第七話 大鴉の森 一 森へお帰り


 暗い部屋の中に置かれた台上にある、繊細な細工の施された銀の水盤に、なみなみと水が張られていた。

 その水面は不思議なことに、まるで夜間モードにしたスマートフォンのような淡い光を放ち、覗き込む三人の人物を暗闇にぼんやりと浮かび上がらせている。

 この部屋がもっと光に満ちていれば、その人物たちがそれぞれ、灰色、赤、黒の髪を持つ女性であることがわかったであろう。

 やがて、そのうちのひとりが口を開いた。


「なるほど、〈運命の子〉は無事にこちらへ渡って来られたみたいね……よかった」


 ――と、艶やかな女性の声が安堵したように流れると、それに続き、今度は力強い女性の声が暗闇を払うように響く。


「ああ、そうだな姉貴。しかも、こっちに来て早々、ハーピーの群れをひとつ殲滅しやがった。――あの長剣を振るう速さ、ハーピーは自分が斬られたことさえ気づけなかったろうね。たぶん、あれでもまだ実力のカケラさえ出しちゃいないよ。まったく楽し、恐ろしい子が来たもんだ。……それにしても、仮にも人間の顔をしたハーピーを若い娘が涼しい顔で殺せるってことは、あっちもなかなか物騒な世界のようじゃないか。だいたい、なんだ? ドラゴンよりも巨大なあの守護者は。あっちにはあんなのが住んでるってのかい?」

「ええ、おそらくそうなのでしょう……。でも、まさかあんな大精霊と契約してくるだなんて、まったく思いもしなかったわ。さすがは〈運命の子〉といったところかしら」


 伝法な口調の女性にそう返した艷やかな声には、予想を超えたできごとに呆れているような響きが含まれていた。


「そのうちにヤツらも気づくだろうね。……いや、もう気づかれたかもしれないか……姉貴、早く迎えを出したほうがいい。なんならアタシが――」

「いいえ、やめておきましょう。彼女は〈運命の子〉よ、その時が来れば、自ずとここへ現れるわ。それにきっと、ここにたどり着くまでの経験が、彼女をさらに強くしてくれるはずだから。……でも…………本当によかった、〈あの子〉はあちらの世界で無事に人生を送れたようね。しかも、どうやったかはわからないけど、子孫のためにあんな大精霊との絆を結んで」


 そこまで言ってから、姉貴と呼ばれた艷やかな声の持ち主は、それまで会話に参加していなかった第三の人物に優しく語りかけた。


「……そんな顔しないで。あなたの大切な子は立派に使命を果たしたのよ、喜ばしいことだとは思わない?」


 すると、夜空のように静かで、そして悲しげな女性の声が、ほの暗い部屋に流れる。


「いいえ、お姉様。……たしかに、〈あの子〉が無事にあちらの世界へたどり着き、そこで子孫を遺せたこと、それはわかりました。……でも、その人生が幸福なものだったかどうかはわかりません。いかなる理由があったとしても、私のしたことは決して許されるべきではないのです。――ああ……ごめんなさい、私の愛しい子供たち……本当にごめんなさい……」


 涙を流して何度も謝りながら、それでも、その女性の慈愛に満ちた視線は決して離れようとしなかった。

 水面に映された黒髪の少女、羅城門真綾の姿から――。


      ◇      ◇      ◇


 深い森の中を真綾が歩き始めてから、数時間が経過していた――。

 これまでのところ特に変わったイベントもなく、きっかり正午にしっかり食事休憩を取ったあと、木漏れ日が作るまだら模様の中を、彼女はまるで家の裏山へ山菜採りにでも行ったような調子で、のんびりと歩いているところだ。


(発見)


 心の中でそう言うと、真綾は足を止めた。

 彼女の視線の先に、不思議な動物がモソモソと動いている。


『なんでしょう? 大きいウサギ……でしょうか?』


 真綾の頭の中でヒソヒソと、熊野が不思議そうな声を上げた。

 その動物が本当にウサギだとすると、フレミッシュジャイアント並みの大型種になるだろう。ここからだと後ろ向きなので顔は見えないが、ウサギらしいフォルムをした体の向こうに長い耳が覗いている。しかしその背中に、畳まれた翼があるのはどうしたことだろう……。


