第五八話 エーデルベルクの薔薇 一 宮中伯の都市
冬の女王ベイラの命が潰えてから、数日後の朝――。
葡萄の収穫を終えた急斜面の下、カール宅の前に広がる空き地に、見すぼらしいマントを纏った長身の老人、エーリヒと、黒いセーラー服に身を包んだ長身美少女、真綾の姿があった。
そのふたりを背に乗せているのは、後ろ足がない代わりに、鋭い爪を持つ前足と背中から生えた翼が独立し、長い尾の先端が槍のように尖っている飛竜――リントヴルムのゴルトだ。
「わしなら心配いらんと言うに……」
「ダメ」
ゴルトの背中でボソッとつぶやいたエーリヒの言葉を、取りつく島もなく一蹴する真綾……。
ひとりで旅立つことを息子夫婦と真綾の反対により断念し、息子一家と同居することになったエーリヒは、カールとじっくり話し合った結果、カールをエックシュタイン家当主として立て、この地に小さな城を構えることに決めた。
それにあたり、これまで迷惑をかけた諸所へ謝罪行脚することにしたエーリヒは、領邦君主であるレーン宮中伯を最初の訪問先に選んだのだが、彼の体を心配した真綾が同行を申し出たのだ。
「いや、しかし――」
「却下」
かつての守護者ゴルトと再契約したエーリヒの体は、もはやリントヴルム並みに頑強だというのに、死の淵にあった彼の姿を見ている真綾としては心配でならず、こうしてエーリヒが固辞しても頑として聞かないのだった。
「ハハハ、さすがの父上もマーヤには敵いませんな」
「ううむ……」
目を細めてカールが笑うと、バツが悪そうに黙り込むエーリヒ。
かつてのわだかまりは消え、親子としての長い空白も、その間にお互い経験してきた諸々のできごとと、何より、行き倒れたエーリヒを迎え入れてからの一緒に過ごした日々が、すっかり埋めてくれたようだ。
その様子を微笑ましく眺めていたアンナが、エーリヒの後ろに乗る真綾へニコリと笑いかける。
「マーヤ、おじいさんのこと、しっかり頼んだよ。こうして元気そうに見えるけど、まだ病み上がりなんだからね」
「合点承知之助」
アンナの頼みにグッとサムズアップして応じる真綾の足元に、今度はチビッ子たちがワラワラと駆け寄ってきた。
「マーヤねーちゃん、土産ヨロシクな!」
「ヨロシク」
「オッケー牧場」
ヨーナスとマーヤからの可愛い頼みに、人差し指と親指で輪を作って頷く真綾。何を隠そう、おいしいもの探しは彼女の得意とするところ……。チビッ子たちへのお土産探しという大義名分を得た今、訪問先の都市で遠慮なく散財するのは間違いなかろう。
こうして真綾がやる気を出したところで、さて、そろそろ出発の頃合いと、エーリヒは孫たちに優しく声をかける。
「よし、ヨーナス、ちっさいマーヤ、もう少し下がっておれ、これから飛び立つゆえ危ないでな、可愛いお前たちが怪我でもしたら一大事じゃ。お利口さんにしておれば、わしもマーヤに負けぬ土産を買ってきてやるぞ」
「やった!」
「わーい」
小躍りしてからテテテとゴルトのそばを離れる孫たちの、なんとも愛らしい姿を、エーリヒが目尻を下げて眺めていると――。
『ハハハ、アノ、イシアタマモ、マルクナッタモンダ』
愉快で堪らないといった様子のゴルトの声が脳内に響いた。
かつては峻厳苛烈な人物として恐れられていた相棒を、誰よりも知るゴルトにすれば、好々爺然とした今のエーリヒは別人のように見える。その大きすぎる変化は少々滑稽でもあり、また、好ましいものとしてゴルトの目には映ったのだ。
(うるさいわ! ゆくぞゴルト!)
