第一二七話 旅立つ前に 一〇 奇跡の出会い
すっかり意気消沈してしまった夫のとなりで、コロニア伯夫人は額に脂汗をかいていた。
(たしかにあのお料理は素晴らしかった……気がするけれど、カトラリーのことが気になりすぎて、味なんか正直よく覚えていないわ……。最初のお料理はスプーンに載っていたから助かったものの、こ、これからどうすれば……)
……そう、カトラリーをどう使えばいいのか、彼女は絶賛悩み中なのだ。
実のところ、程度の差こそあれ、この悩みを抱えているのは彼女だけではなかった。何しろ、前述したとおりカトラリーは一本ずつというのが常識であり、それどころか、この帝国では未だ手掴みで日常の食事をする者も多いため、この場にいる客全員が、ズラリと並んだカトラリーをどう使えば正解なのか、皆目わかっていなかったのだ。
他人より先にカトラリーを手に取って、もしもそれが間違った作法だった場合、末代までも笑い種にされるのは必至。アミューズグールの皿が下げられ、オードブルの皿がやって来た今、人々は表面上和やかに談笑しつつも誰ひとりとしてカトラリーには手を伸ばさず、正解を引き当てる勇者の登場を待っていた。
そんな時――。
「え……」
思わず声を漏らしたのは、コロニア伯夫人だったのか、それとも他の誰かだったのか、あるいは、ひとりだけではなかったのかもしれない。
膠着した状況を破ったのは、なんと、農家の出であると噂されるアンナだったのだ。
彼女はなんの迷いもなく最も外側のナイフとフォークを手にすると、近代芸術のように盛り付けられたオードブルを、手慣れた様子で食べ始めたではないか。
(カトラリーの配置には必ず意味があると思っていたけれど、なるほど、そういうことね……)
(外側から順番に使えばよろしいのですね……。それにしてもアンナ様ったら、あれほど嬉しそうに召しあがって、見ているこちらまで楽しくなってきますわ)
(あの子、やっぱり華があるわね……。おもしろいわ、マーヤ様のことは抜きにしても、お友達になったのは正解だったかしら)
隣席に座るゾフィーア、メインテーブルのすぐ前に座るフライスガウ伯とノイエンアーレ伯、それぞれが思い思いに見守る前で、緊張することもなく幸福そうに料理を味わうアンナ。その姿は帝国貴族たちの目に、自分たちよりも文化的な人種のごとく映った。
実は、カール宅で真綾が居候を始めてからというもの、アンナは毎日のようにアフタヌーンティーを楽しんでいたし、週三(この世界の一週間は五日である)くらいのペースで真綾にディナーを振る舞われていたうえ、熊野丸召喚後の数日間に至っては、フルコースディナーを毎日ごちそうになり、カトラリーの使い方に磨きをかけていたのだ。しかも、真綾という完璧なお手本がすぐそばにいたのだから、完璧とまでは呼べぬにせよ、それでもアンナの所作は、現代フレンチの作法など知る者無きこの世界において、トップレベルと言っても過言ではなかった。
「とても優雅な所作ですわ。わたくしもアンナ様のように……」
「なるほど、こうか……」
アンナから近い位置にいる者が彼女の所作に倣い、その近くの者がまたそれを真似てゆく……。それはあたかも、アンナから広がってゆく波紋のようであった。
(うむ、計画どおりになったわい。どれ、そろそろわしも――)
(よかった。この様子ならアンナを悪く言う者も減ることだろう)
その様を満足げに見届けてから、エーリヒとカールもカトラリーを手に取った。
では、問題の人物はどうしているだろう?
