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遠井 音

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 かつて人類は死んだ動物の肉を食べていたという。家畜という名で動物を飼育し、屠殺し、摂取していたと文献には残っている。あるいは海の生き物に関しては、生きたままの肉を食べていたこともあるらしい。いずれにせよ、現代からすると信じがたい所業だ。


「ショクジ?」

 初めて聞く単語みたいに、ノエルが言った。血管に注入した栄養剤の空アンプルを放り投げ、部屋のダストポットに入れる。ぼくはペーパー・ライブラリから借りてきた『本』を広げ、頷いた。

「かつて、人が生命維持に必要な栄養を摂取するのに行なっていた行為のことだよ」

「へえ。そんな時代があったんだ。食べる餌でショクジ?」

「食べる事、だよ」

「へえ。でもさ、食べるものって、餌のことだろ?」

「うーん、どうやら違うらしい」

 ぼくは『本』を参照する。通常のライブラリと違い、検索機能がついていないので、『本』はひどく読みづらい。紙の上に書かれた文字を指で追う。

「餌というのは、動物の食べもののことを指すんだって」

「へえ。トルテは物知りだな」

「この『本』に書いてあることを読んだだけだよ」

「じゃあ言い直そう。さすが、デッドメディアを漁るほどの『本』好きだ」

「紙はデッドメディアなんかじゃないよ」

「『本』そのものがデッドメディアだって言ってるんだよ」

 やれやれ、というようにノエルは首を振った。ぼくは唇を尖らせながら『本』を眺め直した。「食事」と書かれたページの文字を読む。食事とは、生命維持に必要な栄養を経口摂取すること。かつてすべての人類が食事をしていたという。有史以前から人類は食事をしてきた。動物を狩猟し、植物を採集し、おのれの口の中に放り込んできた。そしてそこには単なる栄養補給以上の意味があった。人類には味覚というものがある。危険な毒などを口に含んだときに気づけるようにと備わっているその感覚が、人類を「美食」に目覚めさせた。人類の中でも裕福な層がまず「美食」を追い求め始めた。長い時間をかけて人類に「美味しい」という感覚が行き渡った。人類は「不味い」ものを排除し、「美味しい」ものだけを残していった。かつて「美味しい」とされたものは、今ではライブラリの中に資料として残っているだけだ。レシピはあるけれど材料がない。今、地球表面にある動植物の数は、ペーパーメディアが普及していた時期の五万分の一ほどしかない。動物も植物もあまりに稀少で、口に入れて消化し、栄養として摂取し、残滓を不消化排泄物にするなんてことは、許されざる蛮行だ。

「食事はね、栄養摂取のほかに、コミュニケーションの場としての役割も担っていたんだって」

「コミュニケーション? 餌とコミュニケーションに一体どんな関係が?」

「だから餌じゃないって。食事をしながら会話をすることで、より強固なコミュニティを築くことができたらしいよ」

「出た、コミュニティ至上主義」

「そんなんじゃないって」

「コミュニティなんてそのうち死に絶える文化だろうが。人は一人で生まれて一人で死ぬんだから」

 ノエルが舌打ちをする。ぼくは苦笑した。

「あ、そうそう、ノエル、かつて人類には臍という器官があったんだよ」

「臍? 何それ」

「腹部の中央に凹みがあったらしい」

「なんのために?」

「臍帯という器官で、母体と幼体をつないでいた名残だそうだよ」

「へえ! 母体って、メッチェンのこと?」

「メッチェンとは少し違うかな。メッチェンはあくまでぼくたちを管理し、統べる存在だから」

「でも、おれたちはメッチェンから産まれているじゃないか。産む、という行為をするモノが母体だろう?」

「メッチェンは母親ではないよ」

「母体と母親ってのは別なのか?」

「母親というのは……」

 ビーーーーーッ、と部屋のスピーカーから音がした。メッチェンによる警告の音はぼくらを萎縮させる。ぼくは口をつぐんで本を閉じた。

「ペーパー・ライブラリに返却してくるよ」

「おれも行く」

 部屋を出て、外を歩く。青色の空がどこまでも広がっている。今日の気候も、きちんと制御されている。ぼくらの体調と同じように。

「かつて、ヒトの身体は誰にも管理されてなかったんだって」

「え? じゃあどうやって生きてたんだよ」

「自分で自分の身体を管理していた時代があったってことさ」

「幼体も?」

「成体が幼体の世話を見ていたんだって」

「へえ。幼体の世話なんて、おれは絶対にしたくないけどな」

「コミュニティに所属している人間は、コミュニティに所属していない人間よりも、コミュニティ内の幼体に対する愛情を抱きやすい傾向にあるよ。ノエルもコミュニティに所属したら変わるんじゃない?」

「なあトルテ、それって喧嘩販売ってやつ?」

「古い言葉を知ってるね。喧嘩について、ライブラリからは削除されてるはずだけど」

「ふふん」

 自慢げにノエルが胸を張る。ぼくはおかしくなって少し笑った。

「ねえノエル、さっきの話だけれど、食事を摂取しながらコミュニケーションを取ることで、より親密になることができていたんだって。かつて家族と呼ばれていたコミュニティにおいても、ショクジは重要な意味を持っていたらしい」

