第六話 転移 六 冒険の始まりだよ!


 扉が開いた瞬間、ヒョォォ……、という風音とともに、真綾の濡羽色をした長い髪がなびいた。

 扉の向こうは、下の主寝室とほぼ同じ広さの部屋であった。

 部屋は勾配天井になっていて、堅牢に組み合わされた太い梁の上には、急角度で立ち上がる屋根の裏がそのまま見えている。

 その屋根にポッカリ空いた大きな穴と、板戸を開け放った壁の窓から、やわらかな陽光と乾いた風が入ってきていたのだ。


 真綾が部屋の中へ足を踏み入れると、風雨に長年さらされ続けたらしい床板が、悲鳴を上げるようにギシリと軋んだ。


『真綾様、屋根をご覧くださいませ。あの大きな穴、どうやら内側から吹き飛ばされたもののようです』


 熊野の言葉どおり、穴の周りに見える木材の断面は、すべて上に向かってへし折られていた。

 屋根の大穴を見上げていた真綾が、そこからスポットライトのように差し込む光をたどっていくと、大穴のほぼ真下、床の上に何かが照らし出されているのが見えた。


「あれ、なんですか?」

『あれは……魔法陣、でしょうか……』


 熊野の中にある異世界ラノベ知識がそう言わせた。

 時の流れとともに薄れてしまい、ほとんど消えかけてはいるが、床の上には直径二メートルほどの円と、その中に描かれたいくつもの幾何学模様が、かすかに残っている。熊野丸の召喚魔法陣に少しだけ似ているかもしれない。


「魔法陣……」


 その言葉を聞いた真綾が、(花ちゃんが見たら喜びそうだなー)などと呑気に思いながら魔法陣に近づき、そっと手で触れると――。


      ◇      ◇      ◇


 ――まばたきをした真綾のすぐ前に、黒いドレスに身を包んだ美しい女性がいた。

 濡羽色の髪を結い上げたその女性は、間違いなく、あの階段ホールの肖像画に描かれていた女城主その人だ。

 彼女は切れ長の大きな目いっぱいに涙を浮かべ、真綾に何ごとか話しかけているのだが、真綾にはその声がまったく聞こえない……というより、真綾を取り巻く世界から音そのものが消えているのだ。

 そもそも、いつの間に真綾は立っていたのだろう? しゃがんで床の魔法陣を見ていたはずなのに。

 それに、体を動かそうとしてもまったく真綾の思いどおりにならず、勝手に視線が動くのはどうしたことか。一人称視点の無音映像を見ているような、まるで誰かの体の中に自分が入っているような……。


 映像が滲んだ。自分の入っている人物が泣きながら笑顔を作っているのだ、ということを、不思議と真綾は理解した。……まるで自分が体験したことのように。


 やがて女城主の顔は、すぐ目の前まで近づいてくると視界の横に消えた。真綾には、彼女が抱きしめてくれているのがわかる。それは慈愛に満ちた抱擁……幼いころ亡くした母のおぼろげな記憶を思い出して、真綾の目の奥が少し熱くなった。


 視界に戻った女城主は涙を拭うと、慈しむように、そして悲しそうに微笑んだ。

 それから彼女は静かに目を閉じ、白い手のひらを上に向け両手を差し出すと、歌うように口を動かし始める。すると、神聖な気配を纏ったその美しい姿が、下からの光によって照らし出された。


 下からの光を捉えて足元に流れた真綾の視界は、長いスカートの下で魔法陣が強く輝いているのを映したあと、素早く真上に流れる。

 その直後、魔法陣からの光に照らされた屋根の一部が、見えない力で真上に向かって突き上げられたかのように、勢いよく吹き飛んだ!

 すると今度は、そうやってできた大穴が近づいてきた……いや、どうやら、この視界の持ち主が空中に浮き上がっているらしい――。


 そのまま屋根の穴を抜けたあと、ふたたび視界が下に流れると、遠ざかる屋根の穴の向こうに、心配そうな様子でこちらを見上げている女城主の姿が見えた。その姿からは、真綾の入っている人物への深い愛情が、せつせつと伝わってくる……。

 やがて穴の下から移動したように見えた女城主だったが……次の瞬間! あろうことか、いきなり塔の窓からその身を投げたではないか――。


(あっ!)


