第五九話 エーデルベルクの薔薇 二 怪力少女


 宮中伯の御膝下、エーデルベルクの整然とした市街に、高らかな、しかし、お世辞にも上品とは言えぬ笑い声が響き渡る。


「ブハハハハ! それはいい! 歩くゴミとは言い得て妙だ。――おいそこのゴミ、話があるからこっち向いてみろよ!」


 だが……。


「今日は市が立っておるはずじゃ、マーヤ、あとでマルクト広場へ行くとしよう」

「楽しみ」

「…………」


 調子に乗った声を完全スルーして、エーリヒと真綾は和やかに会話しながら歩き続けた。……まあ、歩くゴミなど知らないのだから当然だろう。

 すると無視されたほうは、わずかな沈黙のあと激高し、ふたりの後ろをついて歩きながら罵詈雑言をエスカレートさせていく。自ら墓穴を掘っているとも知らず……。


「待てよジジイ! お前のことだ! ……ああなるほど、ゴミだから人間様の言葉がわからないのか? おい、となりの大女も止まってコッチを向けよ、その顔を拝んでやるから。へっ、それだけデカイ図体しているんだ、どうせトロールみたいにブッサイ――グブッ!」

「アニキィィィ!」


 しゃべり終えることなく電光石火の右ストレートで吹き飛ばされ、憐れにも路上に転がる少年……。そして、そんな彼へ昭和任侠映画の舎弟のごとき叫びを上げて駆け寄る、もうひとりの少年。……そう、彼らはいずれも十代後半と思われる少年だったのだ。

 お揃いの黒マントを身に纏った彼らは、どちらもその身なりから上流階級の子息であることが窺えるのだが、少年が朝っぱらから酒くさいというのは風紀的にいかがなものか。

 まあ、それはともかく――。


「マーヤを侮辱することは許さん……」


 長い前髪の隙間からギョロリと覗く鋭い眼光、全身から陽炎のごとく立ち昇る鬼気……。かつてゴリゴリの武闘派貴族として恐れられたエーリヒが、今、鉄拳を握りしめて立っていた。

 ぶん殴られた少年は、絶対に押してはならぬスイッチを押してしまったのだ……。

 エーリヒの凄絶な鬼気に呑まれ、もうひとりの少年(便宜上、『舎弟』と仮称する)が歯をガチガチと鳴らせていると、殴られたまま仰向けに倒れていた少年は、どうにか上体を起こしてエーリヒを睨み返した。


「殴ったな……」

「殴って何が悪い、この甘ったれが」


 ボタボタと鼻血を垂らしながらの少年(便宜上、『鼻血少年』と仮称する)の恨み言に、なぜか一度バッと後ろを振り向いてから返すエーリヒ。……不穏な雲行きだ。

 舎弟の肩を借りてヨロヨロと立ち上がった鼻血少年も、言い返そうとするのだが……。


「ジジイ、賤民ごときが貴族である俺に手を出して、無事――デボッ!」

「アニキィィィ!」


 今度は見事な左フックで宙を舞った……。

 リントヴルム並みのパワーで殴ればスプラッタなことになるため、もちろんエーリヒは大幅に手加減しているのだが、それでも、腰の入った一発によるダメージは大きいだろう。

 しかし意外にタフなのか、しばらく悶絶したあとは再度舎弟の肩を借りて立ち上がると、片頬を押さえたまま抗議の声を上げる鼻血少年。


「ぶったな……二度もぶった! 父上にもぶたれたことないのに!」


 ぶったというレベルではない。


「それが甘ったれだと言うに。殴られもせずに一人前になったやつがどこにおろう」


 不穏な会話を続ける鼻血少年とエーリヒ。……色々と大丈夫だろうか。

 それにしてもエーリヒ、現代日本なら炎上間違いなしの言動である……。この修羅に毎日しごかれて育ったのだ、カールがあれほど強くなったのも頷けよう。


「クッ、クソジジイィィィ。――後悔させてやる!」

「ア、アニキ、それはさすがにマズイんじゃ……」

「うるさい! お前は黙って見てろ!」


 何かを察したらしい舎弟の諌める声も聞かず、鼻血少年が地面に手を伸ばすと、そこに浮かび上がったのは、紛れもなく召喚陣ではないか!

 そして、回転しながら上昇して召喚陣が消えた時、そこにいたのは――。


「ふん、〈サラマンダー〉か」


 真紅の鱗で全身覆われたトカゲを一瞥して、つまらなさそうにエーリヒがつぶやいた。


 ――サラマンダー――。

 この全長三〇センチメートルほどのトカゲは、〈城伯級〉に属する炎の精霊の一種であり、極めて高い耐熱性を誇ることはもちろん、〈魔法の火炎を口から吐く〉という能力を有する。

