第9話
カフェを出ると土砂降りだった。駐車場まで三十メートルもないので、海都は折りたたみ傘を出すのを躊躇い、片腕で顔を覆って雨の中を走った。バックナンバーが数冊濡れるくらい、どうってことない。どうせ古紙回収に出すのだ。
歩道の石畳には凹凸があり、ところどころ水たまりができている。比較的高い場所を選んで足を下ろす。革靴はウォータープルーフだし、防水スプレーも使っているから、目に見えて傷んだりはしない。けれど、たぷたぷと浸水して、水を吸った靴下が肌に貼りついて体温を奪っていく。
物心ついたころから人と関係を結ぶのが苦手だった。少なくとも自分から悪意を持って他人に接したことはない。しかし海都の物言いは、相手の癇に障るらしい。
同性より異性と関係を築くほうが簡単だった。でも、深い仲になるとすぐに駄目になった。同じ物を食べて、同じ映画を観て、一緒に寝て。ただそれだけなのに、誰とも上手くいかなかった。
両親や弟とも顔を合わせればケンカになるので、大学進学に伴い大阪に来てから、ほとんど帰省していない。
新卒で入った会社でもそうだった。試用期間が終わり本採用になったころだ。海都はアルバイトの女子大生に、手が空いたら資料のデータを印刷してほしい、と頼んだ。急ぎではなかったので「印刷の設定がややこしいかもしれない。わからなかったら、しなくていい」という指示も添えて。それでいいですよね、とオフィスにいた富永たちに訊くと全員がいいと頷いた。
数時間後、海都が帰社するとチーフに呼び止められた。横にはアルバイトが俯いて立っている。
「村上くん。彼女はまだ研修期間なんだから、ややこしいことを押し付けないでください」
彼女はチーフのお気に入りだったのを海都は思い出す。チーフは続ける。
「バイトさんの業務がどこまでか、明日のミーティングでしっかり確認します」
そう言うとアルバイトのほうを向いて、
「あなたはよくやってくれてます。SNSでのPRなんか完璧。あそこまで完璧にできる人なんて他にいない。資料のことでわずらわせてしまってごめんなさい」
今思うと、そこで我慢すればよかったのだと思う。しかし、ちょうどそのころは遠方での営業が多く海都は疲れていた。
席に戻ろうとするチーフを追いかける。頭ごなしに海都だけが悪いと決めつけるチーフに、自分が無理に頼んだわけではないことを説明したかった。
「あの」
「明日のミーティングで聞くよ」
チーフは海都の話に耳を傾けようとしない。明日のミーティングで吊るし上げられるのは嫌だった。おそらく誰も海都をフォローしてくれないだろう。今だって、海都とチーフのやり取りを聞いているはずの同僚たちは何も言わないのだから。
「僕は必ずやってくれなんて指示してません。手が空いたらでいい、無理だったらしなくていい、と言いました。それに、わからなければ周りに訊くのも含めて業務じゃないんですか。僕の言い分も聞かずに、随分嫌味な言い方をされるんですね」
「僕の言い分も聞かずに? 嫌味な言い方? 意味がわかりません。感情的になるのはやめましょう」
「嫌味だと思いました。チーフは言葉の使い方に無自覚な方ではないからです」
一瞬無表情になったチーフは押し黙った。それ以来、チーフは海都の質問に直接答えることはなくなった。
車に戻り、ハンドルに突っ伏す。何もかもが終わってから謝られても意味がない。誰も助けてくれなかったという事実は変わらない。
「謝りたいのは自分がすっきりしたいからだろう」。「何ごともなかったように、あそこで過ごしてるくせに」。涌き出る想いは罵倒にすらならない。なぜならそれは社会人として当たり前のことだから。富永たちが悪い人間だったわけではない。職場の誰とも、世間話以上の関係を築いてこなかった海都が悪いのだ。でも、もし海都が富永の側だったら、一方的に責められている同僚をフォローしていたと思う。一生懸命やっていたつもりだったけれど、自分が助ける価値もない人間だった事実を突き付けられたのが辛かった。
今の会社に入れたのだって、それは海都という人間が評価されたわけじゃない。たまたま見栄えがよかっただけだ。中身を知られれば知られるほど失望させる。そして嫌われる。
海都は顔を上げた。フロントガラスに次々と刺さる冷たい針は、崩れ、流れ落ちていく。無機質なビルの樹海で一人で生きて、一人で死んでいくだけだ。だから放っておいてくれ。
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