 真綾は心の中で声を上げた。あまりに危機的な状況を目の当たりにしているためか、スローモーションのように時間がゆっくり感じられる。

 女城主の体は黒いドレスをはためかせながら空中を舞っていた。なんとか助けたい真綾は体を動かそうとするが、ただ映像を見せられているだけの彼女にそれは叶わない。女城主はこのままだと、数秒後には地面に叩きつけられてしまうだろう……。

 無駄とは知りつつも真綾が全力を振り絞ろうとした――その時、それは起こった。


 翼のように大きく手を広げた女城主の姿が、一瞬黒く霞んだかと思うと、一羽の巨大な鴉に変わったのだ――。


 ――さらに視界の高度が上がると、城の上空を埋め尽くすほどのハーピーと大鴉の大群が壮絶な死闘を繰り広げていた。そのなかには、真綾が倒したリーダー級のハーピーも多数いるうえ、それよりもさらに大きい個体の姿まで見える。

 そんな魔物と勇敢に戦う大鴉たちにクロの姿を重ね、(頑張れクロ)と、真綾が心の中でエールを送っていると――。

 そこに、巨大鴉となった女城主が猛スピードで上昇してきた。


 戦場に突如として乱入した巨大鴉が漆黒のくちばしを開く。するとその直後、彼女を中心にした空間が歪んだ!

 そして、その歪みが波紋のように広がると……どうしたことか、戦場全体のハーピーたちが同士討ちを始めたではないか。それも、大鴉を相手に戦っていたときとは違い回避もせず、ただ狂ったようにお互いを攻撃し合うため、すぐにどちらかが致命傷を負い、かろうじて生き残ったほうにも別の個体が襲いかかる……。

 ハーピーたちが次々に落下しながら光の粒子になっていく様子は、極めて壮絶でありながらも、どこか幻想的な光景だった。


 その間も城から遠ざかり続けていた視界の中で、ハーピーたちを瞬く間に駆逐した巨大鴉は、一度こちらを見上げると、大鴉の大群を引き連れて悠々と飛び去っていった。真綾が入っている人物の視界はその姿を映したあと、雲の中に入ってゆく――。


      ◇      ◇      ◇


 ――まばたきをした真綾の瞳に、床の上でほとんど消えかけているあの魔法陣が映った。風の音が戻っていることに気づいた彼女が頭を上げると、女城主が身を投げたあの窓から、湖上を渡る冷たい風が吹き込んでいた……。

 真綾は今まで、白昼夢でも見ていたのだろうか。


『真綾様、今のは……』


 真綾の頭の中で熊野が呆けたような声を出した。真綾とつながっている彼女も今の映像を見ていたようだ。


「……わかりません。けど――」

『はい、わかりましたね。ご城主は……ご無事だったのですね!』


 頭の中に熊野の明るい声が響くと、真綾は屋根に空いた大穴を見上げた。その向こうには、あの壮絶な戦いなど無かったかのように、どこまでも高い青空が広がっていた。


      ◇      ◇      ◇


 古城の探索を終えて熊野丸に帰還した真綾は、その日の夜、特等和室内のひと間に座って考えていた。


 ずぞぞぞ~。


 塔の上にあった隠し部屋で見た不思議な映像の中に、どうしても気になるところがあったのだ。


 ずぞ、ずぞぞぞぞ~。


 真綾の入っていた人物を女城主が抱きしめる前、彼女の顔が目の前に近づいてきた。


 ごくごくごく……。


 その時、こちらを見つめる彼女の黒い瞳の中に、真綾は見てしまったのだ……。


 ごっくん。


 そこに映っていたのは、たしかに……。


 ――コトリ。


「ごちそうさまでした」

『はい、お粗末でございました』


 真綾がカラッポになった器を置いて両手を合わせると、熊野は嬉しそうに答えた。夜食として熊野が作ってくれた月見そばを食べながら、真綾は考えていたのだ……。

 ちなみに彼女は、ほんの二時間ほど前にフルコースディナーをたいらげているはずなのだが、今ので三杯目である。


「ひいおばあちゃんでした」


 真綾はなんの脈絡もなく、唐突に口を開いた。――そう、あの時、女城主の瞳に映っていたのは、今度こそ真綾の曾祖母の顔……だったように見えたのだ。


『はい、わたくしが存じ上げておりますお顔よりは、いささかお若いご様子でございましたが、たしかに奥様のようにお見受けしました。……ですが、いったいどうしてこのような、異世界などという場所に……』

