心霊マネジメントシステム事務局シリーズ
緒音百『かぎろいの島』6/20発売
心霊マネジメントシステム事務局の怪異改善〈全39話〉
プロローグ
4.1 組織及びその状況の理解
組織は、組織の目的および戦略的な方向性に関連し、かつ、その心霊マネジメントシステムの意図した成果を達成する組織の能力に影響を与える、外部及び内部の課題を明確にしなければならない。こうした課題には、組織から影響を受けるまたは組織に影響を与える可能性がある環境、また超自然の環境状態を含めなければならない。
(中略)
4.4 心霊マネジメントシステム
組織は、この規格の要求事項にしたがって、必要なプロセス及びそれらの相互作用を含む、心霊マネジメントシステムを確立し、実施し、維持し、かつ、継続的に改善しなければならない。(以下省略)
心霊マネジメントシステム
(Paranormal Management System)
国際規格「ISO■■:20■■ 4『組織の状況』」より抜粋
自分で自分の顔が思い出せなくなってから約三ヶ月の月日が経った。
履歴書に貼付した写真の生真面目に微笑む顔は、今となっては親しみもなく、まるで他人のように見える。
「次は、
同じ電車に揺られ、同じ車内アナウンスを聞き、同じリクルートスーツを着て、初めて訪れる土地についてあれこれ想像を巡らせた――たった半年前の出来事が、遥か百年も千年も昔に思えるのはなぜだろう。選考結果が届くのを待つ一日一日が途方もなく長い。その反面、夏はあっという間に過ぎてしまった。なんだか時計の針が狂っているみたいで、何者かが自分の人生に手を加えているのではないだろうかと、ついそんな妄想をしてしまう。
通勤時間帯の下り電車は空いており、あれこれ物思いに耽るにはもってこいの静寂に包まれている。
かん、かん、かん……鈍色の雲が描く斑模様、どこまでも続く物寂しい風景、歪む踏切の音……が一緒になって後方に飛び去ってゆく。かん、かん、かん……早く、この状況が終わってくれたらいいのに。何もかもが憂鬱で仕方がない。もし本当に誰かが関与しているのなら代わりに就職活動をしてくれないだろうか。
突如目の前が遮られ、辺りが薄暗くなった。電車がトンネルに突入したのだ。暗転した窓ガラスが鏡になって車内を映す。麦野は咄嗟に車窓から目を逸らそうとし、ぎくりと硬直した。
ぼうっと窓に浮かび上がった生気のない顔と目が合い、恐ろしさのあまり舌が縮んで喉に風が通り、ひっとか細い声が漏れる。
――見知らぬ女が窓の外に立って居た。
いや、走行中の電車に張りつける訳がない。これは幻覚である。
震える両足で床を蹴り、車窓から距離を取ろうとしたが、上手くはいかなかった。幻覚だとわかってはいても恐怖心の自制が効かない。電池の切れたリモコンのような脳味噌が「見るな」と指令を出しても、体は動いてくれない。目を背けられない。
死体を思わせる白い顔は蛍光灯のせい、斑に鬱血した皮膚は窓ガラスに付着した汚れがそう見せるだけだ……。きっとそうだと言い聞かせながら立ち上がった拍子に足が絡まってざらついた床に倒れ込んだ。と同時に車内に明かりが戻り、幻覚は曇天に掻き消えた。
灰色の空に向かって伸びる稲、その上を悠々と舞う白鷺、のどかな田園風景。もう、南渡駅が近い。麦野は胸を撫で下ろす。いつまでも抜けないかのように思えたトンネルだったが、時計を確かめると一分も経っておらず、じっとりと汗で湿った掌をハンカチで拭き動悸を落ち着けながら再び座席につくと右の足首がじんわりと痛んだ。
情けないことに、取り乱すのは今日が初めてではなく、ここ暫くは生活にずっと暗い暗い翳が落ちている。窓やガラスに映る自分の顔が知らない顔に見える――そんな、奇妙な幻覚のせいで。
医者はストレスが原因だと言う。出された数種類の処方薬を服用しているが一向に改善される気配はない。それどころか幻覚を見る頻度は日増しに高くなってゆく。
