第一三〇話 旅立つ前に 一三 余興


 鏡の間を俯瞰すると、中央下手から上手へと赤絨毯が一本の線のように敷かれ、その赤い中心線から距離を空けて左舷側には女性陣、右舷側には男性陣が、口々に何やらささやきつつ、中心線のほうを向いて立ち並んでいる。


「あちらのご令嬢、怪我などされねばよいが……」

「武器の使用を禁じているとはいえ、あのお三方が相手では、下手をすれば諸侯でさえ手傷を負いかねんだろう……。マーヤ・ラ・ジョーモンなるご令嬢、さすがに〈王級〉の契約者ということはなかろうが、それでも、〈諸侯級〉の契約者を姫君と呼ぶ場合もあるというのに、もしそうだった場合、怪我でもさせてみろ、国際問題に発展しかねんぞ」

「まったく、〈残虐公女〉は何を考えておるのやら……」


 こんな感じで、伯爵三人と勝負させられることになった真綾の身、あるいはこれが大事に発展することを、この場にいるほとんどの者が心配していた。

 何しろ、コロニア伯の守護者は怪力を誇るトロール、グーデンスブルク伯とシュタイファー伯は〈伯爵級〉上位のリントヴルムが守護者である。しかもグーデンスブルク伯に至っては、エーリヒの引退後から宮中伯麾下の竜騎士を束ねている猛者なのだ。諸侯すら脅かすこの戦力が真綾ひとりに向けられるのだから、人々が心配するのも当然である。

 その一方――。


「カタストローフェ教授に喧嘩を売るなど、コロニア伯も命知らずな……」

「然り。息子の話では、伯爵二名を含むレーン団全員で挑んでさえ、教授には皆目歯が立たなかったらしいからな。それも、思いきり手加減してくれている教授を相手にだぞ」

「先ほども申しましたが、カタストローフェ教授でななく、真のお名前はマーヤ・ラ・ジョーモン様ですぞ。……ともかく、あのお方にかかれば、伯爵三人を降すことくらい造作もないでしょうな」


 レーン団員の保護者たちは真綾の身を案じるどころか、自分の立ち位置も忘れ、誇らしげに彼女の勝利を確信していた。

 真綾が勝ったら勝ったで彼女の怒りに触れた宮中伯領が滅ぼされないか、普通なら案じようものだが、真綾の信者と化した息子から話を聞いているうちに、すっかり保護者たちも染まってしまったようである。どこかのパン職人ツンフト代表のようにならないことを祈ろう。

 それでは、参戦しない伯爵たちはどうしているだろう?


(ノイエンアーレ家には敵意のないことをマーヤ様にご理解いただけたかしら? あんなものを見せられたのですもの、是が非でもマーヤ様に取り入ってみせるわ)


 ファーヴニル瞬殺の場面を思い浮かべ、年齢不詳な美貌を野心に綻ばせるノイエンアーレ伯に――。


(マーヤ・ラ・ジョーモン……。あんな桁違いの怪物を本気で怒らせたら、身の破滅どころの騒ぎじゃないぞ……)


 ――ファーヴニル瞬殺の光景を思い出し、精悍な顔を恐怖で曇らせるグラーフシャフト伯。

 そして、もうひとり――。


「この勝負、どのようにご覧になります? フロスヒルデ様」

「あの子、ここにいる誰よりも強い。それに、懐かしい匂いがする」

「懐かしい?」

「うん、クラリッサの匂い」

「……そうですか」


 フライスガウ伯は同伴者であるフロスヒルデとの問答のあと、居城に飾られている肖像画とどこか似た美しき黒髪乙女の姿を、フロスヒルデと同じ水色の瞳でじっと見つめた。


      ◇      ◇      ◇


「さあ、始めましょう」


 ついにゾフィーアが勝負の始まりを告げると、観衆は息を呑んで成り行きを見守った。

 片や腕に覚えある伯爵が三名、片や麗しき乙女がひとり、長さ二〇メートルほどの赤絨毯を挟んで対峙する双方だったが、ほとんどの観衆には勝敗の行方など容易に想像できた。……無論、真綾の敗北という形で。


「この大女め、宮中伯麾下八伯が力、ヒック、とくと見よ! ――突撃ィィィ!」

「しかたありませんね」

「参る!」


 コロニア伯が矢のように飛び出したあと、シュタイファー伯とグーデンスブルク伯も間髪入れず駆け出してゆく。

 軽い人体をトロールやリントヴルムの力で動かしているため、彼らの速度たるや凄まじく、三人は瞬く間に長い距離を半分まで詰めた。

 そのままの勢いで突っ込んだ彼らに叩き伏せられる真綾の姿を、ほとんどの者が想像した――その時!