 可愛いもの好きな真綾がフラフラと吸い寄せられるように近づいていくと、ようやく気づいたらしい謎ウサギは頭を上げて、こちらを振り返った。

 その頭に生えた長い耳と愛らしい顔は、たしかに真綾が知るウサギではあった。だが驚いたことに、その頭にはウサ耳だけではなく鹿の角のようなものが生え、口からは狼のような二本の牙が覗いている。こんなウサギ……地球にはいない。

 しかも、どうやら食事中だったらしく、その口周りは、ベットリと真っ赤な血で染まっているではないか……。


「……」

「……」

「プッ、プッ!」


 しばらく無言で真綾と見つめ合ったあと、その謎ウサギは、いかにもウサギらしい鳴き声を上げて威嚇を始めた。

 しかし何を思ったのか、そんな謎ウサギに指を差し出す真綾――。


「怖くないよ」


 今、真綾の脳裏には、花と一緒に観た名作アニメのワンシーンが、ありありとよみがえっているのだ……。

 そんな彼女の都合など知るよしもない謎ウサギは、差し出された白い指に容赦なく噛みついた!

 ガキン! と、まるで金属同士を打ち合わせたような高い音が静かな森に鳴り響く。もちろん、【強化】による結界が謎ウサギの牙を防いだためだ。

 ガシガシと指を噛まれながら、真綾はここぞとばかりにあの名ゼリフを口にした。


「ほら、怖くない、怖くない……」


 鋭い牙で力いっぱい噛みついても硬い岩のような感触が反ってくるだけの、巨大な生物が、自分の目をジッと見据えながら何かブツブツと言っている……。

 謎ウサギの体は、恐怖で固まった。


「怯えていた、だけなんだよね」


 現在進行形で怯え固まっている謎ウサギを問答無用で抱き上げて、欲望のおもむくままにモフり始める真綾だった……。


『可愛いらしいですね~。この子はおそらく……ヴォルパーティンガーという、伝説上の動物だと思います』

「ヴォルパーティンガー?」

『はい、以前わたくしが花様よりお借りした本では、たしか……肉食で、気性は荒いのですが、野ネズミなどのごく小さな動物くらいしか襲わないはずです。先ほど真綾様に噛みついたのは、食事中に突然人間が現れたものだから、びっくりしてしまったのでしょうね』


 花から借りた、『決定版! これが世界の幻想生物だだ!』という本に書いてあった情報を頼りに熊野が説明すると、真綾は地面に転がっている野ネズミの残骸を見た。

 食事中に邪魔が入ることのつらさを誰よりも知る真綾は、とたんに申しわけない気持ちになり――。


「ごめんね」


 ――ひとこと謝ると、腕の中で硬直しているヴォルパーティンガーの背中を優しく撫で始めた。

 すると、その気持ちが通じたのか、はたまた単に観念したのか、ヴォルパーティンガーは気持ちよさそうに目を細めて真綾に身をゆだねるのだった――。


 その後、およそ一時間にわたりたっぷり撫で回したことで、すっかり欲求を満たした真綾は、ヴォルパーティンガーをようやく解放してやることにした……。


「森へお帰り……」


 文字どおり脱兎のごとく逃げていく謎ウサギの背中に、バイバイと小さく手を振った真綾の顔は、心なしかツヤツヤしている。ここ数日、小動物っぽい親友と離れていたことにより、彼女の中で小動物成分が欠乏していたのだ。……致し方あるまい。


 ふたたび森の中を歩き出した真綾は、頭の中で熊野に語りかけた。


(熊野さん)

『はい、真綾様』


 真綾は普段、他者に聞かれる恐れがある場合は、頭のおかしい子と思われる事態を避けるため脳内で、それ以外は声に出して、熊野と話している。そんな彼女が急に脳内会話を始めた、ということは――。


(誰かに見られています)

『動物ではなく?』

(はい、すごく嫌な感じです)


 当然ながら森の中には様々な生物がいるが、いちいちその視線に反応していたのではきりがない。それゆえ真綾の鋭い勘は、主に善くないものや強い敵意に対して敏感に反応するのだが、今まさに、その敵意に満ちた視線を感じ取っていた。


