第3話 第一の怪談

 突如として部屋に充満した濃い芳香。形容しがたい古典的な匂いが、いつか嗅いだような懐かしさを伴って鼻をつく。……こんな妙な香りは初めて嗅ぐので、単なる印象だ。

 麦野はげほげほと激しく咽せた。


「これは……君の香水か?」と仮屋が麦野に顔を向けた。咳込みながら慌てて首を振って否定する。


「麦野さんならば入室された際に我々がわかります」


 こつこつと青ヶ幾の杖が音を鳴らす。扉は馬榎が出て行ったきり開け放たれたままだ。


「それより馬榎主任が心配ですね。どなたか若い方に追っていただきたいのですが……」

「米山」


 米山の肩が跳ね、その拍子に黒縁眼鏡が鼻から滑った。ぎょろりと仮屋が睨んでいる。


「僕ですか?」


 何か言いたそうにしたのを「――わかりました」と米山は呑み込み、駆け足で退出した。


 社員らの輪から外れ、麦野は事の成り行きを見守るしかなかった。


 面接はどうなるのだろう。このまま続行するのか、それとも中止されるのか。中止の場合、別日程で再調整してくれるのだろうか?

 就職活動は少しばかり、いや、大いに運に左右される。体調不良で本調子が出ないまま終わることもあれば、悪天候で面接時間が短縮されることもあるし、グループ面接で一人の失敗が全体に響いてしまうこともある。

 幾ら健康に気をつけても、早めに行動しても、揺らがぬ精神を持とうとしても、覆せない不運はある。

 もし、この中断された面接をもって評価が下されるとしたら、いつかの面接のように「印象に残らなかった学生」として不採用になるかもしれない。


 ――それは困る。自分にはもう後がないのだ。


 風見が「あんたは何をしているんだ?」と尋ねた。


「いつ面接を再開していただいても大丈夫なように座っています。……立った方がいいですか?」


 一同は麦野を見下ろした。騒然とした会議室で一人だけ変わらずに着席している麦野は、彼らには異様に映ったらしい。

 それをあからさまに顔に出したのは仮屋だった。


「はァ?」


 不快感を露にされ、麦野は自分が変なことを言ったのだと悟った。


「君はこの状況で――」と言いかけたのを遮り、青ヶ幾が麦野に頭を下げる。


「いやはや、せっかくお越しいただいたのに弊社の社員がご迷惑をお掛けしました。重ねて申し訳ないのですが、面接は一旦中断とさせてください」


 麦野は表情を崩さず、小さく俯く。


「い、いえ。こちらこそ……えっと……承知いたしました……」

「仮屋課長。私は次の予定がありますので、ここはお任せしてもよろしいでしょうか」


 青ヶ幾が会議室を出て行ってしまうのを見て、麦野は落胆した。

 中断とは言われたがこれで面接は終了だ。何せ一番偉い役職者だろう青ヶ幾が退場してしまったのだから。

 元はと言えば自分が遅刻した所為で本来の面接官が揃わなかったのに、こうなってしまっては代替の面子もこの後の予定があるかもしれないし、なかったとしても、あの馬榎氏の対応に当たるのに違いない。……代替の更に代替なんて考えにくい。

