第一二九話 旅立つ前に 一二 酔っ払い


 鏡の間を包んでいた熱気がようやく収まったころ、人々の関心は真綾に戻った。

 先刻の結婚の誓い、カールとアンナが至高の三女神の前で誓ったことは間違いないが、見ようによってはレリーフ前の真綾に誓ったようにも見えたし、何よりも彼女の存在感が尋常ではないのだから、人々の関心を集めるのも当然だ。


「あちらにいらっしゃる、やたらと背が高いご令嬢は、どなたであろうか?」

「さあ? 存じませんが、あの貫禄を拝見しても、ご自身が高い爵位をお持ちであることは間違いないでしょう」


 このような場で声を上げて本人に聞くわけにもいかず、こうして多くの者がヒソヒソとささやき合うなか、彼女のことを知るごく一部の人間が、大声こそ出さないものの、なぜか誇らしげに答え始める――。


「お教えしましょう。あちらのお方こそ、ヘッケンローゼにて学生らの性根を叩き直してくださった恩師にして、火災からエーデルベルクを救われた英雄、カタストローフェ教授でいらっしゃいます」

「然り。何を隠そう、うちの息子もカタストローフェ教授に命を救われたひとりでな、今や面構えも別人のごとく精悍になり、すっかり教授に心酔しておる。息子によれば、教授のお力は神にも等しいとか――」


 ――そう、あの日の表彰式典に居合わせた、レーン団員の保護者たちである。


 ノイエンアーレ伯たちと違いファーヴニル瞬殺の現場を目撃したわけではないが、あのあと自分の子に詰問し、真綾の起こした奇跡の数々を聞いていたため、この保護者たちは今や、彼女のことを異国の姫君として認識していた。

 この場合の姫君は、王の娘というだけではなく、〈王級〉の契約者本人という意味でもあり、ましてや異国の姫君ともなると、通常は上級貴族でさえ生涯に一度も拝謁する機会がない。そのような雲上人に、手ずから我が子を教え導いてもらえたのだから、保護者たちが誇りに思うのも無理はなかろう。


「いやいや、カタストローフェ教授とは世を忍ぶ仮の姿ですぞ、真のお名前はたしか、マーヤ・ラ・ジョーモン――」


 誰かが名前を訂正した――その時!


「マーヤ・ラ・ジョーモンは、どこらあぁぁぁぁ!」


 地獄の底から響いてくるような声で真綾の名を呼びながら、喫煙室の中から鬼気を纏った女性が現れた!


「……その黒髪、その美貌、そしてその長身……たしかに……。ようやくヒック、ようやく見つけましたよ、マーヤ・ラ・ジョーモン! ヒック……」


 据わった目で真綾を見つけるやビシッと指差すこの女性、酒くさく呂律が回っていないところからもわかるように、酔っ払いである。……というか、普段の凛とした美しさは見る影もないが、宮中伯麾下八伯がひとつ、シュタイファー伯である。

 甘いものよりも酒のほうを好む彼女は、かなり鬱憤が溜まっていたこともあり、女性としてはただひとり、喫煙室でグビグビと酒をあおっていたのだ。それも、途中から薩摩の芋焼酎を一升瓶ごと注文して、手酌で……。


「宮中伯閣下の命に従いヒック、バーれンボーれン(バーデンボーデン)まで調査に行ってみれば、バーれンベルク(バーデンベルク)城は崩壊しているし、その場にいたヒック、セファロニア貴族のご令嬢に事情を聞けば、なぜか親の仇れも見るような目れ睨まれるし……ヒック、バーれンボーれンの狩人ギルろ(ギルド)れ情報を収集しようにも、恐い顔のギルろ長以下、ヒック、全員が一丸になってヒック、何者かを庇っているような感じらし、ヒック……」


 一升瓶片手に、つらつらと愚痴を並べる酔っ払い。

 二十五歳にもなって結婚していない理由が、酒癖の悪さのせいではなく諸事情によることだけは、彼女の名誉のために付け加えておく。


「ようやく調査を終えてシュタイファーに帰ってみれば、ヒック、私の不在中にワイバーンが襲来したというし、ヒック、『今さらノコノコ現れやがって』、みたいな目れ見られるし……。パン職人ツンフトの長老に至ってはヒック、ワイバーンを退治してくれた異国の姫君を神として祀り、シュタイファー自体を捧げて庇護下に入ろうヒック、なろという、ヒック、無茶苦茶なうんろう(運動)を始める始末……。その姫君の像をらいしんれん(大神殿)に祀ることらけは許して、ヒック、なんとか丸く収めることが、ヒック、れきましたが、もう、踏んらり蹴ったりれす……」

「……」


 シュタイファー伯の愚痴を、線のような目になって気まずそうに聞く真綾……。そう、さすがの彼女にもわかったのだ、この酔っ払いの受難に対する責任の一端が、どれもこれも自分にあるのではないかと……。


「……それもこれもすべて、ヒック、黒き姫君こと、マーヤ・ラ・ジョーモン、あなたのせいれす! ヒック」

「…………」


 もう一度シュタイファー伯にビシッと指差され、どうしたものかと真綾が思案し始めたころ――。


「よく言ったシュタイファー伯! このように怪しげな人物をヒック、宮中伯領内へ呼び込んれ、ヒック、エックシュタイン家は何を企んれ、ウィィィ……。エックシュタイン家は何をヒック、企んれおるのら!」


