私の想いは瓶の中に
人は寝ると忘れる生き物です。楽しかった余韻は過ぎ去って、辛かった心の傷は治癒されていきます。それは決して悪いことではなくて、次に訪れる幸せを最大限享受するための必要な行為なのです。楽しい記憶を忘れることが出来るから、今日の幸せを比較することなく楽しめることが出来ますし、辛い記憶を忘れることが出来るから、何気ない日々を辛い気持ちにならないまま過ごせるのです。
しかし、人は同時に思い出す生き物です。その記憶に関連するもの――少女でいうところの両親――を一度見るとその時にあったあれこれを思い出さずにはいられません。
少女は両親を顔を見て、昨日の激怒が頭をよぎりました。
毎日行動を共にする男の子とその日は空き家にもぐりそこでカードゲームをする。その後家路につくとあんなに優しかった両親が見違えたように目を変えて叱る。そんな昨日のことを少女は思い出してしまいました。「お前には願えば嫌でも現実になってしまう力がある」という父の言葉が頭を反芻します。
朝食を黙って食べていると、どこかから幼い女の子の集団の声が聞こえてきました。
それを少女は適度に羨ましがります。
彼女たちは年相応に、自分に正直になって願いを打ち明けたり、秘密裏に祈ったりすることが出来ます。明日の天気が晴れるように、または好きな人と繋がるように祈ることが出来ます。わずかな期待を胸に込めて布団の中でじたばたするその行為は、どうしようもなく好きな人の背中を見ているときと同じように、無意味と知っていながらもどこか楽しいことなのです。
しかし、少女にはそれが出来ません。祈りが意味を持ち、具現化してしまうからです。自分の想いから目を背け、我慢して、みんなのために尽くさなければなりません。
一体それのどこが幸せなのでしょうか?
少女は、ふと思う時があります。自分が量産的で無個性な家に生まれ、そこの彼女たちが過ごすような平凡でありきたりな人生を過ごしてみたい、と。町の人たちのような人生が過ごせるなら、それはなんと立派なことであろうか、と。
閉まり切って動かない窓を眺めながら、少女は出かける準備をします。
外を出ると、太陽が一段と輝いていて少女の鬱屈とした気持ちも幾分か良くなりました。少しばかり笑顔を取り戻した少女はそのまま日課であったおつかいを済ませ、そして、男の子の元へと向かいます。
特に何も喧嘩したわけではないのに、どこか少女はバツが悪そうでした。今日はどう声をかけようかな、などと普段なら一切気にも留めないことを、今日ばかりは考えているようでした。
結局当初考えていた計画は彼を前にすると立ち消えて、いつも通りのあいさつでいつも通り階段に座っている男の子に話しかけました。
「こんにちは、今日も川を見ているの?」
もうそろそろ来ると思っていたよ、そう言わんばかりに振り向く彼を見ていると、少女の不安は段々と無くなっているようでした。良かった、いつもの日常は変わっていなかったんだ。
「今日も川を見ているんだ。もうすでに飽きてしまったけど」
「今日は何をしようかな」
少女の提案に男の子は少し口に手をやった後、何かをひらめいたような表情を見せます。
「そうだ、一個やってみたいことがあったんだ」
一瞬彼女の顔が強張りますが、男の子は構わず続けます。
「川に瓶を流してみたいんだ」
男の子が話す内容を簡単にまとめると、このような感じでした。この町は同じような日々に溢れていて、まるで何も刺激がなく、面白みもない。だから海に手紙を入れた瓶を流すように、自分たちがよく目にする川に流すことにしよう。そして、何か物語の始まりのようなものを期待しよう、ということでした。
「物語の世界みたいでカッコいいだろ」
男の子は目を光らせながらそう言いました。昨日も同じように目が輝いていたな、と思いつつ少女は今回ばかりなら影響もないし大丈夫だろう、と考えました。
「そうか、ならやろう。実はすでに用意してあるんだ」
少女の深く喋らない様子に男の子は一度は違和感を持ったものの、そのまま袋から二人分の瓶と手紙と、それとペンを取り出しました。
「これに書いて、二人同時に放そう。返しの連絡が来ることを祈って」
少女はそれに言葉で答えることはせず、頷いて紙を手に取りました。男の子はそれをじっと見ながらも、やがて一息ついて自分の手紙を書くことにしました。
しばらく二人に無言の時間が流れました。聞えてくるのは町の活気と川のせせらぎだけで、二人の間には会話らしきものが一切飛び交うことがありませんでした。男の子はその間に手紙を書き、抜かりがないかどうか丹念なチェックをしていました。
一方で少女は、何もしていませんでした。どんなことを手紙に書こうか、少女は迷っていたのです。あれほど文通したいと言っていたのに、いざその場になると何も書けない自分を少女は呪いました。
まっさらな紙と使われてない新品のペンを持ったまま座っている少女を見かねて、男の子は声を掛けました。
「どこか具合でも悪いのか?」