(豚のように浅ましく食い散らかすどころか、この場にいる全員のお手本になっているじゃない……。フッ、悔しいけれど、アタクシの完敗だわ)
良くも悪くも実力第一主義なこの世界において、人に自分を認めさせるには、力を見せつけることが最も効果的である。宮中伯領の文化的リーダーを自負していただけに、セファロニアよりも先進的な食事マナーを前にして、ついに潔く己の敗北を認めるコロニア伯夫人であった。
◇ ◇ ◇
アミューズグールに始まりカフェ・ブティフールで終わる、計十一品のフルコースディナーは、大盛況のうちに終わった。
その間、美しい食器や洗練された盛り付けを見ては感嘆の声を上げ、料理を口にするごとに衝撃を受け、ワインを飲んでは感動に震え、あるいは、未知の調理法について考察し合いと、人々は実に多様な反応を示したものだが、なかでも特に女性たちを熱狂させたのが、熊野渾身のスイーツの数々であったことは、説明するまでもあるまい。
食後のコーヒーを楽しむころには、えも言われぬ幸福感と、浮き立つような高揚感が、人々の心を満たしていた。
「この濃褐色の飲み物も初めて口にしたが、この苦さはクセになりそうだな。それにこの素晴らしき香り、なんと表現すればよいのだろう」
「あら、わたくしはクマノ様の教えてくださったように、お砂糖とミルクをたくさん入れたほうが飲みやすいですわ」
苦いコーヒーは好き嫌いが分かれるようだが、概して男性には受けが良かったし、熊野のアドバイスどおりにした女性たちの多くにも、どうやら気に入ってもらえたようだ。ドイツでは一部の地域を除き、紅茶よりコーヒーのほうが好まれているが、この国の人々も嗜好傾向が似ているらしい。
やがて、コーヒーをまったりと飲んでいる人々に熊野が語りかけた。
「皆様、ご満足いただけたでしょうか?」
それに答えたのは、もちろん――喝采。
「ありがとうございます。――さて、本日のコースは〈奇跡の出会い〉をテーマといたしまして、いずれの品にも、この季節にはありえないもの、内陸にあるこの地では入手しえないもの、皆様がご存じの世界には存在しないもの、そして、どなたも知りえない調理方法などを用いました」
淑やかに感謝を述べた熊野がコースの説明を始めると、人々は静かに聞き入り、なるほどと一様に頷いた。
熊野は続ける――。
「本来ならば決して出会うはずのなかったもの同士が出会い、ひとつになる、そんな奇跡によって生み出された結晶を、皆様はいかがお感じになったでしょうか? そして、皆様もまた、異なる世界の料理と奇跡的に出会われた当事者でいらっしゃいますが、この出会いを僥倖としてお捉えくださったでしょうか?」
この場にいる者は皆、腹の探り合いを日常とする貴族社会に生きる者ばかり、そんな彼ら彼女らには、熊野の真に言わんとすることも容易に察することができた。
「本日のコースはこれにて終了となりますが、奇跡の出会いを心から祝福される方がいらっしゃいましたら、最後に拍手を頂戴したく存じます」
文脈的にはおかしい「祝福」をあえて使い、やわらかな声で熊野が締めくくると、わずかな沈黙を破り、一等大食堂の広大な空間に割れんばかりの拍手喝采が沸き起こった。
アンナを農家の出と蔑む者はもはや無く、誰もが熱を帯びた喝采を送るなか、人々の視線の先にいるカールとアンナだけが、照れくさそうに顔を見合わせるのであった。
◇ ◇ ◇
さて、誰か重要な人物を忘れてはいないだろうか? メインテーブルの端にあった空席に本来なら座っているはずの人物を……。
主人公が長らく登場しないのはいかがなものか? などと思わなくもないが、とりあえず、一等大食堂の奥にある個室、一等小食堂を覗いてみよう。
「うめえ! コレもスッゲーうめえよ! プリンと生クリームとバニラアイスとチョコアイスと果物いっぱいなんて、俺を殺す気かよ!」
「……」
「……」
