衣室は同じ階にあり、位置としては真裏に当たるが、扉も窓も隣接していない。匂いが流れる距離ではない。


「――これは設備上の欠陥だ」


 風見がスイッチを押し換気扇が回り始めると、徐々に香りが薄れていく。


「換気扇が回り、空気を吸い込む。その空気は本来建物の外に流れる筈だが――弥彦?」

「ああ。ここの吸気は配管を通って、そのまま会議室の排気口から出ちまってる。シャワー室の脱衣場で使われた消臭剤、制汗剤や香水なんかの匂いが会議室へ流れているんだな」

「そ、そんなこと?」


 花丸が目を丸くした。


「弥彦に確認させたら隣の女性用更衣室も同じ構造になっているようだから、そちらが源になる場合もあっただろうな。騒動の度に漂った匂いは違っていた筈だが、嗅覚の情報は口頭で伝えにくい。てっきり全員が同じ匂いを嗅いでいると思い込み『幽霊の仕業』という尾鰭が付くに至った。という訳で、ここの設備は――」と風見が青ヶ幾に向き直る。


「――改善の余地あり」


 その言葉を聞くや、青ヶ幾は満足そうに頷いた。


「ほっほっほ。そのようですねえ。幽霊に会えなかったのは残念ですが。仮屋課長、設備課に吸排気の構造の確認と、工事の手配を依頼してください。現象がなくなれば怪談も尻すぼみに消えるでしょう」

「は、はい……二度とこのようなことが起こらぬよう……」


 仮屋は青ヶ幾と風見を見比べて困惑した様子だった。


「総務に多数相談が寄せられているのに、上司のあんたの耳に入らなかったことがおかしいけどな」

「報告を徹底させる」


 部下を横目で睨み付ける仮屋に聞こえない位の声量で、風見は「……信頼の問題な気がするけど」と呟いた。

 何となく静まり返った場に、ぶうん……と換気扇の動作音が鳴る。


「ふん、ほら見ろ。幽霊なんて存在しなかったねェ」


 誰に向けてか、仮屋は得意気に笑った。


「俺は、ここの会議室の一件については霊と無関係だと証明しただけだ」


 淡々と反論されて仮屋はぎょろっと目玉を転がした。風見と仮屋が互いに睨みを利かせ合う。


「でも麦野さんの足首には……」


 米山が言いかけたのと青ヶ幾の呟きが重なった。


「……馬榎主任の行方が気に掛かりますなあ」


 彼は己のたっぷりとした白髭を撫ぜる。


「花丸さん、彼の工場から連絡は?」

「まだ戻っていないようです」

「暫く様子を見ますかねえ」


 悠長な青ヶ幾と対照的に、仮屋は焦れた様子で何かを言いたそうに口を開いては閉じを繰り返し、やけに落ち着かない。


「仮屋課長。どうしましたか?」

「そ、その、実は……お伝えし忘れていたのですが、馬榎主任は非常用鍵を持っていまして」

「アジロの敷地内各所に掛けられた電子鍵を開錠出来る鍵ですね。必要に応じて管理職には貸し出していますが、どうして馬榎主任が?」

「馬榎は内々に課長昇進が決まっております。生産部の、現任の管理職の推薦です。それで辞令に先立って管理職業務に就かせたいからと生産部長に頼まれて貸与を……あ、あくまで現場の判断ですよ!」

「あの鍵はうちの部長の承認がなければ渡せない筈では?」


 仮屋がじろりと花丸を睨んだ。


「我々の部長は不在だ。代理を任された課長権限で決定して問題があるのかねェ?」

「あ、ありませんね……」


 花丸が俯き加減にちらりと青ヶ幾を見る。青ヶ幾は両手を杖に置いたまま表情一つ動かさない。


「花丸さん、至急電子錠の解錠履歴を確認してください。彼は正気ではありません。何かトラブルを起こされてからでは遅い。もし怪しい出入り記録があれば漏れなく報告していただきたい」

