第3話

「弊社、『BLUE COMPASS』というフリーマガジンを発行しておりまして。私どもの雑誌に、御社が経営されているカフェの記事を掲載してみませんか」


 本日、五件目の飛び込み営業。中規模のオフィスビルに入居する会社の入り口で、名刺と雑誌を差し出しつつ海都は説明する。

 対峙する中年の男は面倒そうに頭を掻いて、


「“日常がちょっと楽しくなる指針”『BLUE COMPASS』ねぇ……。見たことないわぁ。どこに置いてはりますの」

「書店のほか、広告を掲載していただいているカフェやライブハウス、専門学校や大学などにも……」


 パーテーションの向こうから「……さーん」という声がして、男は首を捻り「はいはい」と応えると、バイバイするように手を振って、こちらも見ないまま奥へと消えていく。海都は名刺と雑誌を持ったまま、玄関に取り残された。


 何社かに資料を渡しただけで大した成果も得られないまま、澱のような疲労をまとって北浜きたはままで帰りつく。桜の蕾がほころびはじめたばかりの季節だが、歩くとうっすらと汗ばんで、カッターシャツの下に着たTシャツが汗を吸い、どうにも心地が悪い。


 両側に背の高いビルが建ち並ぶ土佐堀通とさぼりどおりを一歩中に入った場所にある、重厚な石造りの建物を見上げる。くすんだ白色をした煉瓦の外壁。入口の左右に立つ石柱には精巧な模様が刻まれている。大正時代に建てられたというレトロビルから目を逸らし、海都はため息をついた。


 アーチ型の窓から伸びる陽光に足もとを照らされながら、木張りの階段を四階まで上ると、より色の濃い木が敷き詰められた廊下に出る。左右に木のドアが規則的に並び、ドアの上部に嵌めこまれた磨りガラスにはナントカ興信所、だの、占い教室、だの、海都が普通に生活しているぶんにはお目にかかることもないであろう空間の名前が、白や金の文字で記されている。


 このビルに週五日出勤するようになって半年。出たり入ったりしながらも数時間は滞在しているのだが、不思議なことに他のテナントの客を見た覚えがない。

 今上がってきた階段からもっとも遠い、一番奥の部屋のドアを開けると、昔の探偵ドラマに出てきそうな部屋が現れる。ただし、本棚の中身は洋書じゃなくて雑誌メインだし、なんならCDやDVDも並んでいるし、デスクや社長机の上には大きなパソコンが置いてあるのだけど。


「ただいま帰りました」

「おかえりー。社長が桜餅買ってきてくれたよー。やっぱり大阪では道明寺なんだねぇ。海都のぶん、机に置いてるから食べなよ」


 事務所に響く、高めの声に海都の疲労ゲージはますます赤くなる。声の主である樹は、デスクに置かれたMacの前で、小皿の桜餅をフォークで口へ運んでいる。

 海都は返事をせずに、手前のデスクに座りビジネスバッグを足もとに置いた。Windowsのノートパソコンのそばに、ラップをした小皿がある。


「箸かフォークいるー?」


 湯呑みを持ってきた樹に頭を下げ、


「樹さん。ずっと思ってたんですけど、入口に仕切り置かないんですか。空けた瞬間に全体が見えるってよくないですよ」

「んー。雪江さんもそう言ったんだけど。社長がね、こっちのが、お客さんとかがドア開けた瞬間、おおっ! てなるって。確かにそうだよねー」


 言いながら、小皿の横に湯呑みを置く。その横顔を見て海都は、わかんねぇよな、と思う。

 樹が自分より三つ年上だと聞いたとき、海都は驚いた。今も二十六歳には見えない。でも時折覗く、見透かしたような目を知ると、もっと年上だと言われても納得してしまいそうだ。


「ん、何なに」


 海都の視線を感じてか、樹は顔を向けた。その表情には何の毒気もない。海都は気まずくなって目を逸らし、適当なことを言う。


「どこで買うんですか、そんな服」


 今日の樹は、緑とオレンジが綾なす縦縞の民俗模様のプルオーバーと、黒いサルエルパンツを履いていた。胸元には石を加工したペンダントがつやつやと光っている。


「んー、これはアメリカ村。古着屋さんとかもいっぱいあっていいよね」


 高校生か、という言葉を飲み込んだ海都は、パソコンを立ち上げるとデスクトップのフォルダを開いた。その中に並ぶテキストファイルのタイトルは『夏号巻頭特集』、『夏号カフェ』、『夏号ファッション』、『夏号イベント』、『夏号インタビュー』……次号に掲載される記事。一応、こちらが海都のメインの仕事だ。