「え……」


 突進中のコロニア伯たちを始め、鏡の間にいるほとんどの者が、奇跡的に揃って短い声を上げた。

 なんと、全力疾走していたはずの伯爵三人が、まるで絵画に描かれた人物であるかのように、疾走している姿勢のままピタリと静止しているではないか、それも、宙に浮いた状態で……。


「クッ! なんらコレはっ!? ピクリとも動か――」

「船内での全力疾走は、ご遠慮ください」


 ゾクリ……。


 トロールの剛力を振り絞ってなお微動だにせぬ〈不可視の呪縛〉に、コロニア伯は額に汗を浮かべて焦っていたが、すぐ耳元でささやく声が聞こえるや、思わず背筋を凍らせた。……いつぞやのボスハーピーと同様に。

 やがて、ポカーンと口を開けて見守る観衆の前で、そのまま伯爵三人は赤絨毯の外にそっと降ろされた。

 こうして、いとも呆気なく勝敗は決したのである。

 めでたし、めでたし――。


「いやいやいやいや! 今のは反則れあろう!」


 呪縛から解放されるや否や、回らぬ舌で猛抗議し始めるコロニア伯……。どうでもいいが、シュタイファー伯のように加護を使って酔いを覚ませばいいのに、彼はその判断もできないほどに酔っているらしい。


「私の耳元れ今聞こえたのは、ヒック、間違いなく女将の声ら! あの娘に女将が加勢するなろ、聞いておらん! 今のは女将の能力か眷属に止められたのれあって、ヒック、あの娘に負けたわけれはにゃいっ! 卑怯ら!」


 女将とは熊野のことか……。ともかく、真綾と熊野の関係を知らぬ彼からしたら、高位精霊である熊野が真綾の助太刀に入ったとしか思えないのだから、このお怒りもごもっともではあるし、熊野のことを高位精霊と認識している観衆からも、コロニア伯の抗議を聞いて、「なるほど、それはいささか卑怯なのでは……」、などと眉をひそめる者たちが出てきた。

 この状況を見て、熊野が真綾の脳内に声を響かせる。


『真綾様、あちらの方は随分とお酒を召されましたし、是が非でも真綾様のことをお認めになりたくないご様子ですので、わたくしが真綾様の守護者であると説明しても、おそらく信じてはいただけないでしょう。それに、他の皆様方も信じていただける雰囲気ではなくなりました。ここは、わかりやすい方法で力を示したほうがよろしいかと』

(わかりやすい方法……)


 熊野の進言を聞いた真綾は目を線のようにして考え込んだが、その間もクドクドと文句を並べ立てていたコロニア伯は、最後に宙をキッと見上げ、姿の見えぬ熊野に釘を刺す。


「何かと世話してくれた女将に言うのは、ヒック、心苦しいが、勝負の邪魔をされては迷惑千万! 女将は手らし無用! ――シュタイファー伯、グーれンス、ヒック伯、仕切り直しといきますろ!」

「はあ……」

「……」


 勝負を続行すると言うコロニア伯の勢いに押され、シュタイファー伯は困ったような表情で赤絨毯へ戻り、ゾフィーアに目配せされたグーデンスブルク伯もまた、無言のままそれに続いた。


「突撃いぃぃ――い!?」


 赤絨毯に戻ったふたりの姿を確認するや、威勢よく叫んで駆け出そうとするコロニア伯だったが、すぐに我が目を疑った。

 一〇メートルほど向こうで静かにたたずんでいた真綾が、その姿勢のまま自分の目の前に立っているのだ。まるで、途中にある空間そのものを切り取って来たかのように……。

 しかし、この程度で驚いていたのでは身が持たないぞ、コロニア伯。


「分身の術。……ドロン」


 慌てて身構える伯爵三人の前で、真綾が印を結んでボソッと言った――次の瞬間!


「馬鹿なっ! 増えたらと!?」

「私、まだ酔いが残っているのでしょうか……」

「むう……」


 三伯爵が揃って驚くのも無理はない、八人にも増えた真綾が、自分たちをグルリと囲んでいるのだから……。

 熊野丸の船内では中継なしに瞬間移動し放題な真綾だが、瞬間移動を繰り返すことにより、何人も存在するかのように見せることも可能なのだ。これぞまさに分身の術!

 その分身の術に観衆たちも驚きを隠せないなか、三人の伯爵は互いに背を預けるようにして三方を向き、自分たちを囲む真綾軍団からの攻撃に備えた。


「……グーデンスブルク伯、召喚しますか?」

「いや、こんなところでリントヴルムを召喚したら、皆を巻き込みかねん」


 シュタイファー伯の提案をグーデンスブルク伯は即座に却下した。

 その後ろで、赤ら顔に汗をかくコロニア伯だったが――。


「おのれぇ、面妖な術を使いおって。かくなるうえ――!?」


 ――なんと、分身のひとりに飛びかかろうとした彼の眼前で、真綾軍団の姿が忽然と掻き消えたではないか!

 この時、驚愕に目を見開くと同時に、彼ら三人は自分の背後に突如として出現した気配を察知した!


