一章

第1話 迷い子

 ぎゃあぎゃあと鳴くのはカラスだろうかと空を見上げたが、鬱蒼と茂る樹々と白煙で何も見えない。

 奇妙な工場だ、というのが率直な感想だった。説明会の日は学生が大勢いたこともあって今ほどは気にならなかった。こうまで寂しく、不気味な場所だったなんて。工場というより、まるで小さな村落のようだ。

 正門から伸びる幅広い一本道はゆるやかにカーブし、その随所から幾つもの小路が分岐する。小路はどれも蛇のようにぐねぐねと曲がりくねっており、一歩踏み込めば迷路さながらの複雑さ。建物を目印に進もうとすれば、立ち込める蒸気や白煙によってたちまち見失ってしまうので、目印の意味を成さない。

 背が高い樹幹、横に広がった枝葉が絡まり合い、視界を邪魔しているばかりか、坂も多い。なだらかに下っていたかと思えば気が付くと上らされている。そんな風だから遠目で見るのと実際に歩くのとで距離感が狂うのだ。

 これまでの就職活動で数々の会社を訪問したけれど、こんな場所は他にない。


 樹々はますます嵩を増し、道幅はみるみる狭くなり、道順を記した手帳を握る手に無意識に力が入る。ほんとうに、こちらで合っているのだろうか? もうとっくに到着している筈なのに、目的の建物が一向に見えてこない。

 総合棟は説明会の会場だったので外観は朧気に記憶している。とはいえどれもこれも似通ったコンクリート壁の四角い建物であまり自信はないけれど……。


 腕時計の針は、あと五分で面接の時間だと示していた。汗を拭うことも忘れてひたすらに道を突き進む。もう引き返す時間も惜しい。

 何度目かの分岐に突き当たり、ようやく見覚えのある建物が目に入った。あれだ。あれが総合棟だった筈――と麦野は足早に建物に近づくにつれ、安堵で汗が引いていく。


〈南A工場〉


 表札の文字を読み、汗が一気に冷えてしまった。ここじゃない。隣に薄らと残る四角い縁取りは、古い看板が外された跡ではないか? 恐らく場所が変わったのに違いない。つまり、もう面接に間に合わない……。

 選考に、落ちる。せっかくすべて上手くいった筈の道筋から、外れる。


 ――落ち着かなければ。遅刻しそうなときは、まず担当者に連絡をするのが基本じゃあないか。

 麦野は、震える手で電話番号を押した。発信音は鳴らずぷつりと通話は終了し、スマートフォンの画面を見ればなんと電波表示がない。山奥でもないのに圏外だなんて――と考え、はっと思い至る。まさか、駅前で鳩に襲われた際に落としたのが悪かったのでは……。


 空を覆う枝葉の模様がぞろぞろと蠢いて、麦野の足元に影を落とす。


 ――どうしよう。


 数十いや百社以上からされ続けた今、アジロを逃しては次の手はない。

 大半の会社が募集を締め切っていく中、アジロがまだ新卒の募集を受け付けていると知ってどれだけ安堵したことか。まさに助け舟だった。

 それなのに面接に遅刻してしまっては元も子もない。助け舟を自ら下りるようなものだ。そうだ、どこかで電話を借りよう。しかし、どの建物に入ろうか? 各工場では異物混入など品質への悪影響を及ぼすことがないよう着装基準が定められていると、説明会で言っていた。リクルートスーツでずかずかと踏み込んで良いとは思えない。

 目頭に涙が滲んだ。迷ったのも情けないし、その上、迷子になって泣くなんてみっともない……。

 深く息を吐き、頭を振って涙を乾かした。

 ざあ、と葉が擦れる音に取り囲まれながら、右へ行くか、左へ行くか、視線を泳がせる。

 樹木の幹と幹の向こう、やや拓けた場所に石碑が建っているのが見えた。〈仁〉と刻まれた文字は恐らく社訓だろうなと考えたとき、その後方を横切ったのは、人影。


 ――社員だ!


 一瞬しか見えなかったがきっとアジロの社員に違いない。あれこれ思考する余裕はなく、人影を追って木立に分け入った。


「あの――」


 相手は急いでいるのか歩みが早い。踏みつけた枝がぱきぱきと音を立て、麦野も負けじと走るが、一向に距離が縮まらない。さすがに足が痛み始める。


「――すみません、ちょっと待って――」


 奥に行くほど手入れがされていないらしく、幹からは蔓が垂れて進みづらいし、突き出した刺々しい枝にスーツが引っかかり、背丈より高い茂みに人影が遮られてしまうと麦野は見失いやしないかと焦った。