 レッドキャップなどと違い好んで人間を襲うことはないが、その機嫌を損ねたことにより小さな集落が灰燼に帰した事例もあるほどの、非常に危険な存在だ。


「ジジイ、今さら謝っても許さないからな、覚悟しろ!」


 鼻血少年の憎々しげな声と同時に、意外にも素早い動きでエーリヒへ近寄ったサラマンダーは、燃え盛る炎洩れ出る口を大きく開き、そのまま魔法の火炎を――。


 プチッ。


 ――吐く寸前、何者かによって潰されると、たちまち光の粒子に変わっていった。


「ダメですよ、こんなこと」


 光の粒子消えゆく大通りにやわらかく響いたのは、若い女性の高く澄んだ声。

 手を出そうとしたまま出番を失っていた真綾は、その声の主を見て少しだけ驚いた。

 肩くらいまで伸ばしたアッシュブロンドの髪と、ミルクのように白く瑞々しい肌。パッチリとした大きな目を縁取る長いまつ毛、ツンと形のよい鼻の下には、薄紅色の艷やかな唇。

 そこにいたのは、高山に咲く花のように可憐な美少女だったのだ。

 しかし、身長一五〇センチメートル代前半と思われる華奢な体に、鼻血少年たちと同じ黒マントを纏っているのはいいとして、サラマンダーを潰した張本人が彼女であり、しかもその得物が、真綾の身長をも超える石像(推定重量四百キログラム)というのはどうしたことか……。


「ノ、ノイエンアーレ……」


 少女の姿を認めたとたん大きく目を見張り、何ごとかを口にした鼻血少年だったが、畏怖さえ含んだ驚きの表情は、ほどなくして、忌々しいものを見るときのそれに変わってゆく。


「……よ、よくも俺の守護者を! お前には関係ないだろうが!」

「そう言われても、さすがにこれは見過ごせません。いくら今日が休講日でも、朝から酔っ払った挙げ句、みだりに市内で守護者を召喚して人を襲わせるなんて、帝国貴族の名が泣きますよ。学長に知られたら学生牢行き確実じゃないですか」


 怒りの矛先を変えた鼻血少年が狂犬のように噛みついていくと、少女は細い眉を困ったように寄せ、できるだけ優しい口調で道理を説いたのだが、それが正論なだけに、かえって鼻血少年のひねくれた心を波立たせてしまう。


「何を偉そうに、下級生の分際で生意気な……」

「そ、それ以上はマズいですよアニキ、相手はあのノイエンアーレ家だ」

「……チッ! いい気になるなよノイエンアーレ、三日後にはランツクローンさんが学生牢から出てくる。あの人さえ出てくれば、お前なんか――」


 舎弟に諌められても怒り収まらずといった鼻血少年だったが、タラタラと負け惜しみを言っている途中で――。


「よいしょ……」

「うわあぁぁぁ! 危ない危ない! ――お、覚えてやがれ!」

「待ってくださいよアニキィィィ」


 ――大きい石像を頭上高く、それも軽々と持ち上げる少女を見たとたん、清々しい捨てゼリフを残して走り去っていった。


 鼻血少年に続いて走り去る舎弟の背中を、(苦労してるなー)などと思いながら真綾が見送っていると、怪力少女は石像を持ち上げたまま真綾たちへ向き直り――。


「ごめんなさい、エーデルベルクのことを嫌いにならないでくださいね、ここはホントにいい都市なん……あっ! この石像を早く返さないといけないので、ボクはこれで失礼します。それじゃ!」


 ――と、花も恥じらうような笑顔を浮かべたあと、大慌てで走り去るのであった。

 彼女の向かう屋敷前に並ぶ石像の列には、明らかに不自然な空間が……。どうやらあの石像は、そこから拝借してきたらしい。

 ギョッとする通行人からの視線が集まるなか、大きな石像を軽々と持ち上げたまま走る少女……。その華奢な背中を微笑ましげに眺めつつ、エーリヒは誰に言うとでなく口を開いた。


「いやはや、なかなかに愉快な娘じゃのう。あの黒マント、〈ヘッケンローゼ帝立学院〉の学生じゃな」

「学生?」

「うむ、このエーデルベルクには貴族を教育するための学校があってな、召喚能力を得られた子供のうち、その年の九月初めから翌年八月終わりまでに十一歳を迎える者が、九月一日になると帝国中から集められて入学し、卒業までの八年間を寮生活する決まりなんじゃ。あの黒マントはそこの学生であるという証よ」

「学校……」


 エーリヒの説明にあったその言葉に、自分が通っていた学校や友人たちのことを思い出し、真綾は急に切なくなった。――あの懐かしい人々は今ごろどうしているのだろう、小さい親友は、いったい……。


『真綾様、必ず帰れますよ』

(はい、ありがとうございます)


 その気持ちを汲んだ熊野の、やわらかな、それでいて力強い声が脳内に流れると、真綾の心は少し軽くなり、こうして優しい熊野が一緒にいてくれることの幸運を、あらためて感じるのだった。

 そんな彼女のとなりでは――。


「そうか……。外からは何も変わっておらんように見えたが、やはりここでも歳月は流れておったか……。まさか、あのヘッケンローゼが共学になっておったとはのう……」


 エーリヒが感慨深げにつぶやいていた……。



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