第5話 沈丁花の伝承



 医薬品独特のつんとした臭いが鼻をつく。

 ここは医務室。

 椅子を回し、麦野は包装袋をごみ箱に放った。


「麦野さん。救急箱を持ち歩いてるなんて感心だけど、ここの湿布を使ったら良かったのに。一枚くらい平気だと想うぜ」

「部外者なのに申し訳ありませんから……こうして休ませていただいているだけでも……」


 あれから、花丸は風見に指示されどこかへ行ってしまい、米山は再び馬榎の捜索へ向かった。麦野と共に残ったのは弥彦設備の弥彦しんである。


「帰ったら病院に行った方がいいぞ。捻挫は癖になるからな。昔はアジロにも診療所があったらしいけど」


 ベッドに寝転び、弥彦は欠伸をした。まるで社員のように我が物顔で安らいでいる。

 麦野は自分の足首を撫ぜた。

 それまで半信半疑だった怪談が、麦野の足首に巻き付いた手形を証拠にして真実味を帯びてしまった。


「……風見さんって方は、霊能者なのですか」

「はは」


 弥彦が苦笑したので、変な質問をしてしまったかと冷や汗が伝う。


「そう見えるかい?」

「見えません」と彼の出で立ちを思い浮かべながら答え、「けれど怪談にお詳しいというか、幽霊退治にご熱心みたいなので……」と続けた。


「幽霊退治ねえ。まあ、オカルト愛好家ってとこかね。しかし姿が見えるならともかく匂いだけってのも珍しく謙虚な幽霊じゃないの」


 普通ならこう――と手首を曲げ、幽霊のお決まりの格好をして見せた。寝たままの怠惰な幽霊だ。


「いえ。そう珍しくも無いですよ。幽霊が出る際に不思議な匂いがするという話はたまにあるんです」

「へえ?」


 言ってから、ぶわと汗が噴き出した。しまった。つい、つまらない話を口にしてしまった。こんなことを言われて弥彦も反応に困るだろう。


「その話、聞かせてくれよ」


 弥彦は起き上がり、パイプ椅子に腰掛けた。


「えっ。すみません、気にしないでください。私、よく変なこと口走っちゃう癖があって」

「何か参考になるかもしれないし。それに……俺達、風見が戻って来るまでやることないんだから。お兄さんの暇潰しに付き合うと思ってさ」


 椅子に胡坐を掻いてにこにこと待つ弥彦に麦野は根負けし、「じゃあ――」と手帳を開いた。



   *



 ――とある地方に伝わる話。


 行商人の男が旅の途中、昔馴染みの友人の屋敷に立ち寄ることになった。

 久方振りに会った友人は商いが可成り上手くいっているらしく、この屋敷も近頃建てたばかりなのだと云う。梁の巡らされた大層立派な造りで、表や裏から幾人もの使用人達が出入りし、確かに羨ましい暮らしであったが……男はどうにも落ち着かぬ。

 それはどこからともなく漂ってくる匂いの所為だ。

 縁側から臨める庭は、さっぱりした友人の気性その儘に樹木の一本も無く平らに整えられている。当然、花を愛でる性質でも無かろう。

 屋敷中に充満する甘ったるい匂いは一体何処からするのかを尋ねると、友人は「よくぞ訊いて呉れた」と云わんばかりに意気揚々と語り始めた。


「実はな、この屋敷に越して以来、夜な夜な甘い芳香が漂ってくるのだ。しかし見ての通り庭の木は手入れが面倒で一つ残らず伐ってしまっているし、香る花も生えておらぬ。まあ悪い匂いでも無いし不思議に思いながらも香りを楽しんでいたところ、現れたのよ」


 誰が。否、何が――と訊くべきだった気もするが。

 男は行商人の食い入る眼差しに満悦し、愉しむように声を潜めた。


「女だ」


 ――女?