何度目かの通院の後、祖母は電話口で「藪医者じゃないのか」と文句を述べたが、いっそのこと家に帰って来たらとは言わなかった。祖母も内心では、なかなか就職先が決まらない孫娘にやきもきしているのだろうと思う。心配してくれているのか呆れているのかはわからないが……。そういえば大学の知人達も麦野の変容について話題にしようとはしないし、連絡もしてこない。皆が、遅れを取っている自分のことを哀れんでいるのだろう。莫迦にしている人も居るかもしれない。とても惨めな気持ちだ。これが自分のことでなかったら、惨めだなんてことはない、就職活動や幻覚症状くらい何とかなる、大丈夫だ……と無責任に言えるのに。
もう十月だ。多くの企業が内定式を終えた中、一社からも内定を得られず、就職活動が行き詰まるのに比例して症状は悪化する一方。部屋の鏡に布を被せて手鏡は捨てて昼夜カーテンを閉めて、そうやって対策したところで、外に出ればそこかしこに鏡があるし、ショーウィンドウやパソコンの画面、雨の日の水溜り――姿を映すもので溢れ返っている。
大学も休みがちになり、面接も何度か辞退してしまった。そうして内定が遠のく。感じるプレッシャーが強くなる。ますます幻覚が悪化する。こんな悪循環に陥ったままではいけないのに、どうしたらいいのか、最早見当もつかなくて、苦しい。
今日は、時季外れの採用面接を受けるために二時間以上もかけて南渡に向かっているところだ。これが最後の一社……。もし選考に通れば、悪循環の輪が絶たれ、全部が解決して上手くいくに違いない。だから何としても、受からなければ。そう、すべてが上手くいく。
「間もなく南渡――南渡に到着します――」
電車が速度を落とした。重たい鞄を持ち上げて立ち上がった拍子に疼痛が走り、足が止まった。さっき捻った箇所だ。
もたついてしまった隙に、一斉に乗客が雪崩込む。車内はたちまち満員電車と化し、あれよあれよという間にスーツと制服の混じり合った人波に押し流されてしまう。
これは、まずい。
こういうとき周囲に気づかれないほど自分の存在感が薄いことを、麦野は重々承知している。小柄な体と通らない声質、目立たない顔立ちのどれが悪いのかわからないが、自分には人々の注意から抜け漏れてしまう悲しい素養があった。だから早めに降り口付近で待機しなくてはいけなかったのに。
車内アナウンスが「扉が閉まります」と告げる。
「すみません、通してください!」
大きく叫んだ声は、けたたましい発車ベルに遮られた。乗客と乗客のほんの隙間に無理矢理に腕を差し込み、今にも閉まりそうな扉に迫ろうとするが、誰も麦野に気付かない。もう間に合わない。
「おい――」
突然、腕をぐいと掴まれた。引っ張られるがままに車外に飛び出し、麦野は二、三歩よろめいて駅のホームに着地する。
「――危なかったな」
動き出す電車を背に、心臓がばくばくと脈打つ。礼を言おうと顔を上げ――麦野は息を呑んだ。
何と眩い金髪だろう。綺麗に染められた髪色は平日朝のどんよりとした空気や、くたびれたスーツに余りに不釣り合いだ。
「あ、あの。ありが――」
呼吸を整えてからようやく麦野が口を開いたとき、彼はすでに背を向けており、そのまま雑踏に紛れ去ってしまった。
慌ててホームを駆け、階段を上って下りて、南渡駅の改札を過ぎようとして切符代が足りず、やっとのことで改札外へ出、周囲を見渡したが男性の姿は見当たらなかった。一台のバスが駅前のロータリーから出て行く。
……ちゃんとお礼を言えなかった。ただそれだけの些事と言えばそうなのかもしれないが、今の麦野にとっては自己嫌悪する材料がひとつ増えただけでどっと気が重くなる。こんなことすら満足に出来ないのか。溜息を吐いても、心はたいして軽くならなかった。
閑散としたロータリーにはバス停、タクシー乗り場、そして鳥を模した石像があり、色褪せた文字で〈ようこそ南渡〉と書かれた看板が立つ。東京都多摩地域の北部に位置する南渡市――海に面さず、大きな河川もない街が、なぜみなとと名付けられたのだろう。
なだらかな山の稜線から幾つもの白煙が立ち昇り、その麓にはのっぺりと田園風景が広がる。麦野は手の甲で額を拭い、スーツの上着を脱いだ。アスファルトから熱気が立ち昇り、道ゆく鳩も暑いのか、看板の下や鉄柵の隙間など僅かな日陰を見つけてあちらこちらで休んでいる。
バス停の時刻表に指を這わして数字を追うと、目的地方面のバスは出たばかりだった。
