第0章 『安息界』

第三話 フエラ村の朝

 そして、五年後......。


 辺境にひっそりと構える小さな漁村、フエラ村は山と湖に挟まれた場所にあった。この地域ではようやく長い雨季が終わり、漸く春へと突入するところだ。


 夜が明けて間もなく、村から湖へと数隻の小さな漁船が出港を始める。漁船に乗っているのは夜明け前からせっせと漁の準備をしていた漁船に不釣り合いなほどに屈強な体格をした水夫たちだ。水面を揺らす風は一切なく穏やかそのものといったような早朝だ。各々の水夫たちは魚群の目星をつけると船を止め刺網を遊泳路目掛けて投げ入れる。


 水夫たちが村を離れれば再び村は静寂に包まれ、聞こえてくるのは遠くの方から水夫たちの陽気な舟唄だ。そして、その声に目を覚ました寝坊助な鳥たちが湖畔の森から日の出の合図をするように囀る。フエラの一日はこうして始まる。


 程なくして、日の出前の太陽が東の空を仄明るく染め上げていく。


 鳥の鳴き声に村の一角の石造りの家の少年が目を覚ました。


 彼の名はリューザ。田舎漁村、フエラ村に住む少年だ。今年で16歳なのだが背格好だけを見てしまうと、とてもそうは見えない。彼は身長がかなり低いのだ。


 リューザは白いシャツの上から緑色の上着を羽織り、寝癖を少し整えると、ドタドタと梯子を降りていく。


 一階に降りた時、リューザの目の前の扉が開き、一人の寝間着姿の小太りの女性が出てきた。リューザの母アーネスだ。


「おや、リューザ?こんな早朝からどこか行くのかい?朝食はどうするの?」


「えへへ、すぐ戻ってくるよ。朝食は置いといてよ、片づけはボクがしておくからさ」


「はいはい。まぁ、人様に迷惑をかけるんじゃないよ」


「わかってるよっ」


 そう言うとリューザは居間を抜けて家の外へと出ていった。


 朝の空気を思いっきり吸い込むと冷気が一気に身体に入り込み心地よい。家の前の石畳の坂を駆け下っていくと向かい風が染み入ってくる。眼下の坂道の道沿いには真っ白く塗られた石造の民家が立ち並んでいる。さらに先の方を見ればフエラ村自慢の広大な湖、パルデム湖が広がっている。遠目から湖上の所々に見える影は朝早くから漁に出ていった村の漁師たちだ。フエラ村は漁村であり村人の多くはパルデム湖での漁によって生計を立てている。


「おや、リューザじゃないかい!」


 坂を下るリューザに突然、真上の方から声がかかる。立ち止まって見上げると道沿いの民家の二階の窓からリューザの方へエリザおばさんが身を乗り出していた。開け放たれた窓から仄かにパンの香ばしい臭いが少々空腹なリューザの腹を鳴らす。


 彼女の家には大きな竈があり、夫とともに村でパン焼き屋を営んでいるのだ。そのため、朝になるとパンを焼いてもらうために村人たちが


「おはよう、エリザおばさん」


「おはよう。今日はいつにも増して、ご機嫌ねえ」


「へへっ、まあね」


 その時、ふとリューザの鼻にほんの少し焦げた香りが入り込む。


「エリザおばさん。……パン大丈夫……?」


 鼻を少し突き上げ、エリザおばさんは鼻を利かせたのち。眉を顰めて慌てた素振りを見せる。


「あら!いけない!まったく……あの人ったら……。リューザ、気を付けて行ってくるんだよ!」


 彼女が窓から首を引っ込めたのを見届けるとリューザは再び湖めがけて坂を下り始めた。背後では「お前さん、お前さん」と大声で夫を窘めるエリザおばさんの声が聞こえてきてリューザはクスリと笑ってしまった。


 湖岸に着くと、リューザは堤防にゆっくりと腰を掛けた。彼は朝日が茫洋とした湖の水面を煌かせる様子をまじまじとその青色の目を輝かせてていた。陸地から離れたところでは網縄を使って漁師たちが必死に漁作業を行っている。


 この村は相もかわらず変わり映えすることはない。


村や周辺の地域で取れる物資や食糧が十分にあること、そしてこの村が鄙びた辺境に位置するということもあって外部との交流はする必要がなくフエラ村はほとんど隔絶された地域となっていた。


 この村で生まれた者は、十中八九この村で一生を過ごし、この地に骨を埋めることになる。しかし、誰もが経験するであろう冒険へのあこがれの時期、リューザはその真っただ中にいるのだ。そんなリューザを誰も止めようとしたり諭したりしようとしないのは、村の大人たちが皆リューザと同じような年頃を経験してきたからだろう。彼もいつかはそのことに気が付く自分の世界はこの村一帯なのだと……。


 それに、退屈にも見えるこの村ではあるが、ここに住んでいる村民のほとんどは村での生活に心を満たしていた。季節が変われば風の向きが変わる。そんな風に、平穏に過ごせることに幸せを感じていたのだ。


 丘の方から流れてきた風が村の坂道を掛け降りリューザのいる湖へと吹き付ける。リューザはそっと上着のフードを手で押さえる。


 湖に向かって左手の岸へと目をやると、漁の様子を見に岸まで来ていたフランケント氏がいた。その姿を見つけて、リューザはそっと腰を上げる。


「よし、そろそろ行こうか」


 そう言ってリューザは湖岸に沿うようにして村から走り去っていくのだった。 



※キャラクター紹介


リューザ    16歳、フエラ村の少年。やんちゃな性格で背が低いのが悩み。好物は「白身魚の蒸し焼き」と「ラムチョップ」


アーネス    40歳、リューザの母。小太りで気の強い女性。


エリザおばさん 39歳、村でパン焼き屋営んでいる女性。抜けているところのある旦那を支えている。


フランケント氏 53歳、村の"管理者"。最近では一人娘が反抗気味で手を焼いている。

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