第10話

 地下鉄を降りてからは傘を差したけれど、小さな折りたたみ傘は意味をなさなかった。事務所が入るビルに辿りつき、雨から逃れると急に寒気に襲われた。重い体を引きずりながら四階まで上がり、一番奥の部屋のドアを開ける。


「おかえり……って、ずぶ濡れじゃん。顔色も悪いし。具合悪いんだったら、遠慮せず病院行きなよ」


 アームチェアの背もたれに背中を預け、大きく仰け反った樹は、海都を見て目を丸くした。


「ちょっと寒いだけです。体調が悪いとかじゃないです」


 その言葉に、樹はそれ以上突っ込むでもなく、


「着替えなよ。こんなときのために替えの服置いてるから」


 奥のキャビネットから、タオルと、タグが付いたままのユニクロの上下を出してくる。そして事務所の奥でごそごそしたかと思うと、マグカップを運んできた。海都はそれを受け取り自分の席に着いた。


 エスニック柄のマグカップ。樹の私物だ。海都は会社に湯呑みしか置いていない。手のひらで触ると、陶器越しに熱が伝わってくる。漂ってくるココアの香り。電子レンジで温めたミルクで混ぜたのだろう、まろやかな茶色をしていて、その上にはマシュマロが二つ浮かんでいる。


 カップを傾けると、ずぶ濡れだった体とは裏腹に、からからになっていた口腔をとろりとしたココアが満たす。凝り固まったものが少しずつ解されるように寒気は身を潜め、平温を取り戻した体に乾いた布が心地よく触れた。


 落ち着いてくると、よみがえったチーフの声は別の響きを伴って頭の中を跳ね回る。


「なんで『BLUE COMPASS』なんですか。日常が楽しくなる指針、っていう意味で羅針盤はわかるけど」


 気を紛らわせたくて、自分のデスクに戻っていた樹に、つい声をかけてしまった。樹はMacに向けていた顔をこちらに向けて、


「ああ。誌名は三人で考えたの。COMPASSは社長と雪江さんがつけて、BLUEは俺が」

「青春、的な?」

「頭にあったのは海かなー。俺の実家は静岡の海沿いで。だからって特別海が好きとかじゃないけど、あるのが当たり前、みたいな感じだったんだよね。この雑誌も、この街の人たちにとって、そんな存在になれたらって」


 海都が想像した以上に前向きな答えだった。海都が苦手な、樹の前向きさ。じゃあ、自分がネガティブなことを言ったら、この人はどういう反応をするんだろう? そんな思いが海都の口を滑らかにする。


「俺、前の会社で上司と上手くいかなくて。同僚とは普通にやってたと思うんですけど、上司とぶつかったあと、なんか距離置かれるようになって」

「俺も目上と上手くやれるタイプじゃないなぁ。って言っても、例外も結構あるんだけど。ちゃんと話を聞いてくれる人ならアリかなー」


 例外も結構あるんかい、と思いながら耳を傾ける。


「まぁでも一般的な組織には馴染みづらいね。専門学校せんもん出て、ずっとフリーでやってたの。デザイン関係ないバイトもしながら、いつか一本でやってけるといいなぁって」

「それで、社長と雪江さんに誘われたんですか」

「迷ったよ。だって友達を仕事仲間にして、仲悪くなったらイヤじゃん。俺よりデザイン上手いやつなんていっぱいいる。情で採用したなら、情がなくなったときどうするんだ、って。でも――一緒に仕事したいって言ってくれたのが嬉しかった。できる限り、やってみようと思った」


 海都は黙って聞いている。なんでそんなふうに思えるんだ、と思いながら。


「まぁ別に一緒に仕事しなくったって、状況が変われば疎遠になることもあるし、そんならいっちょやってみるか、って」

「何でそう思えるんですか」


 今度は口をついて出た。海都には友達と断言できる人がいないから、よくわからない。同窓会に行ったら世間話する相手くらいはいるだろうが、同窓会を主催するような人間と仲良くできたためしがないので、そもそも呼ばれない。


「きっかけはなんだっていいんだよ。雪江さんから聞いたんだけどさ。雪江さん、昔『あんたの名前がいいから契約した』ってお客さんに言われたんだって。苗字の響きがきれいなのと、名前が宮沢賢治と同じだからって」

「何ですか、それ」

「前職での話らしいんだけど、そのお客さんとは今でもゴルフ行ったりしてるんだって。だからさ。海都も縁あってここにいるんだし、引け目に思うことないんじゃない」


 海都の質問の意図とはずれた、というか、敢えてずらした答えに、いまいち釈然としない。ココアをもう一口飲み、ふたたび樹を見ると、もうMacに向き直っている。やっぱり苦手だ、この人――と、今までとは少し違う意味で思う。

窓の向こうで雨は小降りになっていた。窓ガラスからは、気の抜けた顔の海都が樹越しにこちらを見返している。

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