「うーん」

『う~ん』


 ふたりは考えた。しかし、いくら考えたところで答えが出るはずもない、情報があまりにも少なすぎるのだから。

 やがて真綾の頭から煙が上がり始めると、熊野は意見を述べた。……煙というのはもちろん比喩である。


『あ、真綾様、煙が…………。とりあえず、ご城主と奥様が似ていらしたことと、ご城主のおそばに奥様らしきお方がいらして、そのお方の体験をここで真綾様が追体験されたこと。……これらと、真綾様がこの場所に転移させられたことは、とても無関係だと思えませんね。北に向かえば、良い答えが見つかるのでしょうか……』


 熊野には、すべてがつながっていると思えてならない。


「明後日、出発します」


 口の中に入っていたベビーカステラをゴクンと呑み込んで、真綾はキリリと凜々しく告げた。明日出発すると言わないのは、当初計画していた上陸地点周辺の探索を考慮してのことだろう。

 ちなみに彼女は、珍しく頭を使ったことで失ったカロリーを、【船内空間】から取り出したベビーカステラでちゃっかり補充していたらしい。真綾の食い意地恐るべし……。


『かしこまりました。それでは明日、上陸地点周辺の探索を予定どおり行い、終了後はごゆっくりおくつろぎください。北に向けて出発されますと、おそらく長い間、ご不自由をおかけすることになりますので』

「はい」


『あ、そうそう、新作のスイーツが――』

「頂きます」


 こうして出発の日取りも決まり、真綾たちの夜は平穏に更けていくのだった。


      ◇      ◇      ◇


 そして、古城探索をした日の二日後である、転移六日目――。


 前日に上陸地点周辺の探索を行い、女城主との戦いで散ったハーピーのものと思われる魔石をいくつか拾った以外、特に異常がないことを確認した真綾は、昨夜のうちに豪華料理の食いだめと大浴場での入浴納めを完了し、本日、いよいよ異世界の北上を開始するため、安全確認済みの上陸地点に瞬間移動していた。


『これでわたくしの本体とも、しばらくお別れですね』

「お世話になりました」


 朝もや漂う湖の上、召喚解除されて消えゆく熊野丸の姿に、真綾は湖畔から深々と頭を下げた。この数日間、異世界で何不自由なく過ごせたのは、決して花の知恵だけではなく、熊野と、その本体である熊野丸がいてくれたおかげだと真綾は知っている。


『本船のご利用、誠にありがとうございました、またのご乗船を心よりお待ち申しあげます。――それにしても不思議な感覚ですね、自分の本体が消えてゆくところを別の視点で眺めるというのは。……ですが、これがもし、意識のほうまで一緒に召喚解除される仕様ですと――』

「困ります。……ひとりは寂しい」


 熊野が仮想した内容に真綾は素早く反応した。驚異的な胆力を持っている彼女ではあるが、その実、普通に女の子としての一面も持ち合わせているのだ。無二の親友である花と離れ、たったひとりで異世界に放り出されたうえ、熊野との会話さえできなくなってしまったら、それはどれほど寂しいことだろう……。祖父を失ってから、優しい熊野の明るい声に真綾がどれほど救われたことか――。


『真綾様からそのようにおっしゃっていただけますと、熊野もたいへん嬉しゅうございます。わたくしといたしましても、真綾様をおひとりにするなど考えたくもございませんので、この仕様でよかったと心から思っておりますよ』

「これからも、よろしくお願いします」

『はい、こちらこそ、末永くお願いいたします』


 熊野の声を聞いて気分が明るくなった真綾は、煙を上げて錨泊していた熊野丸がいなくなった湖から、自分の背後に向き直った。


 今、真綾の前には、見渡す限りの黒い森が広がっている。


『真綾様、お覚悟はよろしいですか?』

「はい」

『では、花様がいらしたら、こうおっしゃったでしょう。――さあ真綾ちゃん、冒険の始まりだよ!』

「おー」


 熊野の意外と似ている声真似を聞いて嬉しくなった真綾は、右手を天に向かって高く突き上げると、異世界の森へと足を踏み出したのだった。


 その姿を、木の枝に留まっている一羽の大鴉がジッと見ていたのだが、そのことを、彼女たちはこの時、気にも留めていなかった。

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