そう言って、男の子は女の子のすぐ隣に座り直しました。
「なんか今日は変だぞ。いつもより表情が暗いし、あまり喋らないし。もしかして何かあったの?」
少女はその言葉が本当に嬉しくて、でも少し困って、ぐらぐら迷うような気持ちになりました。男の子が自分のことを心配してくれるのは誇張抜きで嬉しくて嬉しくて、少女は心の内にためていたあれこれを全て彼に打ち明けたいと思いました。しかし同時に、男の子にそれらを全部打ち明けたところでどうにもならないという諦めが少女の頭に浮かんでいました。むしろ、男の子を困らせてしまう。昨日の彼の行いを自分から責めてしまうことに繋がるかもしれない、そう思えば思うほど彼に打ち明けたいけど打ち明けたくない、二つの相反する想いに苛まれていました。
少女がそのゆらゆらとした瞳で男の子の瞳を見ていると、男の子は少女の肩を持って真っ直ぐに見返しました。
「正直に言ってくれて構わないよ。それが何だとしても、全力で相談に乗るから。決して誰にも言わない、秘密にすることを約束するよ」
彼の目は、とても真っ直ぐでした。その目と言葉が引き金となって、少女はぽつぽつと語り始めました。
生まれた時から願えばそれがかなってしまう不思議な一家に生まれたこと、それがきっかけで歴史的に戦争が頻発し、この能力は人々を惨い目に遭わせてきたこと。物心ついた時にはすでにこの力について教育されてきて、自分の願いは我慢して何とか抑え込もうとしていること、自分の願いよりも相手の願いを優先して生きていかなければいけないこと、そして……。
「昨日、お父さんに怒られちゃったんだ」
「どうして?」
「君は悪くないんだけどね、これは私の話なんだけどね。昨日空き家に侵入した時、町の人に見られてたみたいで、それで沢山叱られちゃったんだ。祈りの力を持つような人間がそんな町の人たちに心配されるようなことをしてはいけない、ってね。あと、『今のお前は毎日が楽しそうだが、ほどほどにしておけよ。あまりのめり込むとろくな目にも合わない』と言われたよ」
「そっか……。大変な家なんだな」
「うん……」
そう呟いて少女は後ろに両手をつき天を仰ぎます。
「あーあ、自分の本当の願いは何なのか、それをどう町の人のために役に立てるのか、とか言われても分かんないよ」
その言葉を聞いた男の子は少女の方を振り向きました。
「そんなもの、僕は別にどうでもいいと思うけどなぁ。だいたい、人の役に立つ自分の本当の願いってありもしないと思うけどなぁ。何かが変わるということは、誰かが割を食うことでもあるし」
「でも……」
一息ついて、男の子は言います。
「そんなもの、気にしなかったらいいんじゃない? 自分の気持ちに正直になって、心の底から自分が本当にその力を欲しい、と思った時に使えばいいんだよ。だってそれは、君の力じゃないか。誰がなんと文句を言おうとも、それは君が自由に使っていい力なんだよ」
「……本当?」
「本当だよ、きっと人生はそんなに悩まなくても生きていける。君も悪い人ではないんだし、自分の願いで世界が滅ぶようなことは決してないはずだよ」
少女はその言葉に安堵しました。「良かった、その言葉信じてみるよ」
「いいじゃないか、いつもの顔に戻ってきた」
少女は微笑みました。
「それ、本当?」
「本当だよ。さぁ、自分の力を考えた後は手紙にどんな内容を書くか一緒に考えよう」
男の子の声掛けもあって、少女は再び手紙に向き合いました。自分の気持ちに正直になる、という彼の言葉を胸に一つ一つ、彼女は書きたいことを考えていきました。振り返るとそれは、かねてから想像していた男の子との文通の内容でした。
「なんかいつも喋ってる時の君みたいだね。変わってない」
男の子は少女の手紙を見てこう評価しました。少女は心の中でふっと笑います。それはそうです、その平和な日常を続けたいのですから。
「そういえば、私の手紙はこうだけど君の手紙はなんて書いたの」
男の子はその問いに無視して瓶に手紙を詰め始めます。
「あ、私の質問を無視した」
少女がそう言うと、男の子は不敵な笑みを見せます。
「今日はまだ早いなぁ。またいつか、話せる時が来たら話すよ。今日はまだ秘密ということにしといてくれ」
そうして、二人は川に小瓶を流しました。
川の流れる音と共に、小瓶が安らかに下流の方へと流されていきます。
二人はそれが見えなくなるまで大切に見守った後、気が付くとまた日常のあれこれを話し始めました。
少女はその時間が楽しくて、時間が過ぎ去るのを忘れるほどに会話に熱中していました。
日が暮れて二人は別れの言葉を口にします。そこには先ほどのような一定の距離感は一切無く、いつもの心地よい距離感に戻っていました。
また明日もこんな毎日が続けばいい。そしてこのまま、平和に過ごしたい。少女はそう考えながらいつもの健やかな笑顔で家路につくのです。
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