第5話「女たち(?)の戦い」
35.明朗会計安心バー「蒼穹の角」
雨だ。
急に強まって来た雨に、アオーニ・コブットリーノは店先の立て看板を片付けながら思った。
こんな日は、分厚いカーテンを開けて、窓から見えるネオンに照らされた雨どいでも見ながら、ストレートのバーボン片手にぼんやりしたいものだ。
アオーニはこのバーの三階にある、自宅の風景を思い浮かべた。
「お客さん来ないね」
店の看板娘、ソーニャが言う。彼女は先日、異世界からの転生者が太ももに乗るという、なかなか貴重な体験をしていた。
「ああ、この雨だからな」
アオーニは答えた。
「ねえ」
後ろ向きに革張りのソファーに座り、背もたれに両肘を付いて頬を支えたソーニャが言った。
「あのときの、転生者の女の子、元気にしてるかな?」
ソーニャの問いに、アオーニは一度天井を見上げた。
「どうだろうな」
それから、店先から回収した二つ折り看板をたたみ、壁に立てかけると、バーカウンターの奥へと移動した。
「元気にしていると良いな」
グラスを手に、磨き始めるアオーニを見てから、ソーニャは潰れたように両腕に顔の下半分を埋めた。
「また来ないかなあ」
「何だ、ずいぶんお気に入りだな」
「綺麗な子だったし、それに、何だか面白いことに巻き込まれそうな人だったから」
フッと、アオーニは鼻で笑った。
「確かにな。何だか巻き込まれそうな奴だった」
「ねー。だからきっと、いろいろ面白い話が聞けると思うの!」
「そうだな」
オーガ族特有の四角い顎をさすりながら、アオーニが答えたときだった。
ふと、予感めいたものを感じる。
上手く説明出来ないが、アオーニはときどき、近い未来のことが薄ぼんやりと分かることがあった。
特にステータスにスキルの表示もないし、気のせいだろうくらいに思っているが、確かに感じるものがあった。
こういう奴は、稀にいるらしい。
「噂をすれば、だ」
アオーニの言葉に何か感じ取ったのか、ソーニャはソファーから身を乗り出した。
からん、とベルを鳴らして、バーの扉が開く。
「やー、ひどい雨だ」
入って来たのは、先日ソーニャの太ももの上に突然現れた美少女だった。今日は、インバネスコートをワンピーススカートにしたようなデザインの服を着ている。
インバネスコートって何だって?
シャーロック・ホームズが着ているコートさ。
シャーロック・ホームズがこの世界にもあるのかだって?
あるさ。アーサー・コナン・ドイルは、この世界に生まれ変わっているからな。
「店の前までタクシーで来たのに、濡れたー」
アリスはカーキ色のワンピースのスカート軽く持ち上げる。
続けて店に入って来たドロシーも濡れていて、最後に入って来たブレーメンに至ってはずぶ濡れだ。
「転びました」
誰に聞かれた訳でもないが、ブレーメンが説明する。ソーニャは、慌ててタオルとドライヤーを取りに行った。
「びっくりしたよ」
アリスは言った。
「タクシーから降りるなり、こんなに転ぶ奴いるかってくらい転ぶんだもん」
「ほら、雨の日は気を付けろって言うじゃないか。ハイドロプレーニング現象」
「ああ」
アリスは手を、ぽんと叩いた。
「あのタイヤが雨道で滑るっていう——。んな訳あるかい!」
ブレーメンの後頭部をひっぱたくアリス。もちろん、ブレーメンは喜んだ。
その光景を見ながらドロシーは、今日のアリスはずいぶん機嫌が良いなと思った。
「こちら、ドロシーさん」
アリスがドロシーを手で差した。ドロシーがぺこりとお辞儀する。
「これが、ブレーメン」
アリスがブレーメンを指差す。ほんの些細な違いだが、ドロシーに比べて雑な扱いに、ブレーメンは喜びつつ、頭を下げた。
ぼたぼたと雫が落ちて、アオーニはちょっと嫌そうな顔をした。
「彼が、アオーニ」
アオーニが軽く会釈する。
「彼女が——」
そこで両手いっぱいのタオルと、ドライヤーを持ったソーニャが現れた。
「ソーニャです。よろしくね」
アリスとドロシーにタオルを渡し、ブレーメンにもタオルを渡すと、ソーニャはドライヤーのスイッチを入れた。
スイッチを入れると、「どるろいっ」というおよそドライヤーの始動音とは思えない音がして、蒸気を排気した。
とたん、何かのバラエティー番組か? ってくらいの強風がブレーメンに吹きつける。
その顔は強風であおられ、目は半開きになり口は盛大に丸く開かれ、皮膚は波打って後ろに流される。
「うひゃひゃひゃひゃ!」
「ぷっ、あはははは!」
お腹が痛くなるくらいアリスとドロシーは爆笑した。ブレーメンから飛び散った水滴には、アオーニが舌打ちした。
強風とドライヤーから出る魔法効果もあって、数分後にはかぴかぴに乾いたブレーメンが出来上がった。
常にジェット気流が吹き付けているような、後ろに撫でつけられまくった髪型を直しながら、ブレーメンは案内された席に着く。
僕はこのとき、座る前に気が付くべきだった。
ブレーメンは思う。
右から、ソーニャちゃん、アリスちゃん、ドロシーさん、僕、アオーニさん。
いや、何だこのいろいろと不利な席順!
