第一二八話 旅立つ前に 一一 華燭の典


 喫煙室のほうにも目を向けてみよう。

 この場所、たしかに喫煙室という名前ではあるのだが、会社にあるような狭く味気ない喫煙ブースを想像してはいけない。英国の伝統的パブを豪華にした内装と言えば理解しやすいだろうか? 高級木材を惜しげもなく使った広い室内に重厚な椅子とテーブルが並び、その一角に設けられたバーカウンターでは、かつて世界中の名酒を提供していたものだ。

 そして今日、この国の人間がアンデス地方原産の煙草など知るはずもないため、わざわざ不健康なものを与えることもあるまいと、あえて熊野は煙草を除外し、酒のみを彼らに提供していたのだが――。


「くうぅぅ〜っ! これはまた酒精が強いですな!」

「こちらの酒も強いですが、そちらとは風味がまったく違いますぞ」

「こ、これもうまい! ――クマノ様、こちらはどういった酒でございますか!?」

「日本酒でございますね。こちらのお酒は、米という穀物と清い水から作られておりまして――」


 異世界の名酒の数々を浴びるように飲む野郎ども……。ここの状況も喫茶室と似たり寄ったりであった。

 ちなみに、新たな酒を試すたび感動して熊野に説明を求めているのは、言わずと知れた、ワイン大好きラッツハイム男爵である。……いや、ワインに限らず、大好きなのは酒全般らしい。

 まあ、こんな感じで、大勢と一度に個別会話できる熊野は、個人個人を相手に接客しているわけだが、そんな喫煙室の一角、カウンター席で――。


「うぃ〜ヒック。……私だってなあ、逆恨みであることは百も承知なのだ……」

「ええ、ええ、そうでございましょう。――ささ、もう一献」

「……おっとっと、かたじけない。――私は幼きころ、伝説に聞く湖の乙女様に憧れておったし、また、船というものが堪らなく好きでな、ヒック、湖の乙女様と縁深く武装船団も有するフライスガウ伯の小姓になり、ゆくゆくは騎士としてフライスガウ伯の御座船に乗る……ヒック、それが私の夢であったし、実際にヒック、そうなるよう母上も取り計らってくれていたのだ……。それを、あの馬鹿兄貴が、ヒック、召喚能力を得られなかったせいで……クソっ!」

「さようでございましたか……。夢断たれた際のご落胆、いかばかりでございましたでしょう……。ささ、もう一献」


 すっかりデキあがって管を巻くコロニア伯と、相槌を打ちつつ彼のコップに日本酒を注ぐ熊野……。


「……あの痴れ者め、小姓として宮中伯家に引き取られ、小姓から騎士見習い、騎士見習いから騎士と、いくら歳を重ねても、何かにつけては母上に金品をねだり、私が家督を継いれからも頻繁に金の無心をしてきおった! 挙げ句の果ては任地れ悪行の限りを尽くし、ヒック、死しても家名に傷をつける始末……」


 なみなみと注がれたコップ酒をグイッと飲み干し、カイゼル髭の萎れたコロニア伯は、呂律の回らなくなった口でさらに管を巻く――。


「あの愚物のせいれ母上は臥せってしまわれたのら……。愛する息子の死とヒック、その息子が犯した悪行の数々、それをろうじ(同時)に知ったのらから、慈悲深く高潔な母上がお受けになった衝撃は、ヒック、いかばかりらったことか……。幼きころの夢が崩され、敬愛する母上は倒れ、一族が笑いものにされたのらヒック、あの愚物に苦しめられたのは私も同じれはないか……。らというのに、エックシュタイン家らけが幸福を享受するなろ、ヒック、不公平にもほろがあろう、ウィィィ……」

「……お客様、これ以上はお体に障りますよ。そろそろ加護を使ってアルコールを抜かれては?」

「いいや、ヒック、これが酔わずにいられようか……。心配は無用ら女将、頼むからこのまま飲ませてくれヒック、浮き世の憂さを晴らしたいのら、ヒック、らまってこのまま酔わせてくれい……」

「……しょうがないですねぇ、あと一杯だけでございますよ」


 そうやって注がれた最後の一杯をあおると、カウンターに突っ伏してイビキをかき始めるコロニア伯、そして、そんな彼の肩にそっとブランケットをかけてやる熊野……。それはもはや、どこかの居酒屋かスナックのような情景であった……。


      ◇      ◇      ◇


 晩餐会の終了から一時間ほどが経ち、そろそろ紳士淑女たちも満足し始めたころ――。


「皆様、宴もたけなわではございますが、どうか鏡の間にお集まりくださいませ」


 ――と、熊野からアナウンスが入った。

 言われるまま喫茶室と喫煙室からゾロゾロと出てきた人々は、まず、鏡の間中央の下手から上手に向け一本の赤絨毯が敷かれていることに気づき、次に、赤絨毯の上手端に立っているカールの姿を認め、最後に、カールの奥にたたずむ人物を凝視した。