 ぼそりと誰かが「不器用そうな学生だな」と言うのが聞こえた。


 アジロが頼みの綱だったのに――。

 助け舟だと思ったのに。


 青ヶ幾と入れ替わりに会議室に入って来たのは、花丸だった。


「何かあったのですか?」

「さあ。俺に訊かれても――」


 仮屋が歯切れ悪く答える。


「――訳がわからないねェ。馬榎が一人で錯乱して部屋を飛び出して、それを米山が捕まえに行った。青ヶ幾参与は別件で退出。面接は中断だよ。大事な時期なのになァ」


 ぶつくさと呟く仮屋の隣で、花丸はすんっと鼻を鳴らした。


「この匂いは何ですか? 懐かしいような変な香り」

「妙だろう? 急に漂ってきた。きっと誰かの香水だろうけど」と視界の端で麦野を見る。


「……急に?」


 花丸の顔がさっと強張った。


「じゃあ、あの怪談は本当だったのね……」

「怪談?」


 あっ、と花丸は顔を歪めた。口を滑らせたことを悔いる表情だ。


「怪談って何のことだよ」と風見まで食いつく。


「その……ただの噂よ。この会議室にどこからともなく香水の香りが漂うとき、女性の幽霊が現れるって……」


 女性の幽霊。

 麦野は自分の幻覚を思い出し、その想像を頭から追い出そうと頭を振った。


「そういうことかァ……。だから最近、部下がこの会議室に入るのを嫌がっていたのか」


 仮屋が納得した声を漏らす。

 そして腑に落ちたところで怒りが遅れて湧いてきたらしい。


「くだらないねェ。自覚が足りないよ!」


 急な大声に麦野は肩を竦めた。仮屋の唾が空中に飛び散る。


「その幽霊とやらを見た人間が居るのか?」

「い、いえ。目撃者は……」

「ほら見ろ」


 仮屋は失笑した。


「見てもいないのにどうして幽霊だってわかるのだろうねェ。そうやって自分の頭で物事を考えていないから幼稚な怪談に踊らされるんだよ」

「あ、あたしだって幽霊を信じている訳ではありませんけど。報告は一度や二度じゃないんですよ。色んな部署の社員が体験しているんですから。その場に男性社員しか居なくても匂うんだとかって」


 花丸はなぜか言い訳するように補足した。彼女も会議室を忌避していた一人なのだろう。

 それを仮屋は宥めるように、莫迦にするように反論した。


「男性でも香水を好む人は居るだろう? 香水でなくても柔軟剤や、制汗剤……整髪クリーム、挙げれば幾つもある。何も奇怪しいことじゃない。怯える前にきちんと原因を調べたのか、上司としちゃアそれが訊きたいねェ」

「も、勿論、調べましたよ。その場に呼ばれて確認してみましたが匂いの源はわかりませんでした」


 説明しながら花丸はどこか不服そうだった。花丸を責めんとする仮屋の態度が気に障ったのだろう。社員同士のぴりついた空気に肩が竦む。


「じゃあ馬榎が逃げたのは、もしかして――」


 風見の言葉が割り込んだ。


「――幽霊に怯えたのか?」


 恰幅のいい成人男性がああまで恐怖に支配されて取り乱す姿は、見た者にも衝撃を与えた。その原因が幽霊とは……まさか。


「それで、君はさっきから何を書いているのかなァ?」


 麦野は手帳に走らせるペンを止め、「あ、メモを取っています」と小さく答えた。


「メモぉ?」と言いかけた仮屋は、言葉の途中で部屋を出て行こうとする風見に注意を奪われた。


「そっちの君はどこへ行くんだ」


 呼び止められ、風見は無表情に振り返る。


「仕事だけど」

「おいおい、勝手に行動してくれるなよ。君は……」


 最後まで聞かずに、風見はひらひらと手を振って退出した。


「あいつ。風見……輪昇介りんのすけとか言ったかな。名は体を表すと言うが――」


 呆れた口調で、仮屋は誰にともなく話し掛けた。


「――風見鶏のような奴だなァ」


 閉まったドアを不服そうに睨む仮屋を、花丸が不安気に見つめ、居心地悪い静寂ばかり溜まる。もう帰って良しと言われれば従うのだが誰も言い出さない。他の事柄に気を取られて麦野の存在を失念してしまっているようだ。一瞬だけ思い出してくれた仮屋も、もうこちらを見なかった。

