第一話 転移 一 ここはどこ?
早朝、鳥たちの声が響き始めた小さな湾に、巨大な煙突から黒煙を立ち昇らせ一隻の船が錨泊していた。白と黒とに塗り分けられたクラッシックな外観が美しい、その船の名は……もちろん、豪華貨客船熊野丸だ。
その上層部に位置するブリッジデッキには、六十坪ほどの日本庭園と小さい中庭を持つ特等和室がある。昭和初期の日本には和室での宿泊を望む貴人もまだ多かったため、その需要を見越した羅城門総帥が、当時の名工たちに内装を任せたといわれる、数寄屋造りの部屋だ。
部屋といっても当然ワンルームではなく、貴人用の特別室だけあって複数の部屋から構成され、中庭を望む御影石の風呂すら有したそれは、さながら一軒の小旅館のようであった。
熊野丸が欧州航路に就いていた当時、宿泊客がいないときは一部を一等乗客に解放し、そこで催された茶道、華道などの日本文化を体験する講座は、外国人乗客からも好評を博していたといわれている。
今、その一室に、花との約束どおり熊野丸で一泊した真綾の寝姿があった。
仰向けになり両手を組んで眠る美しい姿は、まるで深い森の中で眠り続けるお姫様のようだ。
たとえ猫の着ぐるみパジャマを着ていても、その袖や裾から長すぎる手足が飛び出していても、決してその気品が損なわれることはなかった……。
「花ちゃ……」
目を覚ました真綾は、となりで寝ているはずの親友に声をかけようとして……思い出した。大好きな祖父を亡くした真綾のために泊まり込んでくれていた花は、昨日、家に帰ってもらったのだった。
昨日は大丈夫だと言ったものの、自分のとなりに、ヨダレを垂らして大の字で寝ている親友のいないことが、めくれ上がったパジャマから覗く、ポッコリお腹と可愛い出ベソの見えないことが、真綾には少し寂しかった。
『おはようございます、真綾様』
「おはようございます、熊野さん」
熊野丸の人格である熊野の明るい声が、真綾の頭の中に聞こえた。熊野もまた、悲しみに暮れる真綾のことをずっと支えてくれていたのだ。
真綾は挨拶を返すと布団を畳み始める――が、すぐに熊野からストップがかかった。
『真綾様、そのようなことは熊野にお任せください』
「このくらい、自分でしないと……」
『……わかりました。――ですが、お布団の上げ下ろしだけですよ』
「ありがとうございます」
『……お布団の上げ下ろしだけですよ』
「はい」
『おふと――』
「はい」
『…………』
真綾に奉仕することを至上の喜びとする熊野は、放っておくと何もかもやってくれようとする。しかし、ずっと祖父とふたりで暮らしてきた真綾にしてみれば、自分のことくらい自分でやらないと落ち着かない。真綾はよくできた姫様なのだ。
熊野からなんとか布団の上げ下ろし権をもぎ取った真綾は、手早く布団を片付けるのだった――。
◇ ◇ ◇
中学校の黒いセーラー服に着替えた真綾は、特等和室内のひと間に正座して、腕によりをかけて作ってくれた熊野の絶品朝食を頂いていた。
「おかわり」
『はい!』
真綾がカラッポになった味噌汁の椀を差し出すと、熊野の明るい返事とともに、それはポルターガイストのようにフヨフヨと空中を浮遊して行った。
『すっかり食欲が戻られたようですね、熊野は嬉しゅうございます』
「はい、みんなのおかげです」
心から嬉しそうな熊野の声に、真綾は力強く頷いた。
祖父が調子を崩してからというもの、あれほど旺盛だった真綾の食欲は激減していた。そして祖父を亡くしてからは、ほとんど何も口にしなくなっていたのだ……。
愛する祖父の死は、彼女にとって世界の終焉を意味していた。
そんな彼女を救ってくれたのは、花と熊野、そして町の人たちだった。
真綾を心から心配してくれる人たちの優しさが、自分はひとりぼっちではないと、世界はまだそこにあるのだと、彼女に気づかせてくれたのだ。
モリモリ食べて元気を出さなければ、自分を心配してくれたみんなに申しわけない、そう強く思う真綾であった。
「おかわり」
『はい!』
フヨフヨと帰ってくる味噌汁の椀が到着するよりも早く、真綾がカラッポになった焼き鮭の皿を差し出すと、熊野が嬉しそうに返事をした。
何しろ一流料理人の腕を持つ熊野が作った料理である、真綾の食も進む進む!