「おお……なんと麗しい……」

「どちらのご令嬢だろう? あの艷やかな黒髪と神々しいまでの美貌、まるで、伝説に聞く湖の乙女様が再臨されたようだ……」

「あちらの方、アンナ様のお衣装とよく似たものをお召しですけれど、胸の下まであるスカートをお履きになっているようですね。アンナ様のお衣装よりは控えめですけれど、黒地に映える柄が暗闇に咲き誇る花のようで、なんとも幻想的ですわ」

「なんとまあ、背のお高いこと……」

「なんと背が高い……」


 真っ先にざわつき始めたのは守護者並みの視力を持つ者たちだ。……そう、鏡の間奥の壁面に飾られた三女神の大レリーフを背に、スラリとした立ち姿を見せているのは、振り袖袴姿に編み上げブーツを履いた真綾であったのだ。

 混乱する人々の耳に、熊野の声が聞こえた。


「皆様、どうぞお静かに願います」


 この時点では、ほとんどの者が熊野のことを、多くの眷属を従える高位精霊だと思っていたし、また、「お手洗いはこちらでございます」、「お加減が優れませんか? それでしたら――」、などとこれまで親切に世話してくれた熊野には、好印象を抱いてもいたため、誰もが彼女の言葉に大人しく耳を傾けた。


「……さて、本日の主催者たるカール・フォン・エックシュタインでございますが、宮中伯様のおっしゃったとおり、ゆえあってこれまで野に下っておりましたため、妻を娶っても式を挙げることが叶いませんでした」


 人々の静まったことを確認し、熊野が淑やかに語り始めると、カールとアンナを不憫に思う者たちの間から、湿った嘆声がいくつか漏れた。

 その一方、何も聞かされずこの場に立つよう指示されていたカールは、つぶらな瞳を丸くして、目の前にいる真綾の顔を見つめたのだが、氷の美貌はピクリとも動かない。


「マーヤ、これは……」


 カールの疑問に答えたのは真綾ではなく、しばらく言葉を切っていた熊野だ。


「――タウルス=レーンガウ伯ともあろう者が結婚式も挙げていないなんて、あまりに寂しいではございませんか……。そういうことで、――これより、カールとアンナの結婚式を執り行います!」


 熊野が高らかに宣言したとたん、人々……特に女性陣の間から、黄色い歓声が上がった。

 一方、驚いたカールは真綾の顔をバッと見たが、鉄壁の美貌は依然として揺るがず、彼女はただ、グッとサムズアップしてこう言うのみ。


「サプライズ成功」

「サプ――」


 それを聞いたカールが真綾に何か言いかけた、その時――。


「それでは、新婦の入場でございます!」


 熊野の晴れやかな声が響き渡り、宙に浮かぶ楽器たち(熊野丸楽団)が結婚行進曲を奏で始めると、鏡の間の下手側に二か所ある扉のひとつが音もなく開いた。

 そこから現れるや赤絨毯の上をしずしずと歩き始めたのは、もちろん、ウェディングドレスに身を包んだアンナである。


「おお、これは……」

「美しい……」

「アンナ様、素敵ですわ……」


 アンナを見るや息を呑み、彼女のウェディングドレス姿から視線を離せなくなる人々……。さもありなん、喫茶室と喫煙室で時間を稼いでいる間、着付けからメイクまで、熊野によってアンナは完璧に仕上げられていたのだから。


(後々も使えるよう、汚れの目立たない暗色系の花嫁衣装が今は一般的ですけれど、こうして拝見しますと、清らかにして神聖な印象の白は結婚式にピッタリですわね。白一色といっても、見事なレースや刺繍、縫製の仕方や全体のシルエットなどなど、デザインがとても凝っていらっしゃるから、簡素どころか、むしろたいへん華やかに見えます。ドレスの裾が大きく床に広がりベールがこれほど長いのも、高貴にして優雅な印象を受けますわ。アンナ様、素敵ですわよ)


 フライスガウ伯が感心するように、アンナの着ているウェディングドレスは、現代風のプリンセスラインの裾を大きく広げ、ベールも思いきり長く引くようにした、ロイヤルウェディングバージョンである。熊野丸はウェディングドレスも所蔵していたが、そちらは当時流行していたエンパイアスタイルだったため、現代のウェディング事情も勉強していた熊野が納得せず、これも引き振り袖同様、わずかな時間で仕立てたのだ。