「――あの、お尋ねしたいのですが!」


 十数メートル先で人影が立ち止まる。良かった、と麦野は足早に駆け寄った。


「すみません。私、採用面接に来た学生なのですが、総合棟までの道に迷ってしまって――」


 そこには、誰も居なかった。

 気付いてくれたと思ったのに、どこかへ行ってしまったのだろうか。この先はますます道が悪くなり、数メートル先も見えないような藪が生い茂っている。これ以上進むべきでないことは目に明らかだ。


「あの、誰か!」


 応答はない。


 麦野は上着を羽織り、身震いした。ここらは一日中、日差しが当たらないのだろう。冷え切った空気に体の芯から冷たくなってゆき、酷い寒暖差でこめかみが痛みだす。それに足も、鞄紐が食い込んだ肩も痛い。

 植物なのか薬品なのか……胸がざわつく匂いも漂っている。

 ぬっと飛び出た裸の枝が、幹から垂れ下がる蔓が、人の背丈の茂みが、不気味に見えて仕方ない。怖い。電車で見た幻覚のことを思い出してしまう。

 やめろと思っても想像力は止まってくれなかった。木立の幹と幹の間にぬっと立つ女の、両腕をだらりと垂らし、長い前髪から覗く恨めしそうな目。死んだように白い肌、斑模様の皮膚……。

 現実に現れるなんて、勿論有り得ないことだ。あれは鏡に映る幻覚なのだから。

 でも。もしかしたら。


 背後にぞわりと気配を感じた。


「おい」


 悲鳴もあげられず、喉が縮こまる。いや、どこかで聞き覚えがあるような……と麦野は強張った首をおそるおそる捻った。


「あんたが、麦野?」


 その金髪に、ふっと肩の力が抜ける。この特徴的な外見は忘れもしない。

 麦野が頷くのを確認すると、彼は大仰に溜息をついた。


「時間を過ぎても来ないから捜していたら、ここに入っていくのを見かけたんだ。一体どうしてこんな場所に」

「その、道に迷ってしまって……」

「ああそう。ったく、こんなときに限ってどいつもこいつも都合よくいねェんだから……どうして俺様が歩き回らなきゃならないんだよ」


 ぶつぶつと呟かれる文句に、麦野は「すみません」と謝る。その謝罪が聞こえていたのかいないのか、彼は唐突に名乗った。


「俺は風見かざみだ」


 麦野が会釈を返したのも見届けずに、彼は踵を返す。


「行くぞ。面接の時間をとっくに過ぎてる」


 さっさと歩き始める風見の背中を麦野は慌てて追いかけた。風見の登場のお陰で、雑木林を支配していた陰鬱な空気は大分和らいで感じられる。


「その、駅でも、ありがとうございました……」


 懸命に歩調を合わせる麦野を見向きもせず、革靴で乾いた枝葉をぱきぱきと踏み鳴らしながら「ああ」とも「はあ?」とも取れない声で風見は返事をした。

 それにしても彼の出で立ちは社会人としては少々変わっている。少々、で収まるのかはわからない。スーツに金髪だなんて繁華街ならともかく、こんな辺鄙な工場では目立つ。アジロはてっきりお堅い社風かと思ったが、案外に規則は緩いのかもしれない。


「アジロには初めて来たのか」


 風見が振り返らずに話し掛けた。


「あ、いえ。今春の会社説明会に参加しました。それで総合棟の場所は覚えていたつもりだったのですが……」

「総合棟はあれだ」


 風見が指し示した先に、真新しい白壁の建物が聳えている。


「正面の玄関を入って右、通路の突き当たりにある待合室で待っていたらいい。俺は道案内はここまでだ。今度は迷うなよ」


 早口に説明を終えて、一瞥もせずに去っていく風見を見送る。自信に満ち溢れた、しゃんと伸びた背中だ。その振る舞いは憧れもするが威圧的にも感じられる。二度も助けてくれた恩人に苦手意識を覚えるなど失礼なのだが。……それに、自分には到底真似出来ない。



 自動ドアが開き、肺が新築特有の匂いで満ちる。ここが新しいビルとは……。高そうな石が一面に敷かれた床、吹き抜けの天井から下がったお洒落な照明、中央に鎮座した螺旋階段。こんな立派な建物を新築するのだからアジロ製造の経営は上向きらしい。晴天ならさぞ明るく開放感があるのだろうが、今日は曇天のために却って冷え冷えとして感じられる。

 ロビーの壁は、全面が鏡張りだった。一瞬躊躇し、鏡を避けてはロビーを通り抜けられないとわかると、もし幻覚が見えても落ち着こう――と麦野は覚悟を決めた。俯いた視界の端にリクルートスーツの黒が映る。これは幻覚ではない。

