第7話

 刷り上がった『BLUE COMPASS』夏号が事務所へ納品された日、例年より早い梅雨入りが発表された。息をするたび細かな水滴が肺を刺す。水底の樹海のような街を海都は駆け回る。アロマセラピーサロンを運営する会社のオフィスに飛び込み営業に行ったが、玄関先に誰も現れず、中からは「いりませーん」という声だけが飛んできた。昼食を食べる気にもならず、コンビニでウィダーinゼリーだけを買って帰社する。


 デスクのアームチェアに沈み込んでネクタイを緩めた。クールビズということでノーネクタイにすればいいのだが、海都は雪江に倣って、ずっとネクタイを締めている。


「おかえりー。保冷剤あるよ。熱中症対策、大事!」


 樹が、不織布の小さな袋に入った保冷剤を持ってくる。天野や雪江が持ってくる差し入れや取材先でもらった生菓子についていたものを樹はすべて冷凍庫に放り込んでいるのだ。


 受け取って首筋に当て、すぐ離し、次は頬を冷やす。冷却する場所を変えながら熱を冷ましていく。


「あー……茶碗蒸しってこんな気持ちなのかな……」

「えらいダレてるじゃん。お客さんの前ではシャキッとしてよね」

「してますよ……顔も合わせてもらえなかったから、どっちにしたって同じでしょうけど」

「それは違うよ。どこで偉い人とかち合うかわかんないじゃん」


 海都だって、そんなことはわかっている。いつもなら流せるのに、今日は胸のむかつきをどこにも逃がせなかった。ずっとエアコンの効いた事務所で、好きなことを仕事にしている樹に何がわかる?


「必死にやったって、俺にとっては大して意味がないんですよ。ここでどんなキャリアが積めるって言うんですか」


 転職するときに有利になるとは思えない。前職は上場企業のグループ会社に勤めていた海都にとって、ここはほんの腰掛けのつもりなのだから。そんなふうに前向きになられても鬱陶しいだけだ。

 言葉は堰を切ったように溢れ出す。海都はアームチェアにもたれたまま続けた。


「この会社は社長の趣味みたいなものなんでしょ。利益なんて、実はとんとんじゃないですか。維持できる程度に広告取ってくれば……」


 だぁん! という音が海都の鼓膜を震わせた。一瞬の静寂のあと、反射的に閉じてしまった目を恐る恐る開く。海都のデスクに左拳を打ち付けた樹が、海都の顔を見下ろしていた。


「海都さ。社長がどんな気持ちで『BLUE COMPASS』作ってるか知ってる?」


 いつもの樹とは比べものにならないくらい低く、ゆっくりした口調だった。大きな目は瞬きもせず、海都の視線を縫いつける。


「社長は昔、仕事中の事故で死にかけたんだよ」

「え……?」


 面接のとき、社長の顔に走る大きな傷跡を見て固まる海都に雪江は言ったのだった。「その筋の人やないから安心して。よぉ間違えられんねんけどな。こいつ、昔ドジってガラスで頭ざっくり切ってん」


 頭の整理が追いつかない海都に樹は話し続けた。


「そのとき勤めてた会社で取引先に行く途中、センターラインをはみ出してきた車と正面衝突したんだよ。俺はあっちゃんと飲み友達だったからお見舞い行ったりしてたけど、本当にひどいケガで、生きてるのが不思議なくらいだった。体が回復してきても、気持ちのほうは塞がったままで」


 海都は、樹が天野を「社長」ではなく「あっちゃん」と呼ぶのを初めて聞いた。


「いっぱいカウンセリング受けて、必死にリハビリして、自分で事業起こして。『BLUE COMPASS』はね、そんなあっちゃんが多くの人たちに、かけがえのない日常を大切にしてほしいって想いで作った雑誌なんだよ」


 そこで言葉を切り、樹は眉根を寄せて唇を噛みしめた。海都はそんな樹を見るのは初めてだった。


「海都。適当にやればいいって思ってるなら早く転職したほうがいいよ。もっとも、目の前のことに必死になれないようなやつは、どこ行ったって同じだと思うけど」


 言い終わると、海都に背を向け、自分のデスクに戻って作業を再開する。その横顔にはもう、切実さは滲んでいなかった。

 海都は両手を握り締める。小さな保冷剤はすっかり溶けて、生温くぶよぶよの感触を掌に伝えてくるだけだった。

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