「わかりました。非常用鍵は普段使われませんから、履歴があれば馬榎主任だと判断していいと思います」

「では俺は設備部へ行こうか。そこの風見の言うように給排気の不具合をやり直して貰わないといけないからねェ。米山は工事依頼書を頼むよ」

「は、はい。課長」

「ほっほっほ……何事も無いと良いのですが……」


 次々に退出し、更衣室には風見、弥彦、麦野の三人が残された。

 麦野は相変わらず手帳を文字で埋め尽くしていたが、頃合いを見計らって口を開いた。


「風見さん、あの……」

「何だ?」


 藁細工をお手玉にして投げて遊びながら風見は答えた。


「風見さんは会議室の幽霊はいないと仰いました」

「そう説明したつもりだけど」

「で、では、どうして私の足首に手形なんか付けたんですか?」


 風見の手がぴたりと止まる。


「おいおい、俺はそんなことしてねェよ」


 口角を歪めて笑うのは彼の癖らしい。

 捻挫の痛みもないのに麦野が医務室へ行ったのは、風見の居ない場所で手形の詳細を確かめたかったからだ。ストッキングに付着した赤い液体は一見すると血液かと思ったが、鉄の匂いもしないし乾き方も均一で不自然。


「あらかじめ指先にインクか絵具を手に塗っておいて、私の足首に触れた際に付着させたのですよね」


 伸びが良い水性インクなら、指先にほんの少し付けておくだけで十分だ。


「とんだ濡れ衣だぜ」と風見が両の掌をひらひらと見せる。


「どうして俺様がそんなくだらない細工をする必要があるんだよ」

「知りませんけど……子ども騙し過ぎやしませんか?」


 麦野なりの精一杯の厭味をぶつける。どうせ就活生をからかいたかったとか、そんなところだろう。目も合わせずに飄々とした態度の風見に麦野は少しばかり苛立った。


「こんな悪戯をする位だから降霊術をやり始めると言った時も怪しんでいたんです。案の定ペテンでしたね」

「ペテンとは人聞きが悪い、前座と言ってくれ。せっかく謎解きをするのに娯楽性に欠けちゃあ聞く方も退屈だろ」


 ただ面白がっていただけじゃないか。皆真面目に取り合っていたのに何だこの人は。

 ――私だって少し、乗せられてしまった。


「オカルト愛好家だか何だか知りませんけど、そんなの、怪談にも不誠実ですよ」

「怪談に誠実も不誠実もあるかよ。大体あんたの話も……沈丁花の祟りだァ? ンな眉唾な。金持ちが殺されたってだけの話に尾鰭がついて幽霊話に仕上がったってだけだろ」

「な」

「未解決事件を面白可笑しく野次馬が脚色したか、あるいは捕らえる訳にはいかない下手人を庇うための方便だ。どこが誠実なんだ」

「私が言いたいのは怪談の真偽じゃなくて、語る側の姿勢について――」

「……ぷっ」


 やり取りを聞いていた弥彦が堪えきれずに笑い始めた。明るい声に遮られ、麦野と風見は揃って言葉を呑み込む。

 しまった。こんな風に言い争うつもりじゃなかったのに。年上相手に刃向かうなんて自分らしくない。


「聞いてりゃ、どっちもどっちだよ。君ら良い相棒になるんじゃない?」


 風見は「俺に相棒なんて必要ねェよ」と軽くあしらう。


「わ、私も御免です!」





 風見はすでに麦野と喋ることに飽きたらしく、片手で藁細工を投げ、受け取り、再び投げ、と手遊びを繰り返した。

 無為な時間が流れる。

 もう面接が再開される様子はないし麦野がそろそろ帰宅を申し出ようか……としたとき、半端に開いたブラインドから一瞬明るい光が差し込んだ後に雷鳴が轟いた。


「ひと雨来そうだな」


 弥彦がブラインドの隙間から外を覗き見る。天井の蛍光灯が一斉にふっと消え、直ぐに点灯する。


「停電……?」


 直後、甲高い悲鳴が空気を切り裂いた。

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