第2話

 海都は目の前のレトロビルを見上げ、手にした雑誌に目を落とした。表紙には、青い海の底に広がるビル街。ゆっくり深呼吸し、決して分厚くはない雑誌をビジネスバッグに仕舞うと一歩を踏み出した。


 四階の突き当りの部屋のドアをノックする。「はーい」という、男にしては高めの声とともに姿を現したのは小柄な青年だった。海都の鼻くらいの高さに頭の天辺がある。ぱっちりした目は吸い込まれそうに大きく、古着を模して加工された青いカットソーの半袖から伸びる腕は白く細い。アルバイトの学生だろうか、と当たりをつけた海都は、


「十四時から面接をお願いしている村上です」


 と頭を下げた。職場に辞意を伝えたのは三日前。次が決まってからのほうがいいのかもしれないが、ずるずるとあの場所にいるのはごめんだった。


「はーい。じゃあお入りください」


 中に入ると、探偵事務所かな? と場違いな感想が出てくる。臙脂色の絨毯の上に、黒いレザーのソファーとローテーブル。向かって右側の壁には天井まで届く大きな本棚。左側には、壁に向かって木製のデスクが三つ。正面には窓をバックに、教卓のように置かれた社長机。そういえば、同じフロアにナントカ興信所、と磨りガラスに金文字で書かれたテナントがあったけれど、そこもこんな感じなのだろうか、と海都は想像した。


 しかしよく見ると、社長机にはノートパソコン、木製のデスクにはデスクトップパソコンが置かれており、タイムスリップした未来人が来たかのような印象を受ける。


「社長の天野あまのは今、電話にかかっておりまして。少々お待ちください」


 淀みなく言う青年に頭を下げる。顔を上げると、柱時計が目に入った。ちょうど十分前。少し待つこと前提で来たので問題はない。青年は笑んで、


「デザインと事務を担当している森澤樹もりさわいつきです。社長の天野とプランナーの雪江ゆきえと三人でこの会社を回してます。私は、目立つところだと表紙のデザインとか――」


 とんでもないことを宣った。


「三人?」

「三人」


 復唱した海都に、さらに復唱する樹。迂闊にも程があるのだが、人は往々にして信じられない確認ミスを犯す。

 四日前に『BLUE COMPASS』の最後のページ、編集後記やクレジットが書かれた下に、


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 という、ささやかな求人を見た海都は、さっそく雑誌を発行している株式会社BCインフォメーションなる会社のホームページを検索した。検索結果の一番上をタップすると、スマートフォンの画面に青いあぶくのようなものが現れて、次に波のアニメーションが流れる。表紙と同じ、深く、ところによっては軽やかな青だ。それを見た瞬間、胸につっかえていた昼食がやっときれいに体に収まった気がした。


 それだけで、設立日とか資本金とか従業員数とか、ろくに確認もせず次の日に面接を頼んだのだった。


「驚きました?」

「えっ、いいえ」


 半年弱とはいえ営業に携わってきたので顔には出なかったと思う。案の定、樹は海都が思っているのとは違うことを話し出した。


「そう? よくドラマの探偵事務所みたいですねって言われるんですが――社長の天野がまさにそれをイメージしてレイアウトしてるんです。出勤するとテンションが上がったほうがええやろ、って」


 事務所の話か、と内心で胸を撫で下ろす。今の職場は普通のオフィスだから面白いといえば面白い――か?


 はっと気づくと、樹がじっと海都の目を覗き込んでいた。


「だから、テンション上げていってね。三人だけの小さい会社だけどナメてたら痛い目みるよ?」


 見透かされていたのと、その口調とに海都はひやりとした。あ、この人苦手だ。そう思った。

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