第4話 心霊現象
薄らと残り香が漂う会議室。
花丸が溜息混じりに打ち明ける。
「――この現象が始まる少し前のことよ。アジロに勤めていた派遣社員の女性が、派遣契約が終了した直後に自殺したらしいの」
自殺。物騒な内容に麦野は内心たじろいだ。
「それが本当なら、辞めた後のこととはいえ
「僕はもう少し詳しく聞いたな。優秀な女性だったけれど、上司の所為で辞めさせられたから会社を恨んでるって」
「ああ、もう。だから厭なのよ……下手したら幽霊より怖い労基が来るわよ」
「人が死んでるってのに冷たい言い草だな、花丸ちゃん」
弥彦が彼女の腕を小突く。
「あのね。亡くなった方の素性がわかっていれば対応のしようがあるわよ。それすらもわからない曖昧な噂話が原因で、『人事が社員の自殺を見て見ぬ振りしている』なんて理不尽な陰口を叩かれる羽目になるの」
「そうそう。これだから間接部門は……ってね」
「総務の苦労を誰もわかってないんだからっ!」
部外者の自分が聞いて良い話ではない気がして、麦野は手帳を読む振りをしてやり過ごそうとした。
「そこのメモ魔」
花丸達がお喋りを止め、麦野を見る。麦野も後ろを振り返る。
「あんただよ」と無遠慮に指を差されて麦野は「は、はい」と向き直った。
「あんたを記録係に任命してやる。これから見聞きすること、しっかり書き留めておけよ」
「え?」
なんと横暴な。
しかし妙な展開に身の置き場がなかった分、記録係の名分が出来たのは有難くもある。
「そもそも、どうして辞めた派遣社員が死んだとか、ンなことがわかるんだよ」
「おかしいことなのかい」
弥彦が質問を返す。
「派遣社員ってのは会社に直接雇用されている社員と違って、あくまで派遣会社を介して契約しているから派遣先に開示される個人情報は限定される。派遣法ってのがあるんだよ。社員が派遣社員に連絡を取りたい場合、原則は派遣会社を通さなきゃならない。契約が終わっているのなら尚更だ」
花丸は「法の上ではそうなんだけど」と割り込む。
「実際は、社員が連絡先を聞いていることはままあるわよ。派遣会社との同意なく勝手に聞き出したり……幾ら人事が注意したって『派遣社員の連絡先もわからないんじゃ仕事にならないし、いちいち人事に報告している暇はない』とか何とか言い返されてにべもないわ。彼女の場合もそんな感じだったんじゃないかしら」
ふん、と風見が鼻を鳴らす。
「でも、どこの誰が死んだのか特定出来てねェんだろ」
「ええ、まあ、そうだけど……」
「つまり、そういう曖昧な噂を流すのに派遣社員って設定が打ってつけだったのさ。死んだのが社員なら特定出来ない筈がないから、怪談の信憑性が薄れる。しかし派遣社員なら曖昧になっても不自然じゃない。上手い怪談だな」
腰に手を当て、皮肉めいた口調で捲し立てる。
てっきり風見は怪談を鵜呑みにして調べているのかと思い込んでいた。そこまでの変わり者ではないらしい。
「じゃあ、亡くなったというのは嘘かもしれないってこと?」
「そうは言ってないだろ。怪談が成立する条件が整ってるって話だ。しかしこんな簡単に怪談が広まるなんてアジロの社員はどいつもこいつも短絡的すぎるぜ」
「確かになァ。ただ匂ったってだけなんだろ? これしきの現象で大の大人が逃げ出すのは解せないなぁ」
弥彦は馬榎が倒した椅子を起こした。その隣で、風見が床に膝をつく。馬榎の靴底が、黒く線を引いた跡。
「……怪物にでも遭遇したような顔だったぜ。馬榎は普段からああいう、情緒が不安定な奴なのか?」
「いいえ。どちらかと言えば冷静な性格で部下の信頼も厚い人だけれど、雰囲気に呑まれたのかもしれないわね」
「雰囲気?」
「うちの会社は変な風習や噂が多いから、ちょっとしたことも無闇矢鱈に怖がる人が多くって、怪談が広まりやすい風土なのよ」
「何つー会社だよ」
手帳はあっという間に埋まっていく。静かにペンを動かす麦野を横目で見ていた風見は、特に話し掛けはしなかった。
「……怪談はリスク管理の不十分によって発生する」
「どういう意味よ?」
「つまり経営を脅かす何かが発生する可能性が高まっているということだ」
「大袈裟ねぇ」
花丸は苦笑したが、弥彦も米山も笑わない。
どん。
またしても物音がし、一同はびくりとした。外で作業する清掃員の影が揺らめいていた。鳩の遺骸の回収に来たらしい。
気まずい沈黙の中、麦野がかりかりと書き込む音が響く。
「ンなことも察せねェとは、あんた社会人何年目だ?」
「五年目よ」
やれやれ、とわざとらしく呆れた格好を取る。花丸は詰め寄ろうとしたが、思い直したように米山に向き直り、行き場のない怒りを彼の肩をぽかぽかと叩くことで鎮めた。
「米山。あんたはいつ頃に噂話を耳にしたんだ?」
「ええと」
麦野は声が聞き取れる程度の距離で、遠巻きに風見を見つめた。
変わった男性だ。
幽霊を肯定しているようだけれど怪談を頭から信じている口振りでもない。中立と言えばそうなのだが徹底して事務的という風でもなく、どこか面白がっている印象を受ける。
会議室の窓ガラスには乾いた血痕が付着したままだった。清掃員が拭き忘れたのだ。
空調が強いせいか寒気がする。
渇いた窓の血痕がつうと流れた。
その向こうに女が立っている。
麦野と同じ位の背丈の女が、額をガラスにへばり付かせ会議室を覗き込んでいた。鳩の血が女の頬を伝う。泣いて何かを訴える。
――幻覚だ、これは幻覚だ。
「あんた、どうした。しゃがみ込んで」
「いえ……今朝、捻った足が痛んだだけです」
手の震えをさっと隠す。
痛みで紛らわされたお陰か幻覚は消えていた。
「電車から降り損ねたり怪我をしたり、とことん鈍臭い奴だな」
毒づいてから、風見は麦野の足元に屈んだ。
「見せてみろ」
「えっ。いいです、いいです!」
急な接近にどぎまぎする。
横柄さに気を取られていて気付かなかったが、風見の顔立ちはなかなか端正である。
「これ、どうした」
「だから捻ったんですよ」
そんなに深刻な顔をされるとは、もしかしてひどく腫れているのだろうか?
花丸までもがわなわなと麦野の足首を指差す。つられて目線を落とした麦野も小さく声を漏らした。
「な――何ですかこれ」
人の指程の大きさの赤い痕が三本、足首にくっきりと付いていた。
「どこで付けたか覚えはあるか」
尋ねられ、麦野は首を振る。
手形。まるで誰かに掴まれたよう。
ストッキングの上からそっと手形に触れるとべっとりとした液体が指先に付着した。
各々が会議室のあちこちに視線を這わす。残り香が薄れる代わりに、何者かの気配が濃厚になる。
この会議室は何かがおかしい――と全員が共通認識を持ったことで、会議室が違う表情を見せ始める。
「全員、会議室から出ろ」
ぎいい……と重い扉が閉まるのを、誰もが黙って見つめていた。
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