34.前世にて。

 見慣れたはずの東京の風景は、空から見ると全くの別世界だ。近くにそびえ立つビルのガラスに、自分の姿が映らないか試しに見てみる。


 あ、映った!

 へー。魂ってガラスに映るんだ。


 オフィスビルらしいそのビルの中には、残業をしているらしきサラリーマンがいた。

 おい、深夜の一時回ってるぞ。ひでえブラック企業だな。

 そう、栄太郎が思ったところで、サラリーマンは大きく伸びをして、栄太郎のほうを向いた。


 やべっ。


 栄太郎はこっちを見られたかと思い慌てたが、サラリーマンは全く気が付いていない。


 おお、魂は普通の人には見えない的な仕様ね。


 栄太郎は安心すると、ガラスに映った自分の姿を見た。長身で細身だが、筋肉質な体を、体にあったスーツが包んでいる。そしてかけ慣れた、細めの眼鏡。


 こんなときに一張羅のスーツを選ぶなんて、前世管理局の計らいか、もしくは俺のセンスか。どっちにしても少し窮屈だな。


 何となく、栄太郎は普段来ていたオクスフォードシャツにストレートのジーンズを想像してみた。


 すると、栄太郎の服装が変わる。


 良いね、便利だ。


 身軽になった栄太郎は、もう少しこの空の風景を楽しみたかったが、今はそれどころじゃないと思った。


 先ずは、実家に行くか。


 その瞬間、場面が切り替わるみたいに、いきなり実家の前に栄太郎は立っていた。


 便利だ。


 再び思う。


 魂に距離は関係ないって本当だったんだ。


 栄太郎は実家の玄関を開けようとする。スカッと、手が実家の引き戸をすり抜けた。


 開けられないけど——。


 栄太郎は玄関の戸をすり抜ける。


 通り抜けられるって訳ね。


 そう思いながら栄太郎は、習慣で「ただいま」と言った。すると声は声にはならずに、代わりにパキッという音が響いた。


 なるほど、これがラップ音か。


 そう思いながら、これも習慣で、靴を脱いで廊下に上がった。

 すると猫がいた。猫はじっと栄太郎を見ている。


「まるきち

 茶トラの猫の名前を呼ぶ。


 あれ、今度はラップ音が鳴らない。良く分からない仕組みだ。何らかの法則があるのかもしれないが、実験と検証を繰り返して心霊研究家になるつもりはないので考えないことにした。


 猫のまる吉は「にゃあ」と鳴くと、栄太郎の足下に寄って来る。


 これも理屈は分からないが、猫には俺が見えるらしい。俺にもだいぶ慣れてた猫だから、可愛い。


 まる吉は栄太郎の足に体を擦りつけようとするが、実態のない栄太郎の足をすり抜けるばかりだ。

 不服そうに栄太郎を見上げると、「みっ」と鳴いた。

 栄太郎はしゃがみこむと、まる吉の頭から背中にかけてを撫でた。


 やっぱり、手に感触はないけれど、まる吉のほうは何かを感じるらしい。目をまんまるに見開いて、「何事か!?」って顔をしている。


 嫌ではないらしくて、眼を閉じてごろごろ喉を鳴らし始めた。

 栄太郎は猫を撫でながら、改めて、自分がこの世界にもう実態がないことを認識する。ほんの数日前までは、この世界で、あの味のしないコーラとポテチを無機質に摂取していたというのに。

 栄太郎は美少女に転生してから初めて、前世の、今のこの姿を懐かしいと、愛おしいと思った。目まぐるしく過ぎる美少女としての毎日の中で忘れ始めていた、前世の自分。それがこうして自分に懐いた猫など撫でていると、どうしようもなく思い出されるのだ。


 悪いことばかりではなかった。


 栄太郎は思いを巡らす。


 そりゃあ、会社は最悪だったが、良いときだってあった。


 たった一人出来た彼女だったアンセルマ。ケンカもしたけど、楽しい思い出もいっぱいだ。


 学生時代のこと、もっと小さかったときのこと、栄太郎は猫を撫でながら思い出す。


 不意に猫が伸びをして、栄太郎の手からすり抜ける。

「もう良い」と言った態度を背中から感じて、栄太郎は小さく笑った。


 相変わらずだ。飽きっぽいっていうか気が変わりやすいっていうか。まあ、猫だからな。


 栄太郎の心の声が聞こえてるのか、まる吉は栄太郎に振り向くと「にゃあ」と鳴いた。





 父と母は、残念ながらノンレム睡眠状態だった。


 栄太郎は今までの感謝と、先に死んでしまったことへのごめんなさいを伝えた。


 対話は出来ないが、伝わったのだろう。母の目から、一筋の涙が零れ落ちた。


 その涙を拭けないもどかしさを感じながらも、栄太郎は両親に深々と頭を下げ、二人の寝室を後にした。


 次に栄太郎は、同じ実家の中の、姉の寝室に訪れた。そこには姉と義理の兄、姪っ子が川の字で寝ている。


 姉を見るなり栄太郎は、その酷い寝相に、相変わらずだなと笑った。


 三人も、残念ながらノンレム睡眠だった。

 栄太郎はそこで、実家を継いで自分を自由にさせてくれた姉への感謝と、そんな姉を支え、婿に入ってくれた義兄への感謝、姪っ子には約束してた遊園地へ行けなくなったことを詫びた。