「っ!」


 声にならぬ声を揃って上げつつも咄嗟に前へ跳んで逃げ、背後を振り向いた三伯爵の目に、ひとりに戻った真綾の姿が映る。

 無論、背を預け合う三伯爵の背後にできていた三角形の空間に、真綾が瞬間移動したわけなのだが、その刹那、彼女はちょっとだけ思い浮かべてしまったのだ、手刀を一閃させる自分の姿を……。


(……く、首がある!?)

(今のは、いったい……)

(これが実戦であったら、我らは……)


 コロニア伯、シュタイファー伯、グーデンスブルク伯、揃って自分の首すじに手をやった三伯爵の全身から、冷たい汗が噴き出してくる……。武人であり〈伯爵級〉の守護者も持つ彼らには、真綾の気配を察したと同時に、首を切断される自分の姿が見えてしまったのだ。

 死を司る女神のようにたたずむ(本人はヌボーっと突っ立っているだけだが……)真綾の姿を、三人の伯爵が青ざめた顔で三方から見つめていると、この場面にそぐわないアナウンスが急に入った。


「ブブー! シュタイファー伯様、アウトー。グーデンスブルク伯様、アウトー」

「え? あ……」

「むう……」


 緊迫感のカケラもない熊野の声で我に返ると、シュタイファー伯とグーデンスブルク伯は、自分が今どこに立っているかをようやく悟った。……そう、背後の気配から跳んで逃げた彼らは、自ら赤絨毯の外に出てしまっていたのだ。

 一方、赤絨毯の敷かれている方向に跳んだおかげで、コロニア伯だけはセーフである。


「こっ、これも無効ら! 自ら外に避けたらけれはにゃいか! こんな――」

「いや、コロニア伯、負けは負けだ。――シュタイファー伯も異存なかろう?」

「はい……」


 またもや抗議し始めるコロニア伯だったが、そんな彼の言葉をグーデンスブルク伯は遮り、シュタイファー伯もまた、己の敗北を潔く認めた。


「なあコロニア伯よ、先刻見た分身の術といい、体を動かしもせず一瞬で間合いを詰める術といい、尋常ならざる御業ではないか。それに、こうして立ち姿を拝見するだけでも、マーヤ様ご自身も武の極みに達しておられることが察せよう。……加護においても武においても、マーヤ様は我らのはるか高みにおられるお方なのだ、これが戦場であったなら、我ら三人、すでに何度も殺されておろうよ。――マーヤ姫殿下、誠にご無礼つかまつった」

「わ、私も酔っていたとはいえ、たいへんなご無礼を! …………重ねてのご無礼を申し上げること、誠に恐縮至極ではございますが、この身はいかなる罰をもお受けいたしますので、我が一族と家臣、そして領民の命ばかりは、どうかお慈悲をもってお許しください!」


 コロニア伯を諌めたグーデンスブルク伯は、その場で右膝をつくや真綾に向かって謝罪し、シュタイファー伯も彼に倣って謝罪した……いや、雲上人に酔って絡んだ挙げ句、こんな勝負にまで巻き込んでしまったのだから、彼女の必死さはグーデンスブルク伯の比ではなかった。

 今度こそ、めでたし、めでたし、かと思いきや……。


「なんと情けない! 年若いシュタイファー伯ならばともかく、グーれンスブルク伯ほろの武人が、ヒック、臆されたか! ええい、もう構わん! ――よいか大女、この偽りの姫よ! 今からこの私が、ヒック、化けの皮を剥いでやるから、ヒック、覚悟せい!」


 ……コロニア伯が納得していなかった。

 彼は据わった目で真綾を睨みつけ、シャックリ交じりに啖呵を切ったかと思えば、なんと、赤絨毯の上に召喚陣を浮かび上がらせたではないか!

 そして、輝くそれから徐々に姿を現したのは、大きな鼻が特徴的な毛むくじゃらの巨人、〈トロール〉だ――。


 北欧に伝わるトロールの姿は、国や地域、あるいは時代により異なるが、この世界におけるトロールは小さいタイプではなく、身長が三メートル台半ばはあろうという巨人である。腕力と物理防御力に優れるうえ、再生能力まで備えているため、守護者を持たぬ常人が中隊規模で当たったとしても、容易に壊滅させられてしまうだろう。


 ――そのトロールが、生前に愛用していたであろう棍棒を携え、真綾の前に立ち塞がった。しかも、コロニア伯が巧妙な位置に召喚したため、トロールと、トロール並みの力を持つ彼により、真綾は挟まれているという状況である。


「コロニア伯! 武器は――」

「覚悟!」


 グーデンスブルク伯の鋭い制止も酔っ払いの耳には届かず、コロニア伯はカイゼル髭をピンと立てて真綾に襲いかかり、トロールもまた渾身の力で棍棒を振り下ろした。

 それ自体〈伯爵級〉の強度を誇る棍棒が、唸りを上げて真綾を襲う! 真綾危うし、危うし真綾!


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