第31話 その名はアバドン

『終わらぬ……終わってたまるか! 俺は王だ。俺がァ、王になるのだ……ッ』


 ヴァシュラートは吐血しながら、最後の力を振り絞って……叫んだ。


『我が……血脈に眠りし魔王のエゴよッ、深淵への呼び水となりて……力の源流へと導きたまえェッ!』


 それは姉さんが力を引き出したのと同じ詠唱。

 既に半覚醒状態にある者が、より覚醒を望むとどうなるのか。

 だがこうして鉄の剣がいまも突き刺さってる以上、引き出そうとする〈魔王のエゴ〉も大きく阻害されるはず。


 果たして、そんな無理矢理な状況で力を引き出した場合、その影響は――


『ルゥゥゥォォオアアアアアッッ……!!』


 ヴァシュラートのまとっていた甲冑が全て弾け飛んだ。

 すさまじい衝撃と共に、俺も後方に吹き飛ばされる。

 顔を上げたとき、ヴァシュラートの様子は明らかにおかしくなっていた。

 それは、〈エゴ〉……魂の輪郭の喪失という意味において正しい変貌だったのかもしれない。

 甲冑だけでなく、服が千切れ、やがて肌が露出すると、その肌も全身がひび割れ、筋肉の繊維を剥き出しにした生身の肉体だけが露わになっていく。

 一方、個性の象徴とも言えた顔面は……毛髪、眼球、鼻、唇、頬が喪失し、顎の骨と歯牙だけを剥き出しにした、醜怪なのっぺらぼうと成り果てていた。

 骨格は大きく膨れあがり、肩胛骨が隆起したかと思うと、背中から二対の巨大な翼手が生えてきた。

 それはもはや人としての原型すら失った、醜い化け物としかいえぬ存在で。


「これ……もう、人間じゃねえだろ……っ」


 顔無しの怪物は、慄然たる叫びをもって吠え猛る。

 それはいつか聞いた、百匹の獣がいっせいに咆哮を上げたような、おぞましい鳴き声だった。

 長大な腕が振るわれ、俺の身体は真横に大きく吹き飛ばされる。


「がはっ……うぅッ」


 新たに生えた二本の腕……巨大な翼手は、物理攻撃の象徴に他ならない。

 奴は俺が物理攻撃でしか倒せないと判断し、直接手数を増やした異形に変異したのだ。


「魔術師だろうがなんだろうが、結局最後に頼るのは筋肉って……そういうことかよ」   


 真っ赤に膨張した筋肉質な体躯は、グロテスクなまでに威圧さを放っている。

 もはや脳まで筋肉と化したのか、ヴァシュラートはグルルと歯を食いしばり、口角から涎ををこぼしながら理性すら失いつつあるようだった。

 考える力がない。

 そう思った直後、ヴァシュラートは俺ではなくリリーシェの方に向き直る。


「えっ……」


 もはや暴走状態に陥ったヴァシュラートは、俺に目もくれることなくリリーシェに襲いかかった。

 速い。そのスピードは、俺が追いつけぬ俊敏さをもって彼女に迫る。

 膨張した剛腕がさらに限界まで隆起し、大きく振り上げられた。

 恐怖で身体を強ばらせたリリーシェに、死の一撃が振り下ろされる。


「ふざ、けるな……ッ」


 また俺の前で……殺すのか?

 させない。認めない。許さない。

 断じて……やらせるわけにはいかない。

 こんな生物は、この世にいちゃあいけない。


「お前みたいな奴はなあっ……この世にいらないんだよっ!」


 そう、叫んだ瞬間――


 ――ドクン


 と、心臓が脈打った。

 まるでその言葉を待っていたかのように。 

 ある一つの……強い意志を抱いた瞬間、頭の中が真っ白になる。


 ――……ネロ。


 頭の奥に響いてくる獣の声。

 目の前の脅威を、目の前の存在を、目の前の生命を、否定したい。

 ぐつぐつと腸の奥底で煮えたぎっていく漆黒の情動が、ゆっくりと鎌首をもたげる。


 ――ユダ……ネロ……。


 それはいつからだろう?