『アイヨ』
エーリヒが脳内で返す憮然とした声に、ゴルトは短く答えると、大きく広げた翼を媒体にして飛翔魔法を発動させ、ゆっくり大きく羽ばたいた。
すると、風を受けたチビッ子たちの上げる歓声に合わせ、真綾たちを乗せたゴルトの巨体がフワリと宙に浮く――。
「それでは、行ってくる!」
「行ってきます」
ふたりの言葉を合図にして見る見る高度を上げていったゴルトは、手を振るカール一家の上空で大きく輪を描いたあと、刷毛で刷いたような雲の広がる南の空へ飛んで行った。
◇ ◇ ◇
レーンガウ南岸からレーン川を七〇キロメートルほど南へ遡上したところで、東からニクロスという川が合流してくる。そこからニクロス川を二〇キロメートルほど遡ったところに、〈エーデルベルク〉という都市はあった。
グリューシュヴァンツ帝国五大諸侯の一角〈レーン宮中伯〉。その居城のふもとからニクロス川に沿って広がるエーデルベルクに、その日、珍客が訪れた。
最初、飛来するリントヴルムを市壁上の見張りが発見した際は、衛兵たちの間に緊張が走ったのだが、市壁正門前を流れるニクロス川の対岸へリントヴルムが慣例どおり着陸し、さらには召喚も解除されたことで、またどこかの貴族が来訪したのだろうと衛兵一同は揃って胸を撫で下ろした。
だが、彼らは間もなく――。
「なあ、あれ……本当に貴族なのか?」
――などと、口を揃えて困惑することになる。
リントヴルムから降り、川に架かる大橋を渡り始めた人物ふたりが、いささか変わった風体をしていたのだ。
そのひとりである背の高い老人は、見すぼらしいマントを身に纏い髪もヒゲも伸ばし放題で、浮浪者に見えこそすれ、とうてい貴族とは思えない。
もうひとりの人物は、近隣諸国では見かけないデザインの、貴族にしては簡素な黒衣に身を包んだ、長い黒髪と高い身長が印象的な女性。
しかし、少しでも目の肥えた者ならば気づいただろう、どちらの人物も洗練された動きであり、また、高貴な雰囲気と威厳に満ちていることに。
そう、エーリヒと真綾だ。
「体は大丈夫?」
「マーヤは心配性じゃのう、このとおりピンピンしておるわい。――それにしても、この橋を最後に渡ったのはいつだったか……。わしはこうして老いたというのに、ここから見えるエーデルベルクは何も変わっておらんのう」
気遣ってくれる真綾に苦笑したあと立ち止まり、橋の上から感慨深げに市壁を見上げるエーリヒが、引退申告のために前回ここをひとりで訪れた時、彼の胸中はどのようなものだったのだろう……。
もう一度苦笑しつつ、ふたたびエーリヒは歩き始めた。今は真綾とともに――。
「さて、そろそろアレが来る頃合いか。ここからしばらくは面倒じゃが、決まりごとゆえ致し方あるまい」
「来た」
正門から続く入市待ちの行列まであと少しというところで、エーリヒが少々煩わしげにつぶやくと、その言葉を待っていたかのようなタイミングで、正門内側から転げるように飛び出てきたのは、上等な仕立ての衣装に身を包んだ初老の男……そう、いつものアレである。
列の最後尾に到達しようとした真綾たちの前に滑り込んでくると、男はふたりに向かい右足を後ろに引き、右手を胸下に当て、左手を体の横に伸ばし、恭しく頭を下げてから顔を上げ――。
「これはこれは神のご寵愛受けし貴きお方々、エーデルベルクへ――」
「おお、お前であったか、久しいのう」
「え?」
――丁重に述べ始めた口上の途中でエーリヒに声をかけられると、思いきり困惑した。
この男、例によって例のごとく、来訪した貴族を応対する役人である。