 面接の前に鏡を見ておくべきだろうか? 家で身嗜みは整えたけれど、鏡を見ずにやったから少し心配だ。それに、久しぶりに自分の顔を見られたら面接の前に気持ちが落ち着くかもしれない。そう思い、鏡面の前に足を揃え、ごくりと唾を呑み、首をゆっくりともたげたら、途端にぐわんと視界が歪んだ。


「う……」


 麦野は額を押さえ、俯いたまま足早に鏡に背を向けた。

 幻覚は時々、眩暈を伴う。やっぱり無理だった。垂れた前髪をぴったりとピンで止め直して、風見に言われた通りの道順を辿りながら反省する。思いつきで余計なことはすべきじゃなかった。

「印象に残らないね」とはいつぞやの面接にて下された、自分に対する評価だ。普通に考えたら麦野の受け答えについて言ったのだと思うが、言葉のニュアンスとして外見を揶揄されたようにも思えた。どうしてそんなことを今、思い出すのだろう。



 待合室は案外に広く、立派な革張りのソファが鎮座している。遅刻した身で堂々と腰を下ろすのは無礼だろうと、起立したまま鞄を開き、ぎゅうぎゅうの荷物の中から手帳を引っ張り出した。そこには面接で想定される問答集や会社に関する情報を記してあるので、面接の前にはかならず確認するのだ。

 待合室の窓はそれぞれブラインドが閉まっていたり微妙に開いていたりと不統一で、薄い陽の光がまばらな縞模様を床に描く。


 手帳の頁を捲っている途中で、麦野は手を止めた。何だろうか。窓から入る日差しがブラインド越しに遮られている。……人の形に。

 麦野が身を固くしている間に、人影はすうっと窓から離れていった。ぎょっとして紐を引っ張ってブラインドを上げてみたが、近くに人の姿はない。

 ぷつぷつと鳥肌が立ち、麦野はそうっと窓から離れ、持参した水筒の普洱プーアル茶を喉に流し込み、深呼吸をした。

 きっと誰か、社員が覗いていたのだろう。神経質になり過ぎだ。


 静かにドアが開き、麦野はびくっと顔を向けた。

 姿を現したのは事務服姿の女性だった。


「本日は面接の時間に遅れてしまい大変申し訳ありませんでした……」

「いえいえ、事情は伺いましたから。こちらも案内が足りなかったようですし、お気になさらないでください。本日の面接を担当いたします人事の花丸はなまるはなです」


 麦野はもう一度頭を下げる。


「変わった名前でしょう」と笑った顔は、その名にぴったりな可愛らしさだと思った。


「弊社の選考は事前に受験していただいた筆記試験の点数と、本日の面接の結果を加味して合否を決定いたします。結果は後日連絡いたしますね」

「あ、はい。すみませんメモを……」


 ペンを握ろうと慌てて、手帳が手から滑り落ちた。あたふたと床に屈もうとする麦野を制して花丸が手帳を拾う。


「ふふ。そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ。気楽にね」


 花丸が敬語を崩した。

 緊張をほぐしてくれようとしているのを感じ、努めて笑顔で応える。が、頬は引き攣った。


「それと……面接の時間を変更した都合で、面接官も変更せざるを得なくて。不慣れで要領が悪い人も居るかもしれませんから念のため伝えておきますね」


 落ち度は自分にあるのだから、面接をして貰えるだけでも有り難い。


「麦野さんは緊張しやすいのかしら」

「は、はい。言葉が……すぐに出なくて」

「そうなの。面接官が困るのはね、本番で言葉に詰まってしまう学生よりも借り物の言葉ですらすら答えてしまう学生です。例えば買い物に行ったとき、商品が幾ら華やかに包装されていたって中身がわからなければ買わないでしょう?」


 面白い例え話に感心していたが、「あっ、でも――」と自身で否定する。「――中身がわからなくても福袋はつい買っちゃうのよね」


 思わず吹き出しそうになり咄嗟に口元を押さえた。

 存外にユーモアがある人だ。花丸に抱いた可愛いお嬢さんという印象は、お喋りなお姉さんに変わりつつあった。


「上手い例え話じゃなかったわね……。失敗。つまり自分の言葉で話してねってことを言いたかったの。さて――」と腕時計を見遣る。


「――そろそろ時間です」


 先導されながら真新しい通路を歩き、螺旋階段の後方を通り過ぎた。整然とした内装に自然と背筋も伸びる。 


 ぴたりと花丸が足を止めた。目の前の扉に向けられた花丸の視線はにこやかな笑顔から一転、翳りが見えた。

 つられて麦野もその扉を眺める。待合室の物より立派で、重そうな、会議室と書かれた扉。


「……ノックをして入室してくださいね」


 指を三本立てて見せる花丸の表情は元の明るさを取り戻していたが、どこか無理しているように思えた。

 入室時のノックは三回、就職活動の基本である。


 こん、こん、こん。

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