 『夏号カフェ』をクリックして開くと、先週取材したカフェについての文章が出てくる。店の紹介と店主へのインタビュー。海都の手元を覗き込んだ樹は小さく頷きながら


「そこのオーナー、よく取材オーケーしてくれたね。何年か前、テレビの取材受けた時の取り上げられ方が納得いかなかったって、それから全然メディアに出なかったのに」

「ブリキの人形とか人生ゲームとか、昔のおもちゃをいっぱい飾ってるカフェなんですけど、テレビの時は、珍品いっぱいの色物カフェって茶化すような扱いだったから嫌だったみたいで」


 テレビの取材を受けたときは懐かしい雰囲気がするお店の特集だと聞いていたのに、と店主が憤っていたのを、海都は思い出しながら続ける。


「うちの雑誌のバックナンバーを持参したんですけど知らないって言われて、でもあまり知名度がないのが逆にいいんですって。それから――雪江さんの記事」


 海都は、バックナンバーのページを繰り、老舗の店を特集した記事を開いた。昔ながらの文具店、酒造、和菓子屋……。取材の返事を渋るカフェの店主も、海都と同じようにこのページで手を止めたのだ。


「その記事、いいよねぇ。雪江さんは、あらかじめこっちが考えたストーリーじゃなくて、相手の想いを汲んだ記事を書くから。特別文章が巧いとか、切り口が斬新とかじゃないんだけど、書いてる私は本当にそう思ってます、っていうのが伝わってくる」


 樹の言葉に海都は頷く。海都も、雪江の手掛ける記事は文章からも写真からも人柄が伝わってくると思っている。実際、雪江と顔を合わせて言葉を交わすと同じ印象を受ける。


「雪江さんは、どんな人にもすんなり受け入れられそうですよね。営業は俺より、雪江さんと樹さんのほうが向いてるんじゃないですか」


 樹さんはずけずけ入っていけるし、という言葉を海都は飲み込んだ。


「だめだよ、四人しかいない会社なんだから。俺も営業電話くらいはしてるけど、外出るとなったら誰が誌面作んのさ」


 もちろん言ってみただけだ。海都も少しはデザインのソフトを触らせてもらっているけれど、結局樹がいないと誌面はかたちにならない。しかし、海都にも言い分はある。


「俺が応募したここの求人には、営業をお任せすることもあります、って、営業はおまけみたいな書き方してたんですけど」

「営業をお任せすることもあります(営業がメインじゃないとは言ってない)」

「かっこ閉じまで発音しないでください」

「あれね、俺が直したの。社長と雪江さんはバカ正直に『営業活動を主とし、取材と記事の執筆などもお任せします』って書いてたんだけど、それじゃ誰も来ないよ、って」

「諸悪の根源はあんたか」


 まんまと引っかかってしまった自分が悔しい。樹は楽しそうに続ける。


「結構応募あったんだよ。最近、みんなSNSとかやってるじゃん? そこそこ書けます、って人はたくさんいて」

「…………」


 SNSやメールがある以上、文章を磨く機会は誰にでもあり、ある程度なら誰でも書けるけれど、独特のセンスは持って生まれたものだと海都は思う。求人を見たとき、それが海都の琴線に触れたのは、以前、小遣い稼ぎでやっていたアフィリエイトブログがそれなりに上手くいったからだ。だけど甘かった。何本か記事を書くうちに、お粗末な自信は打ち砕かれてしまった。上手くいかないのは営業だけではないのだ。


「書ける人がいっぱいいたなら何で俺を選んだんですか」

「顔」

「は?」

「いや、冗談じゃなくて。うち、一応オシャレ系でしょ。営業も任せるつもりだったから、雑誌のイメージに合ってるほうがいいんだよ。それに、たまに写真に写ったりもするじゃん」


 店を写すときは、できれば客も本物のほうがいいのだが、必ずしも撮影許可をもらえるとは限らない。そんなときは海都や雪江が客役になるのだ。


「いや、それなら女性のほうがいいでしょ。カフェや雑貨屋、服屋なら尚更」

「俺もそう言ったんだけどね。社長がさ、海都ほどきれいな人間はなかなかいないって」

「…………」


 海都は雪江の整った顔を思い浮かべる。海都だって、どうせ営業に来られるなら、物腰の柔らかい美人がいい。


「でも海都のキャラは営業向きじゃないね、今んとこ」

「そんなの、ちょっと話したらわかるでしょう……」


 前も営業職だったが、結局、客とも上司とも上手くいかず半年で去ることになってしまった。

 まとわりつく疲れを振り払うように、小皿のラップを剥がし、桜餅を手づかみで口に運んだ。甘く口当たりのいい餡が、粘っこい餅と、塩の効いた桜の葉に包まれている。甘いものはとくに好きではないが、悪くないと思った。

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