第37話 正義のミカタ
赤頭の元に残ったのは無駄に大きな体だけだった。ラグビーをしなければ、この大きな体も意味がない。
コルセットは二週間ほどで取れたが、まだ走ることはできない。週に三回のリハビリを重ねて、少しずつ体を戻していく。それでももうラグビーはできないのだ。
赤頭はコルセットが取れた日に、退部届を出しに行った。顧問は何か声をかけようとしたが、それを聞かずにさっさと職員室から出て行った。励ましの言葉などいらない。どんな声をかけられてようと、もう昔には戻れないのだ。
その日の放課後、不意に窓の外を見た。校庭でラグビー部が花園に向けて練習をしている。指揮を執るのは副キャプテンの三年生だ。いや赤頭は辞めてしまったから、あの人がキャプテンか。
実に楽しそうに見える。自分がいないほうが、チームの雰囲気は良いのでないだろうか。自分はあのチームにとっては邪魔な存在だったのではないだろうか。赤頭は拳を握り締め、窓を突いた。
窓に映るおのが姿。自分の存在理由とはなんなのだろか。自分がここに居る理由は何のだろうか。答えの出ない自問自答は赤頭の心を蝕んでいった。
いつもなら部活に明け暮れた放課後、その時間がぽっかりと空いてしまった。部活をやっていない放課後は実に空虚だった。勉強をするわけもなく、他の習い事をするわけでもなく、月日は溶けるように過ぎ去っていった。
いずれ心は荒んでいき、正義感は反転する。ラグビーのうまさを差し引いて、赤頭に残ることは喧嘩の強さだけだった。ぽっかりと空いた時間はそのやるせない気持ちをおのが正義感で満たしていった。
だがいくら悪をくじこうと、それはただの喧嘩に過ぎない。傍から見れば、暴力を振るう人間として同義に扱われるのだ。
そしてそれが学校に知れ渡るのも時間の問題である。
二年生エースは没落したと陰で口々に言われた。噂は広まり、いずれ赤頭の元に風紀委員会が訪れたのだ。
「昨日、ゲームセンターで起こった喧嘩の件で少し話があるの」
ノエルはそう言って、赤頭を連れだした。空き教室に入ると、ノエルが口を開く。
「ラグビー部の期待の星が喧嘩三昧とはね」
「俺は間違ったことはやっていない。昨日はカツアゲをしているやつを見つけたから……」
赤頭の言葉をノエルが遮った。
「それが原因が栄光から転落したんでしょ」
ノエルは冷たい口調でそう言った。
「あんたのやっていることは正義でもなんでもない。ただの偽善なのよ。助けるという行為は助けた人間を最後まで守り抜かなればならない。その責任が伴う行為なのよ。中途半端に藪を突けば、飛び出してくるのは蛇、それが被害者に噛みつき、結果としてはさらなる不幸を引き寄せる」
「俺は全ての悪から守るつもりだ」
「それはただのエゴよ。人間が守れるのはせいぜい家族くらい。あんたは警察にでもなったつもりなの? あなたがいくら自分の裁量で制裁を与えようと、その悪を牢屋にぶち込むことはできないのよ」
「じゃあ俺はどうすればよかったんだよ!」
机に拳を突いた。ぎしぎしと天板がきしむ音が聞こえる。
「人は無力なのよ」
ノエルはそう言うと、原稿用紙を教卓の上にドサリと置いた。
「あんたの処分は反省文に留まったわ。でもこれ以上暴力事件を起こせば、停学もあり得るわよ。それを書き終わったら、職員室に出して帰ることね」
そう言い残すと、扉を開け出て行ってしまった。
教室に残されたのは赤頭と原稿用紙の山だけ。
教卓に向かい、積まれた原稿用紙を目の前に何を書けばいいのか分からなかった。
だが書かなれば帰ることができない。ペンを握り、まるで思ってもいないことを、嘘をそのマス目に書いていった。
本当はこんなことを思っていない。なぜ自分がこんな目に合わなくてはならないのだ。なぜ三年生は俺に報復しなかった。なぜ二年生は三年生を庇った。
カツアゲをされていた少年も、いじめられていた少女も、皆無責任な俺のことを恨んでいると言うのか。では正義とはなんなのだ。道徳とは何なのだ。なぜ弱き者を助けることが悪であり、見て見ぬふりをすることが良しとされるだ。
原稿用紙にぽたぽたとシミが出来ていた。
試合で負けた時も、骨折した時も、もうラグビーは出来ないと医師から宣告されたときも涙を流さなかった。
だがこの目頭から溢出してくる熱い正体はいったいなんなのか。なぜこんな時に俺は泣いているのだ。
ペンを置いた赤頭は気が付いた。涙が染み込んだ原稿用紙に書かれたのは嘘の塊である。
自分で自分の存在を否定した作文がそこにはあった。角が立たないような、何の面白みのない文章。教師が喜びそうな要点。大衆が喜びそうな結論。だがそこに赤頭である所以などこにもなかったのだ。
心と反省文は乖離していた。机の端を握り締め、ふらふらと立ち上がる。
「出さなくては……」
赤頭は重い足取りで職員室へと向かった。これで帰れる。もう人を助けることなんてやめよう。正義感を押し殺し、生きていこう。それが人のためになるのだ。
震えた指先が扉に掛かった瞬間、隣から声が聞こえた。
「それでいいのか。お前の正義感とはそんなものなのか」
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