 もうひとりの酔っ払いが参戦してきた……。あのまま酔い潰れていたコロニア伯だったが、この騒ぎのせいで目覚めたようである。


「らいたい、姫君らとぉ? 〈王級〉の守護者と契約を結んら雲上人が、ヒック、そう何人もいてたまるか! 爵位を詐称するは重罪、ましてや王を騙るなろヒック、極刑は免れぬ! それに加担するエックシュタイン家の罪も、ヒック、万死に値するろ!」


 据わった目で真綾を一瞥したあと、エーリヒとカールを睨みつつ激しく追及すると、コロニア伯はもうひとりの酔っ払いに声をかけた。


「シュタイファー伯、加勢するろ! 我られヒック、あの娘の化けの皮を剥ぎ、エックシュタイン家の陰謀を、ヒック、白日の下に晒すのら!」

「ふぇ? いえ、私はそこまれ――」

「さあさあ、宮中伯家の庇護を受けし伯爵たちよ、ヒック、今こそ恩義に報いる時れすろ! ともに手を携えヒック、閣下を陥れんとする奸物ろもに、ウィィィ……、正義のてヒック、せ、ヒック、正義の鉄槌を下しましょうろ!」


 慌てるシュタイファー伯の言葉に耳も貸さず、コロニア伯は他の伯爵たちにも参戦を求めたが、フライスガウ伯とノイエンアーレ伯は彼に憐れみの目を向け、グラーフシャフト伯もこめかみを押さえて動かない。

 そんななか、現在の八伯中最年長のグーデンスブルク伯が、領邦君主たるゾーフィーアに視線で問うと、問われたほうは紫の瞳で彼の視線を受け止め、背すじも凍るような笑みを浮かべて頷いた。

 すると彼女に小さく頷き返し、今度はよく響くバリトン声で真綾に話しかけるグーデンスブルク伯――。


「マーヤ姫殿下、誠に僭越ながら、このようにあなた様を疑っておる者がございます。こういった場合、力を示して疑いを晴らすことが世の習いゆえ、いかがでございましょう? それがしとコロニア伯、そしてシュタイファー伯、この三名と、ここはひとつ、力比べなどされてみては。宮中伯麾下が八伯はいずれも剛の者ゆえ、我ら三名を降したとあらば、もはや御身を疑う者はおりますまい」

「ふえっ? 私は――」

「おお、さすがはグーれンスブルク伯(グーデンスブルク伯)!」


 グーデンスブルク伯からの思わぬ提案に慌て、何やら言おうとするシュタイファー伯だったが、その声はまたもやコロニア伯の大声で掻き消された。

 ここで、真綾を守らんとするカールとエーリヒが、彼らの前に毅然と立ち塞がったのだが――。


「グーデンスブルク伯の言にこそ理あり、この勝負、レーン宮中伯の名において認めます。――タウルス=レーンガウ伯とエックシュタイン卿は手出し無用、マーヤ様のお力を信じるのなら、嫌疑を晴らす機会の邪魔立てなどしてはなりません」

「く……」

「ぬう、お披露目というわけか……」


 ――いつの間にか赤絨毯の傍まで来ていたゾフィーアから、威厳に満ちた声で命じられると、彼らは渋々といった表情をして下がった。


「シュタイファー伯、乗り気ではないようですが、騒ぎ始めたのはあなたなのだから、我慢して責任をお取りなさい」

「…………はい」


 領邦君主からの命令に、シュタイファー伯は酒くさい息を吐いてから諦めたように頷き、ほどなく加護を使って酔いを覚ました。そんな彼女の様子を満足そうに一瞥すると、ゾフィーアは三伯爵と真綾に視線を配りつつ声を大きくした。


「慶事の場に血を流すなど無粋の極みゆえ、これは私闘フェーデではなく、あくまでも余興としての力比べということにしましょう。そういうことで武器の使用を禁じますが、流血を避け観客も巻き込まぬと約束できるなら、守護者の召喚については許可しましょう。まずは双方赤絨毯の両端に分かれ、勝負開始後、相手を赤絨毯から落とした側の勝利とします――」


 シュタイファー伯を半ば強引に納得させた彼女は、まるでこれを狙っていたかのごとく、テキパキとルールを決めてゆく。


「――観客は巻き込まれぬよう後ろへ下がり、これから始まることをよく目に焼き付けておくのですよ」


 そうやってゾフィーアが指示すると、言われたとおりに人々は下がり、また、真綾と三人の伯爵も、赤絨毯の両側から互いに睨み合う位置についた。その様は、これから馬上槍試合に臨む騎士たちと、それを見守る観衆のようである。……無論、馬上槍試合に一対三などありえないが。


「エーリヒ、すまん……」

「おお、ラインハルト。……まったくお前の娘にも困ったものじゃが、まあ、いずれは通らねばならぬ道であったじゃろうよ。ちょうど良い機会じゃ、お前もマーヤの力の一端でも見せてもらえ、まあ、ほんの一端に過ぎぬじゃろうがな――おお、そろそろ始まるぞ」


 近くへやって来るや心底申しわけなさそうに謝る親友を、若干の苦笑混じりに宥め、エーリヒがゾフィーアのほうへアゴをしゃくった、その時――。


「さあ、始めましょう」


 ――世にも恐ろしい笑みを美貌に浮かべ、女宮中伯が勝負の始まりを告げた。

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