アリスちゃんかソーニャちゃんの隣が良いよ!
だが、その言葉を口にできる環境ではない。
そんなことを口走れば、一切の殺害予告もなしに、致死量の攻撃を放ちそうな二人が僕の両隣に鎮座している。
何か、打開策は無いのか。
そうだ! おつまみだ! おつまみを注文すればこの大きいほうはカウンターに入らなくちゃならないだろう。
「何か、食べたいなあ。出来ればちょっと手間のかかりそうな、温かいものを」
「良いだろう」
アオーニが答える。「やった!」と、ブレーメンは心で思った。
「聞こえたな?」
「はい」
アオーニとカウンターとのやり取りに、ブレーメンは思わずカウンターを見た。そこにあったのは、最新型の自動調理ロボット!
話し声まで流暢な、人型の良いやつだ。
「500万もしたやつだ。味は期待して良いぞ」
「はい。楽しみです」
小さく固まるブレーメンの瞳に映る、飲み物のメニューを見てきゃっきゃとはしゃぐ三人の女子。ちょっと前まで40近いおっさんだった人、すごい適応能力だよと、ブレーメンは思った。
ああ、楽しいなあ。
アリスはレモンの効いたハイボールのグラスを両手で持ちながら、幸せそうに思った。
この数日間の話を、アオーニもソーニャも、身を乗り出してまで楽しそうに聞いてくれる。
転生直前の、最悪だった職場環境での、お通夜みたいな飲み会と違って、すごく楽しい!
そんな風にアリスが思っていると、ソーニャが言った。
「お話、すごく楽しかった。お礼に、私、歌ってあげる」
そう言うとソーニャは、店の奥にあるピアノに向かった。それを見ながら、アオーニが言う。
「あいつ、ここで働きながら、歌手を目指しているんだ」
言っているアオーニの表情は、何だか親とか兄とかみたいで、優しかった。
「本当はこんな、酒を飲んだりしゃべったり、喉に悪いことはあんまりさせたくないんだが。それでもあいつ、ここで働きたいって言うんだ」
「お前が良いやつだからじゃないのか?」
「それがな、払いが良いからだとよ」
アリスとアオーニの軽口がひと段落付いたところで、ピアノの音が鳴り始める。
それは、アリスも聞いたことのある、古いジャズだった。
前奏が過ぎ、歌が始まる。
ソーニャの声は、高く低く変幻自在で、のびやかに、軽やかに、ときには重く。
雨のように、心に沁みる歌だった。
小さなステージは、拍手で終えた。
照れたように舌を見せるソーニャのことを、アリスは応援しようと思った。
楽しい時間はあっという間に過ぎる。約一名、ずっと緊張しっぱなしの奴もいたが。
「アリスとドロシーさんは1500ビニーづつだ」
アリスとドロシーは驚いた。
「俺、けっこう飲み食いしたよ? 良いの?」
「何、友達価格ってやつだ」
「ありがとう!」
にっこり笑うアリスとドロシーに、アオーニは笑い返す。
「ブレーメンは30万ビニーだ」
「30万ビニー!?」
真っ青になるブレーメンに、アオーニの表情は笑顔のまま動かない。
「友達価格だ」
「冗談ですよね?」
「美青年と悪党からは搾り取れって、ばあちゃんの遺言だ。それとも何か、おれにばあちゃん不幸な男になれって言いたいか?」
「いいえ」
「そこのコンビニに銀行のATMがある。少し行くと、消費者金融のATMもあるぞ?」
「——か、カードで」
「毎度あり」
しなびたような顔で膝をガクガク言わせるブレーメンの支払いが無事完了したときのことだった。
「ここにアリス・エイタロードはいるか!」
突然ドアを開けて中に入ってくる数人の男たち。
モヒカン。
頭部に書かれた数字。
鋲と棘の付きまくった袖のない革ジャン。
革パンツ。
なんだか良く分からない包帯のような物をまいたブーツ。
体格の良い、世紀末な方々は、確かにアリスの名を呼んだ。
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