第12話
海都は、ワンルームマンション近くのコンビニにいた。ペットボトルのサイダーだけ買って店を出る。まだ陽が昇りきっていないにも関わらず、店内と外はめまいを覚えるほどの気温差。蝉の声が日に日に大きくなっている気がする。大阪は、海都の故郷より、ほんの少し蝉の鳴きはじめるのが遅い。
約束の七時まであと五分、というときに、青のランドクルーザーが目の前に停まった。まさかこんな大きい車じゃないよな、と思っていると、助手席を挟んだ運転席に見覚えあるシルエットが見えた。外が明るすぎて車内は暗く感じるが、手で合図されたのがわかったので、助手席のドアを開ける。
「おはよ」
「おはようございます。てか、よくこんないい車乗れますね」
「お下がりだけどね。ていうか海都、サイズ的に合わないって思ってるでしょ」
「言ってはないじゃないですか」
「思っとんのかい!」
今日の樹は、白い無地のTシャツ、サイドに大きな目玉のような模様が白抜きされた青いパーカー、下はデニムパンツだった。一緒に取材に出るのは初めてだったので、どんな服装をしてくるのか気になっていたが、エスニックテイストを残しつつも、動きやすそうな格好ではある。
海都はTシャツにチノパン、長袖の開襟シャツを羽織りにしている。休日、買い物に行く格好と同じ。きれいめであれば、とくにこだわりはない。
樹がどんな運転をするのか心配だったが、海都が想像していたよりもずっと丁寧だった。信号がない横断歩道を通るたびに速度を緩め、歩行者がいたらちゃんと停まっている。
「なんかキャラと違うんですけど」
「コップに入った水こぼさずに走れるよ」
「
「ちなみに大型二種まで持っている」
「何で⁉」
やたら立派な車といい、無駄なハイスペックといい、謎が増えただけだった。現実的な割に浮世離れした雰囲気もあるし、実家が裕福なんだろうなと海都は予想する。
「青、好きなんですね。やっぱり海を思い出すからですか」
服の色も、車も、『BLUE COMPASS』の表紙も。
「服は無意識で、車はさっき言ったとおり、お下がり。表紙は海のイメージで作ってるけどね」
海都が初めて手にした『BLUE COMPASS』。捨てようと思ったけど、なんとなく引っかかった青。
「今日、俺がカヤック乗る流れになってますけど、樹さんのほうがよさそうですね」
海が嫌いな自分より、海が好きな樹が乗るべきだ、と思う。
「俺、海水アレルギーだから無理」
「え?」
海水アレルギー? 海都は、いつもの軽口かどうかの判別がつかず、運転席に目を遣る。樹は真剣な顔で前を見据えハンドルを握っていた。
「海都も海のそばに実家があるって言ってたよね。俺も実家の前は海なんだけど、海水に触れると体が腫れるから入れなくてさ。今も昔も、見る専門」
樹の個人的な話を聞くのは初めてだった。この人はよく喋るけど自分自身のことはほとんど話さなかったんだな、と気づいた。少なくとも、海都には。
「久しぶりだなー。去年、前カノと来て以来だ」
「最近ですね」
海都はまったくの初めてだ。ネットや雑誌で下調べはしていたが、実際に見る太平洋と乳白色の砂浜は写真よりずっと美しいと思った。海は「青い」というより「碧い」。緑がかった宝石のような色だ。海都の生まれ故郷の海はもっとずっと淡い青だし、寂れた漁村という風情だったので、大きなホテルが並ぶ碧い海は異国のリゾート地かと錯覚しそうになる。
「大げさな。ていうか大学、大阪だったんでしょ? 学生時代に来なかったの?」
「俺がサークルとかゼミの仲間とワイワイやるタイプに見えますか」
「思わないけど。彼女とか」
「一緒に旅行するほど長続きしたことはないですね。それにしても人、多すぎませんか」
「七月の土曜だからね。まだ梅雨は開けてないけど今日は天気いいし」
砂浜にはビーチパラソルやサンシェードが並び、浅瀬には浮き輪やバナナボートが無数に並んでいる。
「もちろんここで乗るわけじゃないよ。一応、写真撮っとこうと思って」
樹はデジタル一眼レフカメラを構える。急なことでカメラマンの都合がつかなかったので、今日は樹が撮影係を務める。「がんばって修正するから!」という意気込みが不穏ではあるが、海都より腕はいいはずだ。
人であふれるビーチの写真を撮って、ふたたび車に乗り込み、海沿いを車で走る。樹によると、シーカヤック体験は海水浴場になっていない場所で行われているという。
