BLUE COMPASS

新井 伊津

第1話

 ビルが乱立する街は巨大な森みたいだと海都かいとは思う。方位磁針が役に立たない樹海。もちろん本当の樹海では、方位磁針が狂ったりしないことくらい知っている。でもこの無機質な森では、自分の中の磁針はでたらめな方角しか指さない。


「チーフ、ここも変更したほうがいいですか?」


 海都の質問に、隣の席のチーフは答えず、向かいに腰掛ける別の社員に話しかける。


「あー、富永とみながくん。全部変えちゃってください。しょーもない変更ですみません」


 海都の苗字は村上むらかみだ。チーフの不興を買って以来、仕事に必要な質問をしても海都には答えてくれないのだが、他の人への会話というかたちをとって伝えてくる。一応、仕事に支障はない。ないのだが。


「ふっざけんなよ!」


 顧客とのアポイントメントを終えた昼休憩。カラオケ店に持ち込んだサンドイッチとコーヒーを昼食にしながら大声で毒づく。仕事休憩でカラオケ店に入ったのは初めてだが、どれだけ叫んでもすっきりしない。

 感情的になるなだの何だの、偉そうに人に説教したくせに、自分のやっていることは感情的でないとでも言うのか――という言葉は口に出さず、食パンとレタスを一緒にかっこむ。よく噛んだつもりなのに胸につっかえている気がする。


 流し込むために飲んだコーヒーも余計に胸を重苦しくしただけだった。

 あからさまな態度を取るチーフも、チーフがいないところでこっそりとフォローしてくる同期も、何もかもが疎ましい。


 会社に帰りたくないがそうもいかないので、両頬を叩いて気合いを入れる。一曲も歌っていない。カッターシャツとスラックスに煙草の残り香が移るのもどうでもよかった。隣から聴こえてくる陽気なラップ曲に海都は小さく舌打ちした。


 自動精算機には、平日だというのに若者のグループが数組並んでいる。夏休み中の大学生だろうか。赤い髪の女の子が「一回生ははした切り捨て、それ以上は多めに払ってなー」などと割り勘の算段をしている。去年までは海都も同じ身分だったのが嘘みたいだ。もっとも、大勢でワイワイやるようなコミュニティには属していなかったのだが。


「あー……馬鹿ばっか」


 誰にも聞こえないように呟く。一向に進まない列にいらいらしていると、自動ドアのそばのラックが目についた。無料の求人情報誌のようだ。列の状況を見て、しばらく動かないだろうと判断してラックを目指した。求人情報誌を何冊か手に取る。クーポンマガジンはスルーし、一番下の段に行きつくと、見慣れない雑誌があった。厚みはクーポンマガジンと同じくらいだが、しっかりした紙で、より「本」らしかった。


 表紙には、海の底だろうか、青い水底のような場所に建ち並ぶビル群がCGで描かれている。生き物のいない、静かで密やかな海底都市。そんなイラストがこの場所にあるのがひどく不釣り合いに思えた。


 白抜きでいくつか文字が書かれている。左上には大きめに『BLUE COMPASS 夏号』、右下には小さめに「特集 大阪リラクゼーション/夏色カフェ/水都ファッションリレー」。どれも表紙イラストに似合わない言葉だが、この海底都市なら何でも受け入れてくれそうな気がした。


 仕事を終え、南森町みなみもりまちのワンルームマンションに帰りつく。進学で大阪に来てから一人暮らししてきた部屋だ。大学からは遠かったが、田舎育ちの海都は不便さを感じない街に住みたかった。治安の良さも勘案して場所を決めたのだ。親との折り合いはよくないが、弟はすでに地元で就職していたし、いずれ実家に仕送りするという条件で許してもらえた。家は弟が継ぐだろうから帰るつもりはない。


 シャワーを浴び、Tシャツとスウェットパンツ姿でベッドに寝転び求人情報誌を開く。捲れど捲れど何も頭に入らない。ため息をつき、『BLUE COMPASS』を開いた。なんとなく持って帰ってしまったのだ。目を通していくと、若者向けのタウン情報誌だった。ありがちな内容だと思ったが紹介されている店へのインタビューなどが丁寧で興味深くじっくり読んでしまった。一番最後のページへ辿り着く。そして、末尾の三行を何回も読み返す。

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