考えている内に、気が付くと足元にばさばさと荒れ黒光りした羽根の塊が蠢いていた。十数羽の汚い鳩がぽっぽぽ……と麦野に向かって鳴く。
「ごめんね、食べ物は持っていないの」
理解しているのかいないのか鳩は飛び立ちもせず、こちらをまったく警戒しない。もしスーツに糞でも落とされたら一大事だと踵を返した。
そのとき。
「ぎゃっ!」
鳩が突然羽ばたいて、顔面に襲い掛かった。広がった羽が眼前を横切り、反射的に顔を庇った手からスマートフォンが滑り落ちたが、構う余裕はなく両腕をばたつかせて逃げ惑う麦野の周りを面白がるみたいに群れが飛び回る。
羽音と鳴き声が前後左右を埋め尽くす中、麦野は手探りでスマートフォンを拾い、その場から転がり逃げた。
ようやく鳴き声が聞こえなくなった所で恐る恐る振り返った。凶暴な鳩らが追撃してくる様子はなく、ただ一列に並んでこちらを見つめている。
――何だか、気味が悪い。
鳩からすれば余所者を追い払ったつもりなのか。麦野は肩に乗った羽を叩き落とし、腕時計を確認した。……もう行かなくては。
目的地までは平坦な道路がずうっと続き、陽炎がゆらゆらと霞んでは逃げてゆく。車通りは殆どなく、ぽつぽつと点在する信号機が麦野だけに向けて色を変えた。今年はだらだらと居座る残暑のせいで湿っぽい夏日が途切れない。各地の水不足が嘆かれる一方で、都心ではゲリラ豪雨が頻繁しているとニュースで言っていた。幻覚が酷くなって以降、自宅のテレビは点けっ放しである。
汗で濡れた睫を拭い、何度かまばたきした後、〈南渡工業団地〉の標札が目に入った。
かん、かん、かん、かん、かん……。
踏切とは違う、荒々しく急かされるような強制力を持ったサイレンとでも呼ぶべき音が鳴る。まるで何らか警告されている気分だ。
サイレンが聞こえる方角には、煙渦巻く合間に鈍色の工場群の影絵があった。
一度訪れたのだから間違いない。あれが目的地だ。
ようやく辿り着いて麦野は閉ざされた門扉を見上げた。金属板に社名が掲げられている。
〈アジロ製造株式会社〉
前回の要領で門の横にある守衛所に置かれた来客用名簿に記名した。あのときは新卒向けの会社説明会だったので大勢の名前が並んでいたが、今日は自分が三人目の来客だ。
あわれ、あわれなおさな子よォ……
どちらで迷ったァけもの道ィ……。
いつの間にか守衛室に警備員が佇んでおり、おずおずと挨拶をすると、警備員は歌を中断し、麦野の手からするりと名簿を奪った。
鼻の先をくっつけんばかりに眺め、大仰に頷きながら「麦野日和さん、ですか。本日はアジロへようこそ。こちらから電話をしてください」と言って受話器を寄越した。言われるがままぎこちなく耳を当てれば、すでに通話は始まっていた。
「もしもし?」
「も、もしもし。本日、採用面接に参りました野澤大学の麦野日和と申します」
「はい。本日はよろしくお願いします、麦野さん。このまま総合棟までお越しください。道順は――」
慌てて肩に受話器を挟み、鞄から手帳を取り出して伝えられたままを走り書いた。白い布地の表紙は、使い込んだせいで少し黄ばんでいる。
「――では、門が開きます」
ごうんと軋み、金属的な唸りをあげながら門扉がひとりでに開いた。半年前もこうして門が開かれたのを思い出す。鈍臭い自分には工場勤務が向かなそうだと応募を見送ったのに、再び来ることになるとは、これも何かの縁だろう。
門の向こう側はまるで霧深い森のようだった。地面や配管のあちこちから煙が漏れだし、コンクリートの灰色と樹木の緑が混じり合った景色は霞んでよく見えない。
「気を付けて行ってらっしゃい」
警備員はそう言うと守衛室の奥へ引っ込んで、再び歌い始めた。
いくらさわげど帰れはしまい、
あまァの南渡よォ……っと……。
それにしてもよく歌う人だ。こういう陽気な人が勤められるのなら、自分もやっていけるかもしれない。きっと大丈夫だ。ここに内定が貰えたら、何もかもが上手く転がる筈だ……。
言い聞かせ、麦野は鞄の肩紐を握り締めてアジロの門をくぐった。
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