2.号外新聞

 食堂は喧騒に包まれていた。

 あちこちで乾杯の声が上がり、昼間だというのに酒の匂いが充満している。陽気な客たちは、見知らぬ者同士でも、グラスを傾け乾杯をして、「アルカナ王国ばんざい!」と歓声をあげた。

 一か月ほど前からずっとこの調子である。この食堂だけではなくて、どの町の、どの店に行っても同じ様な光景が見られるだろう。王国は――世界中が、歓喜に包まれていた。

 サトウは店の一番奥の、一人用のテーブルで珈琲を片手に号外新聞を広げていた。

 すぐ隣の席でも酒盛りが行われていて、一人きりのサトウは店内で浮いている。ちらちらと視線を向けられていたが、無視をした。

 号外新聞の一面には「勇者、いよいよ帰還」の見出しが躍っていた。比喩ではなく、言葉の通り文字がキラキラ光りながら、視線を向けるたびにくるくる回って踊っているのである。魔法のかかった新聞はこの世界では“当たり前”で、サトウもすっかり見慣れてしまった。ただ、視線を向けるたびに嫌というほど主張するので、少しうざったくもある。見出しを撫でて魔法を上書きしてやれば、くるくる踊る文字は居心地悪そうに動きを止めた。

 魔法がかかっているのは見出し文字だけではなく、紙面全体に大きく描かれた若い男の絵も、繰り返し同じ場面を映している。王都オムランの王城門前、馬上の勇者がゆっくりと進行しながら国民に向けてにこやかに手を振る場面。祝いの花びらが紙吹雪と共に舞う中、勇者の髪に花びらの一片が落ちてくるところまで詳細に描いている。熟読しすぎて見飽きた場面の絵だが、もう少し切り取る場面はなかったのかと首を傾げてしまう。せっかく動くのだから、もっと派手な絵の方が良いと思ったのだ。最も、勇者関連の記事ならば、絵がなくとも人々は手に取るし、歓声を上げて祝杯をあげるのだけれど。

 熟読しすぎて暗記できてしまいそうな、この記事をもう一度読み直していく。何度読んでもまだ読み取っていない情報が残っているような気がして、ありていに言えば緊張していた。見飽きた勇者の絵は何度見ても懐かしさを感じるし、いっそ動きを止めてしまおうと思うのに、見出し文字のように魔法の上書きをする気にはなれない。気持ちを落ち着かせるのに、繰り返し文字を読む、というのはちょうど良い作業だった。

――勇者ヒイロは、一か月間の祝勝パレードを終え、春の月十四日、王都オムロンに帰還した。王都オムロンでは、出発日同様勇者を讃える国民が街道を埋め、再びお祭りムードである。十四日当日は、王宮魔術師らが祝いの魔法を空に打ち上げ、王城上空に大輪の魔法火花が現れた……

 文字を読み進めるたび、その時の王都の様子に思いを馳せる。生憎とサトウは王都を訪れた事がなかったが、これから向かう地であった。あと少し、あと少しと思えば新聞を握る手に力が入り、皺を生む。紙面上の勇者ヒイロは、新聞の皺に気にした様子も見せずに穏やかな笑みを浮かべたままだ。

 勇者は、ひと月と少し前に魔王を討伐し終えたばかりだった。

 魔王が討伐されるまで、世界は魔王によって平和を脅かされていた。魔物が急増し、魔王が率いる悪魔たちが人々を攫っては食い殺していく。闇に飲まれつつあった世界を救うため、アルカナ国王が行ったことは、伝承に伝わる“勇者召喚の儀式”だった。

 この世界には、欠けることのない月が昼夜問わず北の空に浮かんでいる。

 月には“神の一族”と呼ばれる高位種族が住んでいて、彼らはこの世界の人々よりも強力な力を持ち、闇を祓う力があると信じられてきた。“勇者召喚の儀式”はその月の世界の住人を一人こちらへ召喚し、魔王を討伐してもらうための儀式だった。

 召喚された勇者ヒイロは、期待通り闇を祓う力を持って、魔王を倒した。長く暗い時代を過ごした人々にとっては、待ちわびた平和な時代の到来である。

 この一か月間は、勇者ヒイロのパーティが旅の道中訪れた町を巡る祝勝パレードを行っており、それがつい昨日、王都オムロンへの帰還によって終了したのだった。

(ヒイロ……)

