第八話 大鴉の森 二 襲撃


 真綾が眠りに落ちてから数時間後――。

 組んであった薪もほぼ燃え尽き、わずかに残る炭火の光だけが闇の中にチラチラと輝くようになったころ、その魔物は出現した。……いや、出現したというより、もともとそこにあった闇が凝縮し、形を成したと言うべきか……。

 深い闇に紛れているため、人間にその姿を判別することは叶わないが、夜目の利く野生動物たちには、ソレが輪郭のぼやけた黒豹のような姿をしているとわかったかもしれない。

 真綾がヴォルパーティンガーを解放してやったあたりから、魔物は気配を消して木々の影に潜みながら、ずっと彼女のことを執念深く尾行していたのだ。――獲物が深い眠りに落ち、確実に仕留められる瞬間を狙って。


 ほどなく魔物は、ベッドでスヤスヤと眠る真綾にゆっくりと近づき始める。まるで質量が無いかのように足音ひとつ立てず、一歩、また一歩――。


 そして、とうとう真綾を自分の間合いに捉えた魔物が、一気に飛びかかろうと身を沈めた、その時――。


「『就寝時間中はお静かに』」


 ――静寂に包まれた夜の森に、美しいささやき声が流れた。

 その声が眠っているはずの獲物から発せられたものだと魔物が理解した時、すでに真綾はベッドの上で上半身を起こし、目を閉じたままの美貌を正確に魔物へ向けていた。


「『真綾様はあなたを重大な脅威だとは判定せず、このままお眠り続けられることを選択されたようですが、わたくしといたしましては、敵意ある者を真綾様に近づけさせるわけにはまいりません。誠に失礼とは存じますが、ここはどうか、お引き取り願えませんでしょうか?』」


 この、真綾にしてはいささか長いセリフ……。声の主は彼女の体を借りた熊野であった。どうやら無意識下で、真綾は朝までグッスリ眠ることを選んだようだ……。


 しかし、上品な熊野にやんわりとお願いされたところで、獲物を前にした魔物がハイそうですかと帰るはずもなく、最初こそ驚いていた魔物は、すぐさま気を取り直すと――突如、真綾の体を目がけ跳躍した!

 十数メートルはあろうかという距離を助走もなく、わずかひと跳びで詰められるだけの力が、この魔物にはあったのだ。


「『残念です』」


 魔物が地を蹴った瞬間、悲しそうにつぶやいた熊野は、真綾が【船内空間】に収納しておいた焚き火用の薪を取り出すと……真綾の体を借りて放り投げた! もちろん【強化】による馬鹿力で。

 薪はビョウと唸りを上げて宙を飛び、同じく空中を飛び迫っていた魔物の体を一瞬で貫く!

 すると魔物はたちどころに形を失い、冷たい夜の大気に霧散した――のだが、驚くべきことに、その場所で闇がふたたび凝縮すると、魔物は何ごともなかったかのように再生し、どこにあるかもわからない闇色の瞳で、真綾のことを睨みつけたではないか……。


 深い闇の中で行われたその光景は、もちろん人間に見えるはずもないのだが、真綾の体を借りている熊野は――。


「『真綾様の勘はたいへん素晴らしいですね、見えなくても相手の様子をなんとなく把握できます。……あなた、今、再生なさいました?』」


 ――目をつむったままそう言うと、最後に首をかしげた。

 真綾が爆睡している現在、彼女とのリンクをより深くしている熊野は、真綾の特殊能力ともいえる鋭い勘からの情報も、こうしてリアルタイムで認識できるのだ。


 目を閉じたままで再生の様子を感知しているらしい人間に若干の驚きを覚えつつも、その人間の攻撃が効かないことを立証した形になった魔物は、己の圧倒的優位を確信して再度の攻撃態勢に入った。


「『……うーん、わたくしが勿体ぶって、森で拾った木などにしたのがいけなかったのでしょうか? でしたら――』」


 などと、熊野がブツブツひとりごとを言っている間に、魔物は今度こそ獲物を一撃で屠るべく、全力を込めて跳んだ。


「『――やはり最初からこちらに――あ』」


 サクリ――。


 それは、不幸な事故だった……。

 突然かつ絶妙なタイミングで熊野が取り出した、抜き身の〈鬼殺し青江〉に、真正面から全力で突っ込むことになった魔物は、哀れ無惨にも串刺しになると、今度こそ魔石だけを遺し光の粒子になっていった……。


「『……ご冥福をお祈りします……。それにしても、アレはいったい何者だったのでしょう? 花様にお借りした本にも載っていませんでしたが……。そういえば、薪が命中した時には体が再生されましたのに、〈鬼殺し青江〉が刺さるとそのままお亡くなりになりましたね。これがいったい何を意味するのか……考察が必要です』」


 結局、ベッドから降りるどころか真綾の上半身を起こしただけで、文字どおりサックリと襲撃者を返り討ちにした熊野は、そっと真綾の体を横たえると、考察のお時間に入っていった。