カラッポの皿が浮遊して行く間に、お膳の横にあるおひつから、真綾はご飯をこんもりとよそう。
「おかわり」
『はい!』
そしてまた、真綾が差し出したカラッポの……ツッコミ不在とは恐ろしい……。
◇ ◇ ◇
大量の朝食をペロリとたいらげたあと身支度を整え、真綾は洗面所の窓から中庭を覗いた。
熊野丸竣工時に真綾の曾祖母が植えたという西洋ニワトコが、中庭の片隅でクリーム色の小さな花をたくさん咲かせていた。
――熊野の本体である熊野丸は、現役時代のどの姿でも召喚が可能である。
昨日、熊野丸を召喚する際、『ご希望の季節はございませんか?』と真綾を気遣い聞いてくれた熊野に、「西洋ニワトコの花が見たい」と彼女が答えたため、初夏の姿で召喚していたのだ――。
「おじいちゃん、行ってきます」
祖父が好きだった小さな花の集まりに微笑むと、真綾は洗面所をあとにした。
真綾は特等和室の玄関から山向こうの家まで瞬間移動して、それから学校に向かうつもりだ。もちろん、「また明日」と言って昨日別れた親友の家に寄ってから。
玄関の式台で靴を履きながら、真綾は愛嬌のある親友の顔を思い浮かべて微笑んだ。
(早く花ちゃんに会い――っ!?)
『真綾様!』
真綾の鋭い勘が警鐘を鳴らすのと、熊野の緊張した声が頭に響いたのは、ほぼ同時だった。
その直後、真綾は重力が増したような奇妙な感覚を覚えた。あえてたとえるなら、上昇するエレベーターにでも乗っているような感覚だろうか。
『真綾様、なんということでございましょう……わたくし今、空中に浮かび上がっております……』
本体の状況を告げる熊野の声がどこか虚ろなのも致し方あるまい、満載排水量が四万トンをはるかに超える船体を空中に引き上げる現象など、普通なら起こるはずがないのだから――。
――異変を感じてから十五分ほど経過したが、上昇している感覚はまだ続いている。熊野丸はいったいどれほどの高さまで昇るのだろう。
『え~現在本船は、湾の上空約二七〇〇メートルをさらに上昇中でございます。先ほどまで地上が見えておりましたが、雲に入ってからは真っ白で――』
その時、――熊野の現状報告を遮るように、長かった上昇感は唐突に消失した。
体がふわりと宙に浮く……。
熊野丸は、中にいる真綾とともに自由落下を始めたのかもしれない。もしそうだったとして、熊野丸と真綾が着水時に受ける衝撃は、どれほどのものになるだろう。
『え~現在本船は、地上に向けて落下しております』
そう告げながらも熊野は考える。果たして【強化】の結界で、着水時の衝撃から真綾を守りきれるのだろうかと。
(花ちゃんだったら吐く……)
こんな時でも真綾はマイペースだ。このままだと命にかかわるかもしれないという危機的状況の中で、呑気に親友のことを考えていた……。この娘の心臓には毛でも生えているのだろうか――。
――上昇感に比べるとはるかに短かった無重力感は、上昇の時と同様、唐突に終わりを迎えた。
その刹那! 大質量の熊野丸が高空から水面に激突した膨大な衝突エネルギーが、一気に真綾を襲う! ――ことはなく、不思議なことに真綾の体は、ふわりと綿毛のように土間へと舞い降りるのだった……。
『真綾様、ご無事ですね?』
「はい、熊野さんは?」
『はい、異常ありません。……ですが、これはいったい……。真綾様、念のため、瞬間移動でお帰りになるのはお待ちいただけますか?』
「はい」
熊野の少し困惑したような声が、真綾の頭の中に聞こえた。
ここは熊野の言うとおり、状況確認が終わるまでは下手に動かないほうがいいだろう。真綾の勘もそう教えてくれている。
瞬間移動で家に帰ることをいったん保留にした真綾は、状況を自分の目でも確かめようと、ひとつ上のデッキに向かった。
船内の階段を上り、屋外へと通じる扉を真綾が開けると、外から冷たく湿った空気が流れ込んできた。
その空気を押し出すように、真綾は屋外に足を踏み出した――。
「なんか、懐かしい……」