「特別匂いの強い晩、それはそれは美しい女が現れたのだ。如何にして屋敷に忍び込んだのか……いや、それどころか俺は、丁度、今の俺とお前のように庭を向いて座って居ったのにまったく気付かなんだ。まるで夜霧と共に湧いたのか、何時の間にか庭に佇んで居るのだからチョット不気味であろう。

 しかし、だ。

 その女はすすっと俺の隣に来て、にこりと微笑む。その唇が可愛いったら。俺も惚けてしまってなあ。女は容姿も良ければ話も面白いし、酌も上手い。すっかり酔い潰れて、朝は一人で目が覚めるという始末よ。

 それがもう三月も続いて居る。いや呆れて呉れるなよ。お前も会えばわかる。是非とも連れ歩いて自慢したいところだが、素性も一切わからぬ女。かと云って使用人や余所様に会わせるのも惜しい。だから旧知のお前を招いたのだ」


 行商人は困り果てた。

 友人がその奇っ怪な女を自分に会わせたがっていることは理解した。器量の良い女を嫌う男など居らぬ。

 ……だが、その女は魔か、化生の者としか思えぬ話。各地で商いを営む仕事柄、行商人はどんなに奇怪しい流言も警戒することに決めていた。

 昔馴染みの頼みに心は揺らいだが、天秤は保身に傾き、行商人は泊まらずに屋敷を後にした。

 薄情かとも思ったが、我が身には変えられない。



 それから幾月過ぎ、行商人は友人の近況が気掛かりだった。関わるまいと一度は決めたが、迷った末、行商人は行先を友人の屋敷へと変えた。

 すでに二年が経過しており、あの立派な屋敷は何処にもなかった。目の前には荒れ放題の襤褸屋が一軒。行商人は驚いて近所に訊いて回った。

 行商人が去った年、屋敷の主人は庭で変死を遂げたと云う。

 それで共に商いをしていた叔父夫婦が屋敷を譲り受ける運びになった。夫婦の好きに庭を造り変えようと地面を掘り起こしたところ、下から枯れた沈丁花の木が現れた。それが丁度、男の亡骸のあった辺り。


「屋敷が匂うことは使用人達も皆気味悪がって居たからねェ……。それで辻褄が合ってしまったという訳で……」


 叔父夫婦は屋敷を手放してしまった。買い手もつかず屋敷は朽ち、沈丁花の祟りだけが今もこの土地で語り継がれている。



   *



 話し終えて手帳を閉じたとき、弥彦は顔を真っ青にしていた。


「えっと。こういう話は苦手でしたか?」


 顔を背けた、その仕草が答えだった。話をせがんでおきながら相当の怖がりらしい。


「そ、そりゃ……屋敷の主人は伐った沈丁花の霊に憑き殺されたってオチかい」

「どうでしょう。こういう風に、類似した話が各地に残っています」


 弥彦は自分で自分を抱き締めて震えた。


「気持ち悪ィ」

「匂いと言えば――」と麦野が再び手帳を開き、ぺらぺらと頁を捲る。


「――他にもありますよ。山道で突如甘い香りがし、そのまま遭難してしまった話とか。あとは幽霊ではなく妖怪ですけれど、『ぬっぺほふ』というのも居ます。あの鳥山石燕も『画図百鬼夜行』にも描いた妖怪で、屍臭がして臭いんだとか。他には――」

「待った、待った」


 弥彦が掌を向け、麦野の早口な喋りを遮る。


「随分と詳しいじゃないの。まさか……麦野さんオカルト愛好家なのかい」

「大学で民俗学を専攻しているだけです」


 またしても汗がじんわりと滲む。

 悪い癖が出てしまった。


「じゃあ意外に風見と気が合うかもなァ」

「私はオカルトオカルトに傾倒しているわけではなくて――」


 ――というのを上手く説明出来る自信は無く、手帳を閉じて、もう何も余計なことは口走るまいと口を噤んで誓う。


「麦野ちゃんとしちゃ、さっきの会議室の一件も珍しい現象ではないと思う?」


 呼び方が変化したのに気付いた。弥彦は人懐っこいというか、人との距離の縮め具合が早いらしい。


「私のはあくまで民話の世界ですから……実際に起こっている現象とは話が違いますよ」


 伝承を集め、聞き、語るのは面白い。語られた土地の環境や人の心理、その時代や土地柄の差異または共通点……伝えることで得られるのは、過去から未来への時の流れに身を投じられるような没入感だ。