『全方位をずっと見張っておりますが、それらしき姿は見当たりませんね……。ここは、このまま警戒をしつつ、あえて気づいていない振りをいたしましょうか。そうすればいずれ、動きがあるかもしれません』

(はい)


 熊野の進言どおり、真綾は視線の主に気取られぬよう、黒々とした森の道無き道をひたすら歩きつづけた――。


      ◇      ◇      ◇


 日が暮れるよりも前に、真綾はひとつの廃村にたどり着いた。

 どの家も、剥き出しにした木組みの間を漆喰で塗り固めた〈ハーフティンバー様式〉で建てられている。これは、北ヨーロッパでは木材が豊富な地域で一般的に見られる美しい様式だが、廃村となってから長いのか、今では見るも無残な有様だ。

 この村は、すっかり森に呑み込まれていた。


『どのお宅もひどい状態でございますね。……ご遺体がどこにも無いところを見ると、魔物の襲撃を受けて全滅したわけではなさそうですが、……やはり、あのお城が襲撃を受けた際に、周辺一帯が危険地帯になったのでしょうか……』


 とりあえず数軒の家を探索した真綾の頭に、熊野の声が流れた。その声はわずかに思案したあと、気持ちを切り替えたように言葉を続ける。


『……さて、じきに日が暮れることですし、今日はここで野営いたしましょうか?』

「はい」


 こうして真綾は、この廃村で一夜を過ごすことになったのだが、中で寝られそうな状態の家が無いため、集落の中心にあった少し開けた場所で野営することに決まった。


 高木が覆う森の夜は恐ろしく早い。手際よく長時間用のロングファイアー型に薪を組んだ真綾が、これまた手際よく火をおこしている間に、秋の太陽は無情にも落ちてゆき、ぬばたまの闇が支配する時間が訪れた。ちょうど太陽が沈むころに厚い雲が空を覆ったせいか、今夜は月明かりすらない。


 現代日本で育った女子中学生が、誰もいない森の中でたったひとり夜を過ごす、それがどれほど心細く、そして無謀なことか……。


『真綾様、たいへん恐縮ではございますが、ご自分でご夕食の準備をしていてだいてもよろしいでしょうか?』

「オッケー牧場」


 申しわけなさそうな熊野の言葉に真綾が答えた次の瞬間、彼女の前に、白いテーブルクロスのかかった立派なテーブルと、どこをどう見ても高価そうな椅子が出現した。しかもご丁寧なことに、テーブルの上にはムーディーなキャンドルがゆらゆらと炎を揺らめかせて……。

 これらはもちろん、【船内空間】に収納していた熊野丸の調度品だ。


『それでは、本日は下船初日でございますので、予定どおりAコースにいたしましょうか?』

「はい」


 真綾が短く答えた次の瞬間、テーブルの上に…………。

 これから野外での食事を余儀なくされる真綾のために、熊野はあらかじめいくつかのコースに分けた料理を大量に作り、それを【船内空間】に収納してもらっていたのだ……。


 暗闇にすっぽり包まれた深い森の中、フクロウの鳴き声と虫の音をバックに、豪華フルコースディナーを優雅な所作で味わう美しい乙女……。それは極めて場違いで、それでいて幻想的な光景だった――。


      ◇      ◇      ◇


 心ゆくまでディナーを楽しんだ真綾は、【船内空間】から取り出した高級感溢れるベッドに潜り込んでいた。お気に入りの着ぐるみパジャマに着替えて……。

 ちなみに、ベッドと寝具類を再度【船内空間】に収納する際、汚れや匂いの粒子は完全に分離させるため、それらが汚れたり焚き火くさくなったりする心配は皆無だし、ベッドに入る際、体の汚れだけを分離収納しているため、今は彼女自身、シャワーでも浴びたかのようにサッパリしていた。

 真綾、異世界サバイバル生活で苦労する気、ゼロである。


『それでは真綾様、良い夢を』

「おやすみなさい」


 数日前に〈花ちゃん〉と命名したコツメカワウソのぬいぐるみを、大事そうにギュッと抱きしめた真綾は、スヤスヤと夢の国へと旅立っていった。

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