全身に纏わりつくような湿気を感じながら、真綾は昨年宮島で花と一緒に見た光景を思い出していた。――あの日と同じように、外は濃密な霧に覆われていたのだ。
ただ、真綾たちが宮島で霧を見たのは夜だったが、今日はその時と比べてはるかに明るいため、まるで白く淡い光に包まれているようである。
濃密な霧のせいで、後方に高くそびえているはずの巨大な煙突すら見えず、これでもし足元のデッキが見えていなかったら、真綾は上下感覚を失っていたかもしれない。
「霧が……」
『はい、どうやら晴れるようです』
状況のわずかな変化を感知した真綾たちの前で、最初はゆっくりと、やがて急速に霧は薄れていった。それにともなって、徐々に周囲の様子が見え始める。
そして、ほぼ霧が晴れたことでその全容が明らかになると、熊野と真綾は思わず疑問を口にした――。
『ここは、いったい……』
「どこ?」
熊野丸が錨泊していたのは、周囲を高い崖に囲まれたいつもの湾だったはず……。
しかし、現在、熊野丸が浮かんでいるのは、黒々とした針葉樹の森に囲まれた湖の上だったのだ。
真綾が【見張り】で全方位の視覚情報を確認すると、どの方向も見渡す限りの深い森と低い山々が続いていた。ドイツトウヒかモミの木らしい黒々とした針葉樹の間には、色づいた広葉樹もチラホラと見えている。
鳥や鹿といった野生生物の姿は確認できたが、人間の姿は影も形も無かった。
そんななか、熊野丸の前方三〇〇メートルほどの湖上にポツンと浮かぶ小島と、その上に廃墟のようなものが見えている。
「熊野さん、あれ、なんでしょう?」
『そうですね、お城……それも、欧州のもののようですが、あの様子では、かなり前に廃されたようですね。……ロマンチックですね~』
「ロマンチックです……」
熊野が言うとおり、その廃墟は西洋の様式で造られた城のようだ。
決して巨大な城塞ではない。塔をいくつか持つだけのややこぢんまりとした建造物を、白漆喰で仕上げている。かつては湖上に浮かぶ白亜の城が、その美しい姿を誇っていたのだろう、しかし――。
今や主塔の屋根には穴が空き、白かったであろう外壁は汚れ、ところどころ漆喰の剥がれ落ちた下からは石材が覗いていた。城を呑み込まんとする勢いで敷地全体に生い茂った植物が、廃城となってからの長い年月を感じさせる。
湖の上で霧の名残を纏って静かにたたずむ姿は、神秘的にすら見えた。
心が昭和初期の乙女である熊野と、外見のわりに乙女趣味な真綾は、しばしの間ウットリとそれを眺めたのだった――。
『……違う場所に来てしまったのは確実ですね……はっ! 真綾様、もしかして、これがプチガミ様のおっしゃっていらした〈
「はい、私もそんな気がします」
熊野の言葉に真綾はウンウンと頷いた。そもそも熊野自体が極めて非常識な存在なのだが、そこにツッコミを入れる者は現在ここにいない。
『……〈
「おー」
分析を始めた熊野の声に、真綾がパチパチと手を叩いた。あまり難しいことを考えるのが苦手な彼女にとって、頭の良い熊野は頼れる参謀なのだ。
――ところで、中身が昭和初期の常識人であるはずの熊野から、異世界などという発想がサラリと出てきたのには、ちゃんと理由がある。
花から借りた本を真綾が読む時、実は熊野も一緒になって読んでいたのだ。……いや、それどころか、ラノベにガッツリ嵌まってしまった熊野は、ときおり花から個人的に本を借りては、召喚された熊野丸船内で人知れずエンジョイしていたのであった――。
『地球上か否かは、これから数日天測を行えば判明するでしょう。――ですが、視認できた限りでは、動植物が地球と同じもののようでございますので、やはりここは地球だと考えるのが――』
「熊野さん、あれ……」
『あ、…………前言、撤回いたします……』
ここを地球だと断定しようとした熊野は、真綾の声を聞いた直後、早くも自分の推測を撤回した。
真綾がジッと見つめる空の先に、決して地球上ではありえない異形の生物が飛んでいたのだ。
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