特製お子様ランチをたいらげ、デザートのプリンアラモードに舌鼓を打つヨーナスと、プリンアラモードを黙々と食べ続ける真綾とマーヤ……そう、あえて真綾は、面倒そうな貴族たちの前に出ず、チビっ子たちと一緒にゆっくり食事することを選んだのだ。
どうでもいいことではあるが、ヨーナス、真綾によって日々餌付けされているうちに、異世界スイーツの名前をすっかり覚えたようである。
やがて――。
『真綾様、そろそろ……』
(はい)
脳内に熊野の声が響くと、真綾はプリンの最後のひとすくいを口に運んだ。
◇ ◇ ◇
鏡の間には、床面から立ち上がる両開き窓を模した、高さ四メートルほどの大鏡が、左右の壁面に四か所ずつ配された窪み奥に設置されている。
装飾を施された取っ手を見ればわかるのだが、その大鏡のうち左右一か所ずつが、実は両開き扉になっており、左舷側には一等喫茶室、右舷側には一等喫煙室が、それぞれの扉の向こうに設けられている。かつて熊野丸が現役だったころ、喫茶室では女性客がスイーツと紅茶などを堪能し、喫煙室では男性客が酒や煙草を楽しみつつ、航海中の社交にいそしんでいたものだ。
熊野は晩餐の終了後、その喫茶室と喫煙室を招待客たちに開放した――。
「こちらのガトー・オ・ショコラは、その名のとおり、ショコラをふんだんに練り込んだ生地を焼いたお菓子で、しっとりとした食感とショコラの濃厚な風味が特徴でございます」
「クマノ様、それを頂きますわ!」
「わたくしもそれを!」
「クマノ様、こちらに書いてある、シュヴァルツヴェルダー・キルシュトルテとは、いったいどのようなお菓子ですの!?」
この機を逃せば二度と口にできないスイーツが食べ放題とあって、喫茶室開放と同時に鬼気迫る形相でなだれ込み、熊野にメニューの説明を求めては次々とスイーツを注文する女性陣……。ネオロココ様式の室内に着飾ったご婦人方が集う様は、本来なら華やかにして気品あるはずだが、今は狂気すら感じられた。
そんな喫茶室の一角――。
「先ほど晩餐で頂いた時、アタクシ、このショコラとやらに魂をすっかり奪われてしまいましたの。もう二度と出会えないと諦めておりましたのに、まさかショコラを使ったお菓子をまた頂けるなんて、しかも、こんなに種類も豊富だなんて、もうアタクシ、天にも昇る心地ですわ。今度、セファロニアにいるお友達にも、ショコラのことを教えて差しあげるつもりですのよ」
「それは素敵なお考えですわ、きっと羨ましがられることでしょう。でも奥様、たしかにショコラも素晴らしいですけれど、このパルフェとやらも、冷たいクリームや未知のフルーツ、あるいはフワフワの焼き菓子が出てきたりと、スプーンで掘り進むごとに新しい発見がございますので、とっても楽しいですわよ」
「それでしたら、ショコラパルフェという欲張りな一品もあるようですから、奥様、次はそれを注文されてはいかがでしょうか?」
お友達のひとりの提案に、クワッと目を開くコロニア伯夫人……。
「ショコラパルフェですって!? パルフェ(完璧)なお菓子にショコラを加えるなんて、贅沢にもほどがございますわね! アタクシ、次の注文はそちらに決めましたわ! ――それにいたしましても、晩餐でお腹いっぱいになったはずですのに、甘いものならまだまだ頂けるのですから、人体ってホントに神秘的ですわね」
「「ですわね〜」」
「「「オホホホホホ!」」」
実は彼女、自分の敗北を潔く認めたあと、それはもう見事なまでの手のひら返しで、料理漫画の審査員かというくらい晩餐を堪能していたし、今もこうして、スイーツなパラダイスをテンション高く満喫しているのだ……。
赤い唇にチョコをべったりつけてお友達と大笑いする姿に、もはや、文化的リーダーの面影は微塵もなかった。
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