 祝勝パレードが終わってしまえば、勇者の役目はすべて完了したことになる。

 元々月の世界――安直だが月世界と呼ぶらしい――の住人である勇者を、いつまでもこの世界に留めておくことはできない。勇者が残りたいと望むならば別の話だが、勇者ヒイロは元の世界への帰還を希望した。世界中が、魔王討伐の喜びと共に、勇者が帰還してしまうことへの悲しみを感じていたが、“帰還の儀式”が執り行われることが決まったのだ。

 号外新聞は、祝勝パレードの最後の様子を伝えると共に、その“帰還の儀式”の情報を知らせていた。

 儀式は一般公開されるものではなく、特別な条件を満たしたものしか立ち会うことが出来ない。日取りや儀式の場所など、詳細な情報が掲載されたところで意味はないのだが、一種の「勇者ブーム」が巻き起こっている世情を見れば、少しでも多く勇者の情報を掲載して、読者を増やそうという新聞社の意図が見えた。サトウとしてはありがたいことである。

(帰還の儀式は一か月後)

 パレードの終了から期間が開くのは、儀式に必要な準備に時間がかかるかららしい。サトウはその間に、儀式を行う王都オムロンへ向かうことを決めていた。

(デミグラからオムロンまでは馬車で一週間。準備を入れても余裕がある)

 少しはパレードの余韻も味わえるかもしれない、と思えば一瞬気分が浮上して、すぐにそれは沈下した。実際に陽気な空気を感じたら、きっと卑屈な気持ちになるだろうと想像できた。

(もう少し……)

 落ち着くために息を吐く。置きっぱなしの珈琲に口をつければ、すっかり冷めた味がした。



 九一色(いちじくひいろ)という男を、サトウはよく知っているようで、あまり知らない。

 幼少期からの付き合いだ。腐れ縁と言えばいいのか、サトウの何が気に入ったのかは知らないが、一色はいつも自分の隣にサトウを置いた。

 その日もサトウは一色と共にいた。高校からの下校途中。委員会の仕事を終え、帰ろうと校舎を出たところで一色に捕まり、なんとなくの流れで一緒に下校をしていた。

 特に約束をしているわけでもないのに、どこからともなく一色がやって来て、いつの間にか一緒に下校していることは、間々あることだった。小学生の頃からこのような関係性で、いい加減鬱陶しく感じていたが、サトウはいつも成り行きに流されている。その日も同じだった。

 最寄り駅まで帰り着いて、駅から自宅までの道のりをのんびりと歩いていた時。

 住宅と住宅の間から、ひょいと何か素早く黒い物体が飛び出してきて、思わず二人で足を止めた。春の日、漸く日没時間が遅くなり始め、空は燃えたようなオレンジ色に包まれていた。

 黒い物体は黒猫だった。二人分の視線に見つめられ、飛び出してきた割にぺたりと座りこちらの様子を窺っている。一色が「猫だ」と呟いて、サトウは無感動に「猫だな」と同意した。

 可愛いな、こっちおいで。一色が鞄を抱えてしゃがみ込み、そろりと手を伸ばしたのをぼんやりと眺めた、その瞬間の事だった。

 一色を中心に、ぶわりと下から刺すような光が溢れ出た。うわ、と一色が鋭い悲鳴を上げて、サトウは咄嗟に目を瞑り頭を抱えた。目を開けていられないし、立ってもいられない。何が起こったのか――混乱するよりも早く、強い光から守るように片腕で頭を抱え、もう一方の手で何とか一色の行方を探った。

「一色?」

 と。真っ白に埋まる視界で声をかける。弱弱しい返事が聞こえた気がして、声の方に手を動かした。光の強さはどんどんと増していく。ぐらぐらと強い眩暈と吐き気に襲われ、急な恐怖に足が竦んだ。これは現実なのか、どうか。しゃがみ込んでもいられずに地面に尻をつく。思うように動かぬ体で、それでも恐怖から逃れようと、後ずさりかけたところでそれは叶わなかった。

 硬く、頑丈な何かが体に絡みついている。一色の声はもう聞こえない。

(あ――)

 なんだこれは、と、自分を拘束する“何か”を視認することもなく。

 ぐ、と“何か”に体が引っ張られる。引っ張る力に合わせて、ずぶり、とスニーカーが地面に沈んだ。それで、思わず足元を見ようとして――ぐるりと視界が反転する。全身がどこかに沈みこんでゆく。

 それが、“勇者召喚の儀式”だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る