勤続数十年という大ベテランの彼は、浮浪者にしか見えないエーリヒを貴族だと見抜いたからこそ、こうして丁重な挨拶をしていたのだが、さすがの彼も浮浪者の姿をした老貴族に知り合いはいない。
礼儀を欠くとは思いつつ、細めた目でエーリヒの顔をまじまじと見つめる男……。
「ええと…………」
「ううむ、まだわからぬか。……いや、この身なりではわからんのも当然か。――ホレ、これでどうじゃ? わしじゃ、エーリヒ・フォン・エックシュタインじゃ」
「エーリヒ…………は! タ、タタ、タウルス=レーンガウ伯閣下!?」
なかなか気づいてもらえないことに業を煮やし、エーリヒが前髪をかき分けて名乗ると、その鋭い目つきと名前が己の記憶にくっきりと残る人物、〈宮中伯麾下八伯の筆頭〉と一致した男は、目ン玉ひん剥いて腰を抜かしたのであった。
◇ ◇ ◇
あのあと、例によって例のごとく、真綾たちは貴族応対用の施設へ案内され、入市に必要な質疑応答などを受けたのだが、幸運にも担当の役人がエーリヒと旧知であったため、極めて丁重な対応のままスムーズに終了した。
手続き終了までの間、菓子をたんまり頂けて内心ホクホク顔の真綾をよそに、担当した役人が腫れ物でも触るかのごとく、戦々恐々とした様子でエーリヒに接していたのは、かつての峻厳な彼を知っているがゆえか……。
ともかく、面倒な手続きから無事に解放され、エーデルベルク市街に入ったところで、エーリヒが真綾に話しかけてきた。
「のうマーヤ、わしは長年の放浪生活で慣れておったが、役人や衛兵どもの様子を見るに、この身なりで宮中伯の城を訪ねてゆけば、いらぬ悶着を起こしかねんようじゃ。……かというて、マシな身なりに着替えようにも先立つものがない。――そこでじゃ、この近くにわしの知る商人がおるゆえ、まずはその者に魔石を売って軍資金にしようと思う。どうじゃ、マーヤもついてくるか? 菓子くらいは出――」
「行く」
「……う、うむ、ずいぶんと早い返事じゃな。……まあ、迅速な判断力は美徳とも言うし……ふむ、それでは参ろうか」
菓子が出ると聞くや否や即答する真綾の食い意地に、一瞬たじろいでしまうエーリヒ。さっきまで彼女が焼き菓子をパクパク食べていたのは、もしかすると白昼夢だったのではなかろうか、彼がそう思ったかどうかは誰も知らない……。
そういうわけで、真綾はエーリヒの知り合いが経営する商館へと向かうことになり、今まで訪れた都市とも少し違う街並みを眺めつつ、これからありつけるであろう異世界の菓子に思いを馳せていた。
『都市の規模自体は特別大きいわけではございませんが、市内に立派なお屋敷が多いところを見ても、宮中伯様の権勢のほどが窺えます。この都市もたいへん素敵ですね~』
異世界観光ができてゴキゲンな熊野も、真綾の頭にのんびりとした声を響かせている。
たしかに彼女の言うとおり、エーデルベルクの街並みには意匠を凝らした外観の屋敷が多く見られ、きれいに石畳を敷かれた大通りにあふれる活気にも、猥雑さより、どこか整然とした雰囲気さえ感じられた。さすがは広大な領地を治める領邦君主の御膝下といったところか。
『真綾様、これはおいしい食べ物が期待できそうですよ』
などと、熊野が真綾の食欲に薪を焚べていると――。
「なあ、俺の見間違いか? 薄汚いジジイが見えるんだが」
「いやいや、見間違いじゃないですよ。たしかに宮中伯のご城下にふさわしくないゴミが、のうのうと大手を振って歩いています」
真綾たちの背後から、嘲るような声が聞こえてきたのであった……。
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