 俺の中に眠っていた暗黒の獣。

 そいつは、理性という名の鎖を引きちぎれることを、いまかいまかと心待ちにしているようだった。


 ――ココロヲ、ユダネロ……。


「うっるせぇ……ッ!」


 が、沸き上がってくる衝動を俺は歯を食いしばって抑え込む。


「俺に、命令するな……」


 こんなタイミングで湧いて来やがって。

 絶対に見てんだろ、お前は!?


「こんな世界にッ……勝手に、呼びつけやがってよ……っ!!」


 ああ覚えてる。覚えてるとも俺は! 最初っからな!

 十七年も前から耳元でボソボソずっとつぶやきやがって……くそったれ。

 最悪の子守歌だったよ、おまえの声は……ッ!


 ――目覚めろ。次世代をになう異邦の始祖。

 ――招かれし、旧文明の破壊者よ。

 ――お前の正体とはすなわち、〈――


 ああうるせえ黙れ! 誰がテメェの言うことなんか聞くか!


「いいから黙って、力だけよこせぇッ……!」


 ――〈アバドン〉。第一階梯かいてい・限定起動、承認。


 直後、俺の全身から目に見えない力がほとばしった。

 胸の内から沸き上がってくる不思議な感覚。

 その流れに身を任せるように、俺の身体はヴァシュラートへと疾走する。

 間に合わないと思っていた距離は、一瞬にして詰め寄られた。


『無駄ダ! 俺は無限に蘇る! 貴様に俺を殺せるか!? ユゥシアアア!!』


 絶叫しつづけるヴァシュラートに、俺は刀を振りかぶって静かに告げる。


「殺しはしない。死なせもしない。ただ、お前の存在をなかったことにするだけだ」


 空っぽだった器に注入された、一つの明確な意思エゴ

 それは絶対的なる魔の否定。

 魔術で成したこと、魔法で起きたこと、破壊も創造も含めてその全てを消し去らんとする光が鉄の剣よりほとばしる。


「〈魔崩まほう〉――【因果覆滅いんがふくめつ】」


 周囲を白と黒の閃光が支配し、そのコントラストは波動となって駆け巡る。


『がッ!?、う、ぐッ、ぉぉぉァァァァアアアア……ァァッッ』


 その明滅に飲まれたヴァシュラートの肉体は、またたくまに光の粒子となって消えていった。

 やがて白黒の閃光は、ヴァシュラートが変形させてきた周囲の地形をも修復していく。


「ユーシア、これって……なに?」


 リリーシェはなかば呆然としながら尋ねてくる。


「魔術や魔法で生まれた、全ての過程と結果を、なかったことにしてるだけだよ」


「なかったことって……ど、どゆこと?」


「さあ……俺にもよくわからない」


 分かっているのは今晩ここで、魔法での殺し合いは発生しなかったという事象の改変だ。

 魔に絡んだものなら、全ての因果律を操作できる。

 俺は破壊の事象を除去したが、たとえそれが国や建物であったとしても同様に無にできることだろう。

 覚醒してしまった力の悪徳を、うっすらとだが確実に理解する。

 まさに魔術で栄えた世界を、一瞬で滅ぼすための次世代の魔王の力。

 あまりにも大きすぎる力だ。

 こんな爆弾を……俺の中に宿して、呼びつけていやがったのか。神の奴は。


(これがいわゆるチートスキルってやつか? 糞が。とんでもない邪神だな)


「ユーシア、髪の毛……真っ黒になってるよ? それ煤じゃないよね?」


「え?」


 言われて水面に顔を映すと、姉さんと同じく金髪だった俺の髪の毛は黒色になっていた。

 なぜかは分からないが力の発動と共に……黒くなってしまったのだろう。


(漆黒の髪……か)


 この世界で黒髪はとても珍しい。

 それこそ、今まで世界で一人しか見かけたことがない程度には。


「んっ……あ……」


 一方、小さく喘ぐ声が聞こえ、俺は……この力を一番行使したかった相手に近づく。


「姉さん……」


 ヴァシュラートの攻撃で千切れた姉さんの身体は、完全に元通りに戻っていた。

 そもそも空間圧縮など、最初からこの世に存在していない。

 に、俺が決めたのだから。


 俺は眠ったままの姉さんを背中におぶり、リリーシェと共に貯水湖を離れる。


「ユー君……」


 背中に感じられる鼓動は、俺にとってかけがえのない家族のもので……


「いつのまにか、こんなに大きくなってたんだね……」


 俺が本当にようやく見つけだした、愛情の形だったのだから。

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