 この日以降、レーン宮中伯領で白いウェディングドレスが流行し始め、近隣諸国へと広がってゆくことになるのだが、それは置いておこう。

 自分たちの前を通り過ぎるアンナをウットリ見送ったあと、続いて人々は可愛らしい光景を目にした。


「まあっ! なんて愛らしい!」

「本当に可愛らしいこと、まるで妖精のようですわ」


 ――などと相好を崩している者も多いが、その視線を追い、長いウェディングベールの端に目を向けると……。


「き、緊張するけど、父ちゃん母ちゃんのためだ、頑張るぞ!」

「がんばる」


 ベールの端をしっかと握り締めてアンナの後ろについて歩くのは、ベールボーイとベールガールを拝命中のヨーナスとマーヤであった。

 熊野の執念によって仕立てられた晴れ着を着ているため、どちらも可愛さ爆発中である。


「見てみい! あれはわしの孫たちじゃ! どうじゃ、わしの孫たちは! とてつもなく可愛いであろう? ……おお、おお、あのように頑張って、健気じゃのう」

「痛い痛い……」


 運悪くエーリヒの近くにいたがためにバンバンと背中を叩かれて、グラーフシャフト伯はゲンナリとした表情を浮かべ、叩いている本人は感極まって涙を浮かべる始末……。

 彼ら男性陣は喫煙室のある右舷側、女性陣は喫茶室のある左舷側と、現在は中央の赤絨毯を境にして分かれているわけだが、この時、その左舷側から、小さなマーヤを紫の瞳がロックオンしていた。


(あの子が小さいほうのマーヤちゃん……。うちのズィークフリートのお相手にちょうどいいわね。……いずれ子供たちが結婚すれば両家の結びつきは強固になるし、わたくしも大きいほうのマーヤ様とより親密になれるわ。それに、わたくしとカールお兄様とは子供たちの母親と父親……つまり、夫婦のような関係になるわけだし、夫を亡くしてからの寂しさも、これで……)

「ヒッ!」


 不幸にもゾフィーアの近くにいたがために、彼女の浮かべた壮絶な笑みを見て失神しかけた者もいるが、それにしても、ゾフィーアの思考回路はどうなっているのだろう……。

 ともかく、そうやって人々に見守られるなか、やがてアンナはカールのとなりに到着した。


「ビックリした? マーヤとクマノさんが熱心に言うもんだからさ、せっかくの気持ちを無駄にするのもアレでしょ、だから……。あーでもやっぱ、アタシなんかがこんな上等な衣装を着たって――」

「きれいだ、アンナ」

「……」


 呆然と自分を見つめるカールのとなりに来るなり、恥ずかしさを紛らわすように小声でしゃべり始めるアンナだったが、真剣な眼差しで言ったカールのひとことに、たちまち顔を赤くして黙り込んだ。

 ここで、ふたりがイイ感じになったのを見計らい、熊野の声が降ってくる。


「誓いの言葉」


 その声を聞くや、前もって説明を受けていたアンナが姿勢を正し、三女神の大レリーフ前に立つ真綾に向き直ると、ほどなくカールもそれに続いた。


「新郎カール、あなたはアンナを妻とし、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、愛をもって互いに支え合うことを、ここに誓いますか?」

「誓います」


 熊野からの問いかけに、カールが真摯な表情で力強く答えると――。


「新婦アンナ、あなたはカールを夫とし、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、愛をもって互いに支え合うことを、ここに誓いますか?」

「はい!」


 ――アンナも元気いっぱいに誓った。


「それでは、誓いのせ、接吻を……」


 やや食い気味の熊野に言われるまま、雰囲気に呑まれたカールがアンナのヴェールを上げ、ふたりはしばし見つめ合い、そして顔を近づけてゆく。

 ここへ来てなぜかギュッと目を閉じた真綾が、ほんの少しだけ赤面していることに、気づけた者は……いなかった。なぜなら、誰もがカールとアンナの公開接吻をドキドキしつつ凝視していたのだから。

 式の流れ自体はおおむね似ていたものの、公衆の面前で接吻を交わすなど、こちらの世界では考えられない儀式だったのだ。

 真綾以外の視線が集まるなか、ふたりの唇の距離は徐々に近づいてゆき――ついに重なった。


「皆様っ、ご祝福を!」


 興奮したような熊野の声が高らかに響いたとたん、鏡の間は割れんばかりの拍手喝采に包まれた。


「マーヤ、ありがとね、最っ高の贈り物だよ」

「本当にありがとう、マーヤ。今日のことは生涯忘れないよ」

「うん」


 喝采の止まぬなか、アンナとカールが涙浮かべて真綾に感謝を伝えると、なんと、氷の美貌が少しだけ綻んだではないか!

 初めて見る真綾の笑顔にアンナとカールは目を丸くして顔を見合わせ、そして、心の底から幸福そうに笑い合うのであった。


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