 空が白み始めるまで、まだ少し時間がありそうだ――。


      ◇      ◇      ◇


 黒い魔物の命が虚しく潰えた夜から、数日が経った。

 真綾はその間、明るいうちは己の勘に従って北上を続け――。


『はっけよーい、――のこった!』

「よいしょ」

「ガアァァッ?」

『さすがです真綾様! 金太郎さんみたいです』


 ――不運にも出くわしてしまった巨大熊と相撲を取ったり――。


「ギャギャギャ!」

『ゴブリンですね――』

「成敗」

「ギャァァァ!」


 ――不運にも武器を振りかざして襲ってきた緑色の小人型生命体、ゴブリン(熊野の見立てによる)の集団などを軽く成敗したり、といった小さなハプニングの他は、特に変わったこともなく、夕方ごろ行き着いた廃村で優雅な一夜を過ごし、朝目覚めると、そこら辺になぜか転がっている魔石を拾う。……そんな感じの日々を送っていた。


 真綾はその日も、斧を振りかざして襲ってきた赤い帽子の小人型生命体、レッドキャップ(熊野談)を、サクッと成敗した以外、日中は特に何ごともなく森を歩き続けると、適当な時間に見つけた廃村で贅沢な野営をしていた。


 ちなみにこの日の夕食は、昼間に見た赤い三角帽から、茹で上がった甲殻類を連想したのか、「蟹か海老が食べたいです」と真綾が言ったため、〈伊勢海老尽くしコース〉であった。焼きものや揚げもの、蒸しものに刺身などの他、伊勢海老の頭が椀から豪快にはみ出ている〈伊勢海老汁〉まで付いた、それはそれはスペシャルなコースである。伊勢海老尽くしとはいっても、もちろん刺身には伊勢エビ以外に鯛や大トロなども盛り合わせてあり、食後には完熟メロンまでしっかり付いているという死角のなさだ。

 それは、山深い森での野営料理にしては……いやいや、それどころか、ちっさい親友がいつも食べている夕食よりも、はるかに豪華なものであった。


「だめだよ真綾ちゃん! たまたま運よく手に入れたチート能力で異世界無双する主人公が、現実社会を日々悶々と生きる読者たちからのヘイトを、多少なりとも和らげるためにはね、序盤に異世界サバイバル生活で苦労する描写は必要なんだよ! 様式美なんだよっ! 毎日毎日、お風呂上がりみたいにサッパリした体でふかふかのお布団に入って、朝までスヤスヤ寝てちゃいけないんだよ! こんなっ、こんな〈伊勢海老尽くしコース〉みたいな、私なんか一度も食べたことないような超ゴージャスディナー、この私抜きで食べてちゃいけないんだよっ! くそう、くそうっ!」


 などと、顔を真っ赤にして力説する親友の姿が、一瞬だけ脳裏をよぎった気がした真綾は、少しだけ首をかしげてから、カラッポになった食器類とダイニングセットを【船内空間】に収納し、今度はふかふかの布団が載ったベッドを取り出したのだった。

 やはり真綾、異世界サバイバル生活で苦労する気、ゼロである。


『先ほど、花様のお声が聞こえたような気が……』

「はい。――おやすみ、花ちゃん」


 不思議そうな熊野の声にコクリと頷くと、一瞬で猫の着ぐるみパジャマに着替えた真綾は、コツメカワウソのぬいぐるみをギュッと抱きしめて、そのままベッドに入る……かと思いきや、なぜかベッドごと【船内空間】に再収納した。


『真綾様、何か善くないモノが来ますね。……どうやらかなりの数です。このままだと包囲されますが、いかがなさいますか?』


 ベッドが消えると同時に、熊野の緊張した声が真綾の頭に響いた。

 熊野の索敵能力は、熊野丸現役当時の見張り員たちが双眼鏡を使ったものに準拠しているため、夜間、それも見通しの悪い場所では決して高くない。それゆえ、黒い魔物からの襲撃時に夜間索敵能力の不足を痛感した熊野は、その時からリンクしたままにしている真綾の勘を使って、毎夜襲ってくる魔物たちを返り討ちにしていたのだ。

 そして今、その異常なまでに鋭い真綾の勘が、ドス黒い殺意に満ちた集団の接近を告げているではないか――。


(ここで大丈夫です)


 脳内で熊野に短く答えた真綾の手には、すでに〈鬼殺し青江〉が握られ、その長大な刀身で焚き火の光を反射していた。

 また、いつの間にか、着ているものも、お気に入りの着ぐるみパジャマから、今や彼女の戦闘服と化してしまったセーラー服に変わっている。


 美しき彫像のごとく真綾が待ち構えている間に、森の奥から、ザワザワとした無数の気配と物音が、この廃村を包み込むように近づいてくるのがわかった。それはどんどん大きくなり――。

 やがて、月明かりに照らされた廃村の、真綾がいる広場を囲む朽ちた家々の間から、あるいは急角度で立ち上がる三角屋根の上に、手に手に武器を持ったゴブリンとレッドキャップの集団が、続々とその醜悪な姿を現したのだった。



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