「へえ?」

「もしぼくとノエルが旧時代の人間だったら、ノエルは一緒に食事を摂取してくれた?」

「それって、おれとコミュニティを作りたいってこと?」

 ノエルが笑う。ぼくは返事に詰まった。

「……コミュニティ嫌いのノエルには難しいかな」

「その通り」

 ノエルはダンスに似た足取りでペーパー・ライブラリへの道を進む。ぼくはその背中を追った。

「なあ、トルテ。この『本』見てみろよ」

 ペーパー・ライブラリにはたくさんの棚が並び、そこにはたくさんの『本』が差し込まれている。そのうちの一冊をひらいたノエルが、興奮しながら『本』を差し出した。ぼくはそれを覗き込む。ショクジの写真とレシピが載っていた。

「……『ハンバーグ』?」

「動物を屠殺したあと肉を細かく砕いて、鶏卵なんかと混ぜて焼成して作るショクジだって。すごい手間だな」

「そうだね」

「旧人類たちはこれを一日に三回もやっていたってこと?」

「そうらしい」

「はー、旧人類のすることは意味がわからねーな」

 ノエルが本を閉じる。ぼくは小さく笑った。


 ペーパー・ライブラリから部屋に戻ると、デスクの上に栄養剤のアンプルが置かれていた。注入器にアンプルを差し込み、腕の血管に挿すだけでぼくらのショクジは終わる。動物を屠殺する必要も、肉を細かく砕く手間もない。ぼくはペーパー・ライブラリから借りてきた『本』を棚に入れた。椅子に腰掛けたノエルが、にいっと笑いながら注入器を手にしている。

「ノエル?」

「栄養剤、射ってやるよ」

「え?」

「これがおれの作ったショクジだと思ってさ」

 ノエルは手際よくアンプルを注入器にセットする。透明の液体の中に入っているのは、生命維持に必要な栄養素だ。ノエルが注入器を構えるので、ぼくは大人しく自分の左腕をノエルに差し出した。ノエルがぼくの腕に触れる。ゆっくりと注入器の先端が皮膚を挿し、血管に至る。ぼくの中に栄養が流れ込んでいく。すぐに終わるはずのそれを、ノエルはなぜか、ゆっくりと時間をかけて注入した。

 ぼくはショクジについて夢想した。味覚を刺激するものについて考えた。そこには原始的な感覚と悦びがあったのかもしれない。味というものを、ぼくらはうまく知覚できない。それは進化とともにうしなってしまったものだ。

 味、とはなんだろう。栄養剤を射っても、当然ながら味はしない。舌に何かを載せることがないので、舌は鈍麻している。ぼくらの舌がどの程度はたらくのか、ぼくらは知らない。メッチェンにお願いすれば教えてくれるのだろうか。わからない。ぼくは味覚が反応するところを想像した。それは快楽を伴うはずだ。おそらく、きっと。

「はい、終わり」

 ノエルが注入器を抜く。ぼくは、ほうっと息を吐いた。

「ありがとう」

「どうだった? おれの作ったショクジ」

 模倣遊びだ。栄養剤はノエルの作ったものではないし、栄養剤の注入はショクジではない。そもそもショクジとは、経口摂取が大前提だ。わかっているのに、ぼくはなんだか、満たされた気分になった。まるで、ほんとうにショクジをしたかのようだった。

「うん。すごく、『美味しかった』よ」

「なんだそりゃ。知らない単語だ」

「ショクジを褒めるときの語だよ」

「ふうん。褒められて悪い気はしないな」

 ノエルが名残惜しそうに、空のアンプルを見つめていた。いつもなら栄養剤の空アンプルなんて、すぐに捨ててしまうのに。

「ショクジ」

 ぽつり、ノエルが呟いた。

「ショクジがどうかした?」

「案外、いいものだったのかもしれないな。旧人類の暮らしも」

「うん。きっとそうだよ」

 ぼくは棚から『本』を取り出した。そこには旧人類の暮らしについて記述されている。ぼくらは想像する。この時代にはもういない人々について。

「もし動植物が地表からあふれるくらい育ったらさ、してみたいな。ショクジってやつ」

「いいね。『ピクニック』をしよう」

「ピクニック?」

「そう。『サンドイッチ』や『オニギリ』と呼ばれるショクジをしながら、山岳エリアで植物を見ることだよ」

 ショクジをするようになったら、ぼくらの舌は、かつての人類のように作用するのだろうか。そのときぼくらは、何を食べるのだろう。栄養剤だけでは足りなくなる日が来るのだろうか。

「変わった行為だな。まあでも、悪くはない」

 ノエルが笑う。

 ぼくは、いつかノエルと『ピクニック』をする日のことを考えた。美しい草花の咲き誇る山岳エリアで、ノエルとともにショクジをする。それはとてもすばらしいことのように思えた。

「楽しみだね」

 ぼくもまた笑った。心臓が、どきどきと音を立てて鳴っていた。

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