 後ろ髪を引かれる思いで、栄太郎は実家を後にしようとする。

 最後に猫が玄関先まで見送りに来た。


「にゃあ」


 その声はまるで「また来いよ」と言っているようで、栄太郎は嬉しくなった。





 その後栄太郎は知人友人の所をあちこち回った。時間とタイミングのせいか、ことごとく訪れた先はノンレム睡眠で、栄太郎は感謝の気持ちを伝えるばかりだった。


 そんな中、一人だけレム睡眠の人がいた。


 その人は、職場がまともだったころの上司で、栄太郎が大分世話になった相手だ。

 開口一番、その人が言った言葉は「バカヤロウ」だった。

 栄太郎はその言葉に驚きながらも、その上司らしい言葉だと、表情に出さずに笑った。

 次にその人の口から出たのは、説教だった。


 やれ、親より先に死ぬとは何事だ。

 やれ、もっと自分の状態をきちんと管理しろ。

 やれ、こうなる前に出来ることはあっただろう。


 たくさんのことを言うだけ言うと、上司は栄太郎の手を握り、


「すまなかった」

 と呟いた。


「俺がもっとしっかりしていれば、俺が気付いてやれたら、お前は死ななかった」


 涙を浮かべ肩を震わせる彼が力強く握る手に、栄太郎も涙がこぼれた。


「仕方ないですよ。だって先輩県外に単身赴任だったし」

「それでも、それでもだ。だからって、死んで良い命があるもんか」

「先輩——」


 それからしばらく、栄太郎と上司は泣いた。ひとしきり泣いてから、涙をぬぐい、上司は栄太郎の背中をばしんと叩いた。


「向こうではうまくやってるのか?」


 美少女になって魔銃を操りロボットに乗ってますとは、さすがに言えない。


「はい」

 とだけ、栄太郎は答えた。


「なら良かった。その——、また会えるか?」

「はい!」


 栄太郎は力強く答えた。





 さて——。

 あらかた、会っておくべき人には会ったか。


 再び東京上空で、栄太郎は思う。


 最後に、あいつの所に顔を出すとするか。


 親友、幼なじみ、腐れ縁。そんな単語が似合う、栄太郎の友人、赤松健あかまつ たけしのことを栄太郎は思い浮かべた。

 思い浮かべたとたん、栄太郎はおんぼろアパートの上にいた。

 赤松健、通称ゴリ松。彼の部屋はそのおんぼろアパートの二階の角部屋だ。


 栄太郎はゴリ松の部屋に出入り口のドアをすり抜けて入る。その瞬間、耳をつんざく轟音のいびき。そのうるささに隣の部屋からドンッと壁を蹴る音がするが、ゴリ松はその短い足で眠ったまま、壁を蹴り返した。

 その音に連鎖するように、隣の隣の部屋から壁を蹴る音が聞こえる。


 どんな安アパートだよ。


 栄太郎は、知ってはいたが、改めてこの六畳一間のぼろアパートの壁の薄さに苦笑いする。

 殺風景でほとんど何もない部屋。部屋の隅に寄せられたちゃぶ台には、晩飯だったろうカップ麺のカラと、缶チューハイの缶が二本転がっている。

 そして、今度は歯ぎしりをする珍獣、ゴリ松。その脚は短く、胴と腕は長く、全体にガッチリしていて四角い。毛深い。


 相変わらずの生物だなと栄太郎はため息をついてから、ポケットにある小さな虫メガネを取り出した。


 レム睡眠なら青、ノンレム睡眠なら緑と——。


 虫メガネをゴリ松に向ける栄太郎。すると、予想外の色が現れた。


 赤。


 赤色の説明なんて受けてないぞ。


「ほう。それは何の装置だ?」


 顎に手を当てながら虫メガネを見るゴリ松。

 虫メガネの向こうにも寝てるゴリ松。


 ゴリッ!?


 何だか分からない声が頭の中で聞こえた。


「そろそろ顔を出すんじゃないかと思ってたぞ」


 栄太郎の混乱なんかお構いなしにゴリ松は言う。


「お前!? 何で!? そこにも寝てて!?」


 困惑する栄太郎にゴリ松は言った。


「幽体離脱だ。ときどき、寝ているとなる」

「ゆーたいりだつ!?」


 なんかアホみたいな声が出た。


「お前、これだけ長く俺と親友だったのに、知らなかったのか?」

「知らんわい!」


 知るか。こんなゴリラが幽体離脱するなんて、知るか。


「言ってなかったか」

「聞いてません」

「まあ、良いだろう」


 全然良くないがね。


 ゴリ松は空中にどっかり胡坐をかいた。栄太郎もそれにならう。


「栄太郎、お前本当に死んじまったんだな」

「ああ。葬式来てくれてありがとう。お前、滝みたいに泣いてたな」


 栄太郎の言葉が引き金になったか、ゴリ松の瞳から涙が溢れ出す。


「親友が死んだら、そりゃ、泣くだろう!」


 ああ、こいつ、基本良いやつだった。


「悪かった。勝手に死んじまって」

「全くだ。こういうのは後50年は経ってからにしてくれ」

「うん、すまなかった」

「どうだ、あの世ではうまくやってるか?」

「いろいろあるけど、楽しいよ」

「そうか、なら良かった」

「うん、お前も来たら、いろいろびっくりするよ」

「そうか、いつまでこっちにはいられるんだ?」


「そうだな——」


 そのとき、カーテンもない窓の外が、白んで来ているのが見えた。

「そろそろ、帰らなくちゃ」


 俺はもっと早く、こいつの所に来るべきだったと悔やんだ。


「そうか。また来るか?」

「うん、きっと、必ず」






 前世電話ボックスに戻った俺の頬は、アリスの体の頬は、涙で濡れた跡が残っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る