4.異世界の風景。
「それじゃ、先ずは博士の研究所に行くとしようか」
女の子と連絡先を交換したブレーメンに言われた。特に断る理由もない。むしろここは言葉に従った方が、いろいろと現状を把握出来そうだ。
栄太郎はこくりと頷いた。
「オーケー。なら、行こうか」
ブレーメンがそう言ったときだった。栄太郎とブレーメンの背後で、黒服のオーガが音を立てて起き上がる。栄太郎は身構え、ブレーメンは腰の柄と鍔だけの物に手をかけた。
「待て」黒服は言った。「もう、手荒な真似はするつもりはない。安心してくれ」
ホコリを払う黒服を見てから、栄太郎とブレーメンはお互いを見た。頷くと、栄太郎は構えを解き、ブレーメンは柄から手を放す。その動作を見て、黒服は安心したように息を吐いた。
「悪いことをしたな、お嬢さん」
意外なほど優しい視線を投げかける黒服に、少し戸惑いながらも、栄太郎は左右に首を振る。
「突然現れた、俺も悪い。しかも投げ飛ばしちまった。すまない」
「ははは。気にするな、お互い様だ。それにしても、久しぶりに投げ飛ばされた。あんた、凄いな。しかも聞いてたところ、異世界から来たのか?俺は俄然あんたに興味が湧いちまった」
微笑む黒服に、栄太郎は天使のような微笑みを返す。
「俺の名は有栖栄太郎」
「俺の名はアオーニ・コブットリーノ。何か困ったことがあったら、力になろう。それと、次にうちの店で飲むときは、まともな料金だ」
「ありがとう。助かるよ」
栄太郎はアオーニは握手を交わして、店を後にした。
店のドアから出ると、そこは歓楽街だった。きらびやかなネオンを纏う街。
この世界のスマホだろうか、半透明の映像板を見ながら歩く人間。客引きをする、緑色の肌のゴブリン。堂々と、人の波をかき分けて歩く、店じゃ売れっ子そうな美女のエルフ。酔っぱらって、肩を組んで歩く赤ら顔のドワーフ。
ここは想像以上に近代的で、栄太郎には見慣れた街並みだった。行き交う者の服装も、何だか栄太郎のいた世界と似ている。
はっきりと違うのは、そこに生きる種族だった。
「どうだい? 驚いてるかい?」
ブレーメンに聞かれた。
「うん。想像とはだいぶ違う世界だ」
「まあ、おいおい慣れるさ」
ブレーメンは「車の所まで案内する」と言って栄太郎の手を引こうとしたが、栄太郎はそれを断る。じゃあ、こっちかとブレーメンは腕を組むべく肘を曲げるが、栄太郎は首を横に振った。嫌そうな顔で。
どうやらこの兄ちゃんは俺を完全に女性として認識しているらしい。
不思議そうな顔をするブレーメンを無視して、栄太郎は頭上のビルを眺める。
ネオンと、それに隠れるように立ち並ぶ暗いビルの上部は、栄太郎の良く見覚えのある風景だ。なのに、ここにいる住民は、はっきりと自分が知る者たちと違う。その感覚が、知らない世界が、栄太郎を高揚させた。
うわあ——。
行きかう者たちを、立ち並ぶビルを、栄太郎はくるりと見渡す。
ここが、異世界——。
思っていた異世界観とは違うけど、これはこれで生きやすそうだ。正直、典型的な剣と魔法の世界だったらあんまり自信がなかった。
良く見れば自分が着ている服も、街行く者たちの服も、栄太郎が以前いた世界と似ている。それは、安心感になった。
そんなことを思っていた栄太郎の背中を、誰かがとんとん叩く。
ふいをつかれて栄太郎は、ちょっと飛び上がった。
「ねーちゃんねーちゃん、俺たちと飲まないか?」
「おおう、ずいぶん美人なねーちゃんだな」
声をかけて来たのは酔っ払いのドワーフたちだ。「ああー」と困った顔を栄太郎がしていると、ブレーメンが割って入る。
「悪いな、彼女は俺の連れだ」
腰の柄をちゃかつかせると、ドワーフたちは渋い顔になった。舌打ちしたり、「調子に乗んなよ」とか言ったり、悪態をついて去って行く。
「あ、ありがとう」
栄太郎がお礼を言うとブレーメンは、片目を閉じて歯を見せて笑う。
「あんまり離れないでくれよ?君は、この街では決して咲くことのない、美しい花のような存在なのだから」
——。
だから俺を口説くのは止めてくれ。
桜だ。桜の花が咲いている。
少し、路地裏に入る。
ビルの街並みは見慣れたものだが、良く見ると明らかに見慣れないほど、緑が多い。建物の間から、もしくは建物自体から、木々が生えている。それは路地裏に入ったら特に顕著で、栄太郎に異世界を強く感じさせた。
自然と近代文明の融合が、成り立ってる世界なのかもしれない。
月明かりに照らされた建物の外壁に注目すると、それは木材に見えた。10階はありそうなビルが、木材で建てることが出来る。そういうことが可能な世界なんだな。
こんな歓楽街の路地裏なのに、空気が澄んでいる気がする。栄太郎が以前いた雑多な街の空気と比べての話だが。
風が抜ける。
桜が揺れる。
ほんの微かな桜の香が、栄太郎の鼻をくすぐった。
あ。花粉症が治ってる。
あれほど苦しめられた鼻が、目が、なんともない。栄太郎は両手を叩き鳴らして飛び跳ねたくなったが、人目があるので止めた。
ふと気が付くと、肌寒い。そりゃあ、桜の季節にノースリーブのブラウスとミニスカじゃ寒いよな。
栄太郎が自分を抱くように腕を手でさすっていると、ブレーメンは目ざとくそれを見つけた。
彼は上着を脱ぐと、栄太郎にかけようとした。
「いやけっこう」
きっぱり断る。驚いたような、ちょっと傷ついたような顔をするブレーメン。
「あ、いや、寒いのかと思って」
「肌寒い。だが、男のぬくもり付きの上着を着る趣味はない。あんたも分かっていると思うが、俺は数時間前まで、おっさんだった女だ」
ブレーメンは苦笑すると、「でも今は、女だ」と再び上着を着せようとする。
「ありがとう」
ブレーメンの優しさに少し気は引けたが、俺はお礼だけ言って、やっぱり拒否した。
「気持ちは嬉しいが、断る。良いか、あんたの視界では肌寒そうにしている美少女だが、俺の中では俺はまだ、肌寒そうにしているおっさんだ。おっさんがにーちゃんの上着を着ることは出来ない」
「そうか」と、ブレーメンは流石に手を引いた。
「なら、代わりと言っちゃなんだが、魔法を使ってみると良い」
魔法——。
上着を着直すブレーメンを見ながら俺は、頭の中にフレーズが浮かんでいた。
その言葉を、栄太郎は口に出してみる。
「エンチャント・ウォーム」
唱えたとたん、体がぬくい。肌寒さが嘘みたいに、体があったかい。
「おお——」
ちょっと感動を覚えつつも俺は、なるほど、ファンタジーの薄着やビキニメイルの少女たちは、きっとこの魔法を使っているに違いないと一人納得した。
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