12/108 = 3/17

 12月108日、終業式が終わり今日から少しの間、春休みが訪れる。きっと私以外の学生は待ち望んだ長期休暇なのだろう。廊下ですれ違うみんなの晴れやかな顔、少しだけ羨ましいと思いながら愛想笑いを振りまいて道化を演じる私。

 教室の窓の外は、どんよりと灰色の湿った風が吹いていて無遠慮に桜を散らせている。そういえば、今日は午後から雨が降る予報だったことを思い出した。


*****


「ミハル、お待たせ」

「先生……」

 予報通り雨になり、少しだけ濡らされた制服のまま私は最寄り駅で待ちぼうけていた。別に傘を忘れたわけじゃない。今は我が家であるマンションの一室に帰りたくなかった。あの音がフラッシュバックして、今にも吐きそうになる。そんな家から逃げ出してきて、早く先生の声が聞きたかったのだ。

 私の家族は母親だけである。父の顔は知らない。

 母の愛を一身に受けて育った私は、幸せに包まれて暮らしている。仕事の関係で昼夜逆転の生活をしている母とのすれ違いの日々は、寂しくないと言ったら嘘になるけれど、これ以上の幸せは私には分不相応だと思うから、心のずっと奥に閉まっておいてある。──だから、あの日。母が大事な人だと紹介をした初対面の知らない男が家に上がっていても、微笑みを貼り付けてその幸せを祝福してあげたんだよ。それなのに……。

「お願いがあるの」

「また抹茶いちごラテ飲みたくなったか?」

「ドライブしよ。私をどこか遠くまで連れてってよ、先生」


 夜職。

 どうやら母が夕方に出掛けて、明け方に酒臭くなって帰ってくる仕事のことをそう呼ぶのだそう。詳しくは知らない、母は曖昧にはぐらかすからテレビやネットで知ったことだけ。高価なバッグ、気合の入った髪、バッチバチに綺麗な化粧、キュンとくる香水の匂い。どこかの男たちに一夜の夢を見せる代わりに得る母の金銭で私は今日まで生きている。だからこうして、吸わない母なのに強烈に煙草臭い衣服だって何も言わずに洗濯をするのだ。私にできることなんて、このくらいしか無いから。

「そろそろ何処に行きたいか、決めてくれよ」

「……この国にも国境があればいいのに。そうしたら日本の法が届かないところで、私たちは幸せになれるのにな」

「まあ、とりあえず適当に海まで走らせてるからさ」

 雨粒が無遠慮に車窓を叩き続ける。断続的に後方へ流れていく信号機や外灯を私は、ぼんやり眺めている。薄暗い空の下、先生はハンドルを握ってひたすらに車を走らせている。しばらくすると、ETCカードの音声が流れたことで高速道路に乗ったのだろうことを私は気付いた。


 幸せそうだった。母がカレシを連れてきて、たまにこうして家で仮初の団らんをしていると父親の居る家庭ってこんな感じなのかな、とつい夢を見てしまいそうになる。どこで知り合ったとか、これからの将来のこととか、カレシの良いところとか色々聞かされたけど、何一つとして覚えることはなかった。たぶん母の恋人は悪い人ではないのだと思う。だけど、その人のシャツから、首筋から、口元から漂ってくる香りが何故か好きにはなれなかった。クサいわけじゃない、むしろ清潔感は気にしている人だと思う。

 けれど、この人が先生だったら良いのに。母のカレシと言葉を交わすほど、そう願ってしまった日は数え切れないほど増えてしまうのだ。

「子供とか大人とか、正義とか悪とか、社会とか倫理とか、そういう面倒臭いことから関係無い場所まで逃げられたらもっと自由なのに」

「世の中って息苦しいよな、ミハルはよく頑張ってると思うよ」

「ねえ、この道路の先までずっと逃げたら、どこに辿り着くのかな」

「さあ……たぶん海とかだろう」

 私は、いつの間にか学校でも家でも幸せを演じる道化になってしまっていた。今まではそれで良かった。私が私を押し殺せば、世界は滞りなく廻っていく。何一つ憂いなく軋まずに廻っていくのだ。

 それでも、まだ私は大丈夫だった。唯一、私が私で居られるシェルターがまだあるから。先生のカノジョというポジションは私に残された最後の救いだから。

 たぶん先生はロリコンで、きっと私はファザコンなのだろう。どうしようもない私たちがどうしようもない恋愛をしている。初めての恋人……ではないけれど、本気で好きになったのは初めての人。だけど、私の初めてを頑なに捧げさせてくれない意地悪な人。先生、早くしないと私の身体に価値が無くなっちゃうよ、とキスをする度に瞳で伝えているのだ。でも、気が利かない人だから私の焦燥なんてきっと知りもしないのだろう。

 だから、こうして終業式の日に鍵を開けた玄関の先、扉の向こうのリビングからあの男の苦しそうな息遣いと、母の嬉しそうな女の部分の声が断続的に聞こえる生々しい状況に遭遇し、この吐きそうになるほどの嫌悪感で咄嗟に逃げ出してきてしまったことも、こうしてひとつひとつ言葉にしないと先生には伝わらないのだ。