 そういうロマンばかり追い掛けているからいざ現代を生きるときに置き去りを食らう。他のゼミ生は上手く折り合いを付けて努力しているのだ。同じゼミで進路が決まっていないのは麦野ただ一人である。


「会社にも怪談があるものなんですね……」


 いけないと思いながらも好奇心が顔を覗かせる。


「アジロは特別さ」


 弥彦が座る椅子がきい、と軋んだ。


「俺は色んな会社さんに出入りするけどアジロは何というか――」と言いかけ、言葉を濁す。


「――いや、就活生に言うことじゃなかったな。……まったく風見はどこをほっつき歩いているんだか」


 丁度がらりと引き戸が開き、風見を先頭に花丸、米山が入って来た。


「噂をすれば影だな」

「は? あんた、具合は大丈夫か」


 風見があちこち動き回ったのか、金髪が汗で額に張り付いている。麦野は起立し、「捻挫は大したことはありません。ご心配をお掛けしました」と頭を下げた。


「そっちじゃなくて……怖くないのか?」

「怖い?」


 麦野は顔を上げ首を傾げる。訊き返してから、あの手形のことを気遣われたのだと遅れて理解した。


「大丈夫。麦野ちゃんもお前と同じで、怪談が好きらしいよ。今だって聞かせて貰っていたんだ。な?」


 弥彦がにやにやと答えてしまい、きちんと訂正しなかったことを後悔したが、これまた遅かった。弥彦が沈丁花の伝承を他の三人に聞かせるのを麦野は俯き加減で待つ羽目になった。


「面白い話ね。そういえば履歴書に民俗学専攻だと書いてあったものね」

「匂いと言えば、僕も聞いたことがあるんだけど」と意外にも、米山が話に乗った。


「俗に、幽霊が出る時にはある一定の反応があるという説があって、匂いもその一つなんだって。親しい人の霊ならその人の懐かしい匂いがし、悪霊なら獣のような生臭い異臭がすると言われているんだ」

「いきなりオカルトらしくなったな……」

「米山君の新たな一面だわ……」


 暗い表情を浮かべる弥彦と花丸を見て、「テレビか何かで聞いた話だから」と米山は慌てて付け加える。

 変な方向性に舵を切ってしまったのを修正しようと麦野も慌てて会話に割り込んだ。


「私の話も真偽の程はわかりません。沈丁花は枯れても香ることがあるそうですし、幽霊とは無関係の思い込みかもしれません」

「思い込み?」


 風見が、麦野の放った言葉を繰り返す。


「え? ええ」

「成程」


 風見が医務室のベッドに腰掛け、同じ目線の高さで麦野を見据えた。

 何か不味い発言だったろうか。


「じゃああんたはこう言いたいわけだ。――本件も、死んだ派遣社員と会議室の現象は無関係だと。会議室の幽霊なんてものは思い込みの産物だと」


 麦野は呆気に取られて風見を見つめ返す。ぱく、と口だけが開く。

 誤解だ。そんな意見は述べていない。

 咄嗟に反論できずにいると卓上の固定電話が鳴った。応答した花丸が「青ヶ幾参与?」と口にする。


「……はい……はい、承知しました」

「青ヶ幾参与は何と?」と米山が訊く。


「進捗はどうかって――その――風見君の。どういう意味かしら」


 花丸と米山の視線を受け、風見は立ち上がった。


「爺さんはせっかちだな。良いだろう。全員、会議室に集まってくれ」

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