 自分から切り出すべきだろうか。またズレたことを言って変に思われるかもしれない不安が足を引っ張る。


 ばたばたと音が聞こえ、米山が部屋に戻って来た。


「馬榎主任は見つかったのか」

「そ、それが……見失ってしまいました」

「はァ? そんなに速く走れないだろう、あの体型で」


 仮屋が苦々し気に言う。

 息を切らした米山は、眼鏡を整えて「でも居ないんです」と主張する。


「あたし、馬榎主任の工場に連絡を入れてみるわ。その内に持ち場に戻るかもしれないし。米山君はもう少し捜してみて」

「了解……。そうだ――仮屋課長。風見さんが業者の人と一緒にうろうろしているのを見かけましたが……良いんですか?」


 仮屋の顔がみるみる赤味を帯びる。


「とても良くないねェ!」


 会議室の外の廊下にて、風見は天井を見上げて佇んでいた。仮屋がつかつかと詰め寄る。


「風見ッ。勝手にうろうろするんじゃない」

「ああ、悪ィ悪ィ」


 風見はまったく悪びれずに、「会議室の幽霊がどこに居るのか捜していたんだ」と答えた。


「はァ?」


 仮屋が眉を顰める。


「まさか、幽霊が出るとかいう噂を信じたわけじゃないだろうねェ……」

「へえ? あんたは幽霊を信じないのか?」

「信じるほど幼稚でも暇でもない。それよりもっとやるべきことが……あっ、そうだ」


 わざとらしく腕時計を掲げ、仮屋は微笑んだ。


「いけない、別用を思い出した。俺はもう行かなきゃならない。ここは君達に任せるよ」

「ちょ、ちょっと課長、麦野さんの面接はどうするんです?」


 仮屋は「ん……」と麦野に振り返った。すっかり忘れていた、と顔に書いてある。


「それも任せるよ。今日のところは帰しても構わないし」

「任せるって、課長」


 仮屋はすたすたと歩き去る。

 唖然とした花丸に代わり米山が呼び止めようとするのを、風見が制した。


「放っとけ。あれは居ない方がやり易い」

「貴方が良くたって麦野さんが困るよ。こんな中途半端で帰されても不安だろうに」

「今日、この後の予定は?」と風見が麦野に訊いた。


「何も……」

「ああ、そう。あんた、たかが面接受けるためだけに大荷物だな。……弥彦やひこ

「うん?」


 風見の隣にいた業者が軽い返事をした。薄灰色のつなぎを着用し、手には作業用らしい大きな鞄。ラフな髪型と雰囲気から『地元の気のいい兄ちゃん』といった印象を持たせる男性だ。


「弥彦設備さん。彼と知り合いなの?」


 弥彦は頭を掻き「ええ。実は、友人で」と答えた。


「まさか風見がアジロさんに世話になっているとは知らなかったから、さっき会って驚いた。ところでお嬢ちゃん――」と今度は弥彦が麦野に尋ねた。「――どこかで会ったことない?」


 弥彦の言葉に麦野は「えっ」と声を漏らした。典型的なナンパの文句に驚いたのではない、同じことを考えていたからだ。


「たぶん、以前、会社説明会の日にお会いしました。お声を掛けていただいて……」


 あの日は大勢の学生が参加していた。仮屋や花丸ですら麦野の顔を覚えていなかったのに、弥彦は余程記憶力が良いらしい。


「そうだったか。随分長いこと就活してるんだなァ」


 弥彦の気軽な一言が麦野の胸を抉った。


「顔見知りなら都合がいい。俺が仕事する間、弥彦、こいつの子守してやれ」


 親指で差されて小さく縮こまる。


「子守ィ? どうせ今日の作業は天候不良で延期になっちゃったし別に構わんけどさ。幽霊を見つけるって本気で言ってんのかい」

「ああ」


 風見は事も無げに答える。

 花丸がさっと壁を向いて吹き出した。


「……何が可笑しい?」

「ごめんなさい。幽霊を見つけるなんて……貴方見た目によらず可愛いのね。でもね、ここは会社なの。小学校じゃないのよ。幽霊探しなんてトイレの花子さんを面白がる子供じゃあるまいし、ねえ?」


 同意を求められた米山は、眼鏡を支えながら「そうだね」と苦笑する。


「あんたも怖がっていた癖に」


 むっとして、花丸が「あ、あたしは怖がってなんていないわ!」と反論した。


 風見は面倒臭そうに金髪頭を掻き上げた。


「多くの怪談には因果関係が示されている。例えば、誰も居ないトイレの個室からノックが返ってくるとする。これが〈結果〉だ。なぜそんな現象が起きるか。〈原因〉は、個室で亡くなった女の子の幽霊の仕業である」


 子ども心をくすぐる懐かしい怪談。麦野は小学校の古い和式便所を思い出す。扉の建て付けが悪く個室に閉じ込められたこともあったっけ。


「今回の場合、出所不明の妙な匂いが怪奇現象の〈結果〉だ。じゃあ〈原因〉は何か。あんたの言う通りここは会社だ。小学生じゃあるまいし、社員がただの怪談を怖がるとは考えにくい。……原因に心当たりがあるのだろう?」


 米山は風見の視線から逃げるように俯き、隣の花丸も同じように黙りこくった。


 ――本気で怪談を調査するつもり?


 やはり変わった会社だ、と麦野は思った。

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