「雨、やまないね」

「そうだな。工事中で道塞がってて海まで行けなかったな」

「本当は先生と一緒なら、どこでも良かったの」

 高速道路のサービスエリアで安い夜ご飯を食べて、駐車場に止めたまま車の中で雨の穿つ音だけが狭い世界を支配していた。車内の薄明かりとラジオの音が降りしきる雨に掻き消されていく。

 私は助手席から、さっき家で見たこと聞いたことを泣きながら先生に洗いざらい全てを伝えた。母の幸せを祝福したはずなのに、その幸せの裏側にある生々しさに耐えきれなかったこと。あの声が響く家に私の居場所なんてまるで始めから無かったみたいな疎外感が生まれたこと。もうぐちゃぐちゃになった心で助けを求めた先生が、いつも通りの姿と声で私の手を握ってくれたこと。涙で喉が灼けて上手く言葉にならない馬鹿な私を、あそこから連れ出してくれた救世主。

 今の私には先生しか居ないのだ。もう、先生しか。

「……今までの人生で今が一番、寂しいかも」

「そっか、ツラかったな」

「頭撫でてほしい」

「よしよし」

 先生の手が私を頭に触れる。その大きな手の平が私の髪を撫でると、言いようのない安心感がじんわりと心を満たしていく。

「ぎゅーって抱き締めてほしい」

「わかった」

 運転席から身を乗り出して、私の身体を少し強引に抱き寄せた。彼の体温が、呼吸のリズムが、筋肉質な腕が私を包む。心臓の音が伝わってたら恥ずかしいな、と顔が熱くなる。

「ねえ、先生」

「次はどうする?」

「先生と繋がりたい。赤ちゃん作ろ。私にも本物の家族がほしい」

「……それは出来ない。そういうのは衝動的にするものじゃないよ」

 先生は私を抱き締めながら、悲しそうな声で私の頭を撫で続けていた。ゼロ距離からする大好きな人の声に私はもう気持ちのスイッチが入ってしまっているのに、先生はこんなときでも先生のままだった。そんな大人の余裕に少し腹が立って、私は本心とは真逆のことをつい口走ってしまう。

「なんで駄目なの。先生ってそういう性癖の人なんでしょ? 私なんかじゃ、そんな価値も無いってこと? 高校生の1年間ってすごく大事なんだよね。だったら、どうして先生は最初から私をフッてくれなかったの。来年になったら、また私みたいな馬鹿な子を弄ぶんでしょ? どうして抱いてくれないの。どうして……どうして……!」

 雨の音が強くなって、ひどくうるさい。まるで世界から私と先生だけを切り離し、取り残してしまったかのように闇夜から絶え間なく降り続いていた。先生の腕の中で、また私がめそめそ泣き出してしまってから、彼はぼたぼたと零すように言葉をゆっくりと紡いでいく。私を諭すためでもあるのだろうけど、先生は自分自身に言い聞かせるようにも聞こえる言葉で思いを吐露し始めたのだった。

「……俺だって人間だし、男だ。ミハルのことを可愛いと思うし、正直いって理性がヤバいときだってある。でも、一時の感情に絆されてしまうのが怖い。この歳になってもまだ、何が正しいのかなんてこれっぽっちもわからないんだからな。それでも、俺はミハルの未来を俺なんかのために閉ざしてほしくないんだよ。間違ってほしくない。……俺だってミハルを離したくはないんだ」

「だったら……」

「それじゃ駄目なんだよ。俺は教師で、ミハルは生徒だ。もし、それでもこれから先も一緒に居たいと言うのなら、それはきっと新たな苦しみや絶望の始まりになってしまうから。一時の救いにはなれても、俺と一緒に居ることは人生の救いには決してならないんだよ。──だから、この1年間で俺に対して幻滅してほしかったんだ。ミハルのほうから俺を見捨てて、去っていってほしかったんだよ……それなのに……ミハルは諦めないし、このクソみたいな12月は続いていくし、何もかも思い通りに行かなかった。俺の中でミハルの存在が日に日に大きくなるのが堪らなく怖かったんだ……!」

 先生の声にも涙が混じる。私たちは嘘つきだ。お互いの後悔を押し付け合って、心を真っ黒な炎で焼かれながらずっと抱き締めていたのだ。


「ままならないね、先生」

「ままならないことばかりだよ」


 それから、私たちは何も言葉を交わさないまま、ただお互いの呼吸のリズムを感じながら薄暗い車内でずっと抱き締めあって、そのまま疲れて眠ってしまった。

 夜明けの空気に冷やされた身体は寒かったけれど、先生の腕に包まれた部分だけは優しくて温かかった。降り続いた雨に散らされた今年最後だろう桜の花弁がフロントガラスにぱらぱらと付着しているのを、翌朝になってから気付いた。雨上がりの朝は空が透き通っていた──そんな気がした。


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