先方が提携しているゲストハウスの一室を借りて、私物であるハーフパンツ型の水着を穿き、レンタルのラッシュガードを羽織った。もともとアウトドアには興味がないので借りられるのは助かる。水着は昨日買ったのだが、この先使うことがあるかは不明だ。
外に出ると、強い日差しに目が眩んだ。だんだん光に馴染んでくると、人のいない白い砂浜と碧い海は朝の森のような静謐さを湛え、規則正しい波音だけが耳を満たしていく。
「似合ってんじゃん」
「あんまり写りたくないんですが。ビーチにいる人を見ても、俺自身、女の子のほうが華やかでいいなって思うし」
「イケメンの需要もあるよ」
「どの層が喜ぶんですか」
樹はスニーカーがビーチサンダルになった以外は同じ格好だ。本当に水に触れる気はないんだなと思った、
「沖ではモーターボート出してくれるってさ。だから俺は全然平気」
海都は不安しかない。
インストラクターは小麦色の肌をした三十歳前後の男性だった。海都は、女性じゃないかと少し期待していたが、もしものときは助けてもらわなくちゃいけないし、と思い直した。
「海都、お姉さんに教えてもらいたかったんでしょ」
「そんなこと思ってないです」
「そりゃ、女性のほうがええに決まってますやん。すんません、オッサンで。今日はよろしく。森澤さん、村上さん」
インストラクターは笑って手を差し出してきた。海都は少し緊張を解いて、その手を握り返す。
樹が乗るモーターボートが来る前に、シーカヤックが出艇する場面だけ撮ることになった。渡されたキャップをかぶり、ライフジャケットを身に着ける。
「じゃあ村上さん、行きましょか」
「あの、転覆したら? 溺れたりしませんか」
「
「本当に大丈夫ですか。俺、わりと筋肉あって見た目より重いですけど」
そのとき、海都とライフセーバーのやり取りを黙って聞いていた樹がぽつりと言った。
「もしかして海都……泳げなかったりする?」
「………………それと海が嫌いなのは関係ないですからね」
海都の返事に、インストラクターは盛大に笑い、
「大丈夫大丈夫。泳がれへん人もぎょうさん楽しんでるから。ちゃんと装備してたら簡単に溺れるもんじゃないです」
真剣にやればですけど、と真顔で締めくくる。海都は腹を括った。
「いいねいいね。カナヅチ目線の記事のほうが面白そうだし。ナイスなリアクション、期待してるよー」
このやろう、と心の中で毒づく海都。
安定性が高いのは二人用のカヤックだと説明を受けたが、一人用の写真も撮りたいと樹が言ったので、一人用に乗ることになった。
浅瀬に浮かべたカヤックに、こわごわと片足を入れる。踏みしめた船底は硬いのに、ゆらゆら揺れて心もとない。体をすべて預けると、波間に漂う木の葉、という言葉の意味を否応なく理解する。
「海都、めっちゃびびってる」
「樹さん、乗ってから言ってくださいよ」
大人の腰くらいの水深でこんな調子なんだから、沖まで行けるんだろうかと不安になる。
おそるおそるパドルを動かす。右側を浸けて引き、左側を浸けて引き、その繰り返し。しかし、進むどころかその場で回るだけだった。
ボートのように左右一本ずつ、二本の櫂を使うイメージだったが、カヤックのパドルは一本だ。多いから上手くいくわけではないだろうが、それでも手の中の細いパドルだけで大きな流れに乗るなんて、とても難しく思えた。
大きな手で体全体を掬われ続けているような感覚もつらい。ボートか何かに乗った経験があれば違うのだろうか。海都は、学生時代に付き合っていた女の子が万博記念公園でスワンボートに乗りたいと言い出したとき、断固として拒否したことを悔やんだ。
「へっぴり腰。そんなんじゃ絵になんないじゃん」
安全圏でカメラを覗く樹が不満げに言う。いつの間にか三脚まで用意していた。
「ふわふわして酔いそうなんです! 陸地から野次を飛ばさないでください!」
「あ」
「え」
バランスを崩して転覆してしまった。体が、顔が、水に沈んでいく。足はつく深さだし、ライフジャケットも着ているから――と頭ではわかるが、恐怖心のほうが勝ってしまう。
怖い。泳げない海都にとって、途方もなく大きな海は恐怖でしかなかった。息がつまる。広い海に一人きり。不安定な足場。耳から、目から、鼻から、口から、塩水が入ってくる。
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