四章 斬魔転生村正

第23話 悪夢

  ◆


 落ちていく。

 心が、深い深淵へと潜り始める感覚。

 そこは夢の狭間なのか、脳裏には何となく海底に沈んだ沈没船のイメージが湧いてきた。

 緩慢な動作で暗い水中を進む感覚。

 水の中をゆっくりと泳ぐ感覚は、意識が落ちていく速度の体現なのか……俺の主観は船へと近づいていく。

 船体への扉を開いて中に入ると、より一層心の深部へ潜った直感があった。

 潜水服で沈没船を探索するように船内の廊下を進み、さらに別の部屋への扉を見つける。

 扉を開けると、船内のホールのような場所に出た。また一層意識が沈む。

 もっと。もっと。暗く、より深い場所へと潜る。

 海底深くの沈没船。

 その個室が深層意識におけるゴールなのか、やがて一つの部屋とたどり着き、ドアを開いた瞬間……


 景色が変わった。


(どこだ? ここは)


 俺は外に出ていた。

 直前まで見ていたイメージの海中ではない。

 風の匂いが薫る外の世界。

 王都イシュガリスの中の光景だ。


(ここはまだ夢の途中? それとも、現実の外なのか?)


 判断が付かないのは周囲が暗いためだ。

 夜の帳が落ちているからである。

 俺は自分が眠ってから、既に数時間が経ったのだと思った。

 そうして陽が沈み、真夜中になってしまっている。

 俺はどうなったのだろう?


(ここ、もしかして墓地か……?)


 周囲に、Ψの字の形をした墓石が目に付いたことからおおよその見当が付いた。

 教会のシンボルがこんなにあるということは、下層街の共同墓地に他ならない。


(ある意味、俺にとっちゃなじみ深いが……)


 普段、忌金属として扱われる鉄はひつぎの細工に使われている。

 悪霊や邪念といった〈悪いエゴ〉が、死体に取り憑いてアンデッド化しないよう、死者の眠りを安らかにする風習として鉄が遺体に添えられるからだ。


(しかしなんだってこんなところに俺はいるんだ?)


 混濁した意識で考えていると、ぐしゃりと何かが潰れる音が響き渡った。

 気がつくと、足下には血溜まりに沈んだ兵士の姿がある。


 ――足らぬ。


(ううぅっ!? こ、こいつはっ……この姿はッ!)


 全身からは漆黒の闘気が立ち上っていた。

 巨躯の足に踏まれた兵士の亡骸は、力を込められ無惨な肉塊と化す。

 鮮血が飛び散り、足下に生温かな返り血が触れる感覚。


 悪夢だった。

 俺はまた怪物になってしまっていた……。


(し、師匠は!? 俺を止めてくれたんじゃないのか!?)


 俺が変異したなら殺してくれると約束してくれていたのに、どうしたんだ?

 まさか、見逃してくれた? 俺のことを殺せなかったのか?


(あるいは……逆に……)


 怪物になった俺に返り討ちに遭い、既に死亡しているのではないか。

 そんな最悪の予想が脳裏をよぎり俺は身もだえしそうになる。


(バカな! バカな! あり得ない、あり得てたまるかそんなことッ!)


 懊悩おうのうするこちらをよそに、もう一人の俺は獰猛な息づかいで肩を荒げている。


 ――足らぬ。血が足らぬ。満ち足りぬ!

 ――よこせ。贄を……もっと、我に血の供物を捧げよ。


 おぞましいまでの情動がノイズとなって走り抜ける。

 強烈な飢餓感。

 もう一人の俺は異常なまでの殺戮衝動に囚われているようだった。

 共有される思考から、強い破壊の意識が感じられる。


(やってないよな? おい! 師匠を殺してないだろうな!?)


 ――死、血、殺、燼、滅、戮、誅、鏖。


 ぞくりと、流れ込んでくる負の感情。


(昨日はまだ、もう少し理性的だったぞ……)


 それがいまはどうだろう?

 言葉にできない感情が、がむしゃらに吹き出している。

 いったいどうしたら、これだけの殺戮衝動を目覚めさせられるのか。


(狂ってるのか?)


 こんな考えに至る時点でもう……心の中が壊れているとしか思えない。

 サイコパスだ。

 説得も自制もできないほど、砕けた人格がそこにあった。


「そこで何をしている」


 そのとき、強烈なプレッシャーを感じて全身が硬直する。

 振り返ると、墓地の奥から夜闇に紛れて近づいてくる人影があった。


 闇よりもなお暗い漆黒の甲冑……

 その出で立ちを見た瞬間、俺は相手の正体が分かった。


 黒騎士アアルシャッハ。法王庁の異端審問官。

 黒騎士の視線が俺の足下に転がった骸に注がれる。


「祈りの場を汚すとは……化け物め、貴様が例の殺人犯か」


 黒騎士は俺に向かって告げた。


「動くな」


 その言葉を浴びた途端、すさまざしい衝撃が全身に走った。

 心を砕く黒騎士の魔声。

 それは言語を絶する畏怖となって身体の芯にたたきつけられる。


(うおっ、昨日と昼間は何ともなかったのに)


 だが……


『学ばぬ奴だ……お前の【ドラゴニック・ハウル】は俺には効かぬというのに』


 もう一人の俺はその衝撃に耐えるように笑みを漏らす。


『とはいえ、これほどの圧は初めてだな。人の身で咆哮を発するとは、さすがは竜の娘といったところか』


「動くなと言っている!」


 再び押し寄せる力の波。

 それは魂を震撼させる音となって俺を貫いた。


『無駄だ。いまの俺にはがあるのでな。負担はもう一人の俺が感じるだけにすぎん』


 クソ! 涼しい声で返しやがって。

 お前のダメージを俺が肩代わりしてるって言いたいのか?


 ――あァ邪魔だ。こいつがずっと目障りだった。いい加減処分するとしよう。


 俺は手の平を黒騎士にかざす。

 そして開いたままの手をグンッと掌握した。


『死ね』


「……ッ!!」


 瞬間、空間の一点が狭まり陽炎のように揺らいだかと思うと地形が圧縮される。


 ――空魔くうま縮滅掌しゅくめつしょう

 〈波〉の系統を極めし、俺だけの技だ。


(まさか……〈魔法〉にも覇界と自界の二種類があるのか……?)


 必殺の手応え。

 だが、黒騎士は潰れるより早く猛烈な勢いで後方に吹き飛んだ。


『む……?』


 ――式は発動した。しかし潰れずに不発で終わるとは。……なぜ?

 ――そうか……声を、ぶつけたな?

 ――圧縮空間に、自らの声……強力な音の波をぶつけ歪みを発生させたか。

 ――ゆえに弾かれた。よもやそのような回避策があろうとはな。良いぞ。


 もう一人の俺は暗い愉悦を感じていた。

 相手はいたぶるに値する存在だと。

 即死させるのではなく、なぶり殺しこそが相応しいと踏んだのだ。


 一方、衝撃で吹き飛んだ黒騎士は、倒れたまま動かない。

 全身を覆っていた甲冑は弾け飛び、いたるところに裂傷を負っている。

 そして何よりも、露わになった素顔を見て俺は愕然となった。

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