人類には早すぎたのだ
「失礼するよ」
「あ、はい」
バイノーラルマイクを使ったASMRの実験とも呼べる出来事のちょっと後のことである。
突如消え去ってしまったイスラのことは気がかりだが、カナタにはどうすることも出来なかったのでそれっきりだった。
配信機材、並びにマイクをしっかりと整える形で片づけて後はもう寝るだけだった彼の元にまた一人美しい女性が音もなく現れたのだ。
「……あなたは?」
イスラの白い肌とは違う褐色肌のその女性はとても美しかった。
まるでイスラと同じ神聖な雰囲気を漂わせる女性、カナタはもちろん驚いているが大人しく女性の言葉を待つことにした。
「突然で驚いているようだが無理もない。簡単に説明すると、先ほどここに居たイスラの同僚みたいなものだ」
「……つまり女神様ってことです?」
「その通りだ。あぁ固くならないで良い、いつもの君で良いぞ?」
それならとカナタはいつもの調子で接することを決めた。
「もう眠る時間だったのだろう? そこまで時間を取らせるつもりはない、今君の身に起きていることについて説明するだけだ」
「……俺の身に起きていること?」
「あぁ……っと私のことはリーンと呼んでくれ。おそらくこれっきりだと思うから覚えてもらわなくても構わん」
「はぁ……」
リーンと彼女はそう名乗った。
とはいえそんな名前のことよりもカナタは自分の身に起きていることとは何なのかと首を傾げた。
特に何かをされたようなこともなければ、いつもと調子が違うということもないのでカナタは気になってしまった。
「君には今までイスラの魔法が掛かっていた」
「イスラの?」
「あぁ」
それから詳しくリーンは説明してくれた。
なんでもカナタにはイスラによる人々の認識を歪ませる魔法の力が働いていたらしく、王女であるマリアや聖女であるアルファナと二人でも居たとしてもそこまで大事にならなかったのはそこに理由があったとのことだ。
「あ、だから二人が俺の故郷に付いてきたのも簡単に許可が下りたのか……」
「その通りだ。本来ならその世界に生きる人々の意識に干渉するなど、その世界を管理する女神には許されない行為だが……まあ奴だからな」
「……イスラって結構そういう認識なのか?」
うむとリーンは深く頷いた。
すぐに消えるとは言ったがせっかくなのでカナタはリーンにお茶を出した。
「ありがとう」
起き上がったカナタの隣に腰を下ろすように、リーンもまたカナタのベッドに座るのだった。
「……美味しいな。これが下界のお茶か」
「美味しいよな。かなり気に入ってるんだ」
「そうか。この味もまたこの世界に生きる人々が生み出したもの……何とも素晴らしく尊いものだ」
「……おぉ」
リーンの言葉には人々に向けた慈愛が込められていた。
正にこれこそ女神の在るべき姿、そうカナタに思わせるほどにリーンの微笑みは美しかった。
コップに入ったお茶を全て飲み、改めて空気を整えたリーンは話し始めた。
「話を戻そう。この世界には君の存在を曖昧にさせる認識阻害の魔法が掛けられていたが、それは全て君を想ってのことだというのは分かってほしい。イスラは女神の中で特別力が強く、我も強く独占欲の塊……どうしてあのような女が女神となったのか心底疑問だが、それでも奴は君のことを大切にしている」
「……えっと、嬉しいのか呆れれば良いのかわからないんだが」
そうだろうとリーンは笑った。
「君がある程度周りから疑問に思われる行動を取ったとしても、イスラの魔法が周りの人間たちの意識に入り込むことで曖昧にさせていた。だが少しばかりイスラの身に問題が起きてその魔法が解けてしまっているのだ」
「もしかして俺、なんかやっちゃった?」
「やっちゃったな。思いっきりイスラを昇天させてしまったぞ」
「……………」
まさかその原因がASMRとは思いたくはないのだが……リーンは机の傍に整頓されているバイノーラルマイクに指を向けた。
「おそらくは原因はあれだ」
「……マジかよ」
「どんなものか説明してもらって良いか?」
イスラにしたのと同じ説明をカナタはリーンにもするのだった。
リーンとしてもASMRというものに対して知識がないのは当然なので、それがどんなものなのかは分かっていない様子だ。
「俺の元居た世界じゃ結構ありふれたコンテンツなんだけどな」
「なるほどな。取り敢えず原因はおそらくアレとして、ここからは少し君に注意をしたいと思う」
「……分かった」
なんとなく何を言われるかは分かっているが、リーンからの言葉をしっかりと聞くようにカナタは姿勢を正した。
リーンはそんなカナタの様子が可愛いとでも思ったのか、手を伸ばしてカナタの頭を撫でるのだった。
「なんで撫でるんだ?」
「可愛いと思ったからだ。さて、では説明しようか」
一つ、また一つと指を立ててリーンは言い聞かせるようにカナタに説明した。
「イスラが本調子を取り戻すまで数日は掛かる。その間この世界に掛けられていた魔法が機能しないため、考えなしに目立つ行動をすればすぐに君の正体まで嗅ぎ付けられてしまうだろう。たとえ君の信頼する子たちが尽力したとしても、そこには必ず限界があるからな」
「……あぁ」
「学院で話をするくらいなら大丈夫だろうが、王女と聖女のどちらかとプライベートで過ごしたり、或いは出掛けたりしたら気にする者は増えるだろう」
「……だよなぁ」
一応今までもそれについては良く何も言わなかったなと思ったくらいだ。
だがやはり相手はこの国において重要な立ち位置に居る女性たちなので、何も指摘されないことの方が異常だったわけだ。
まあ学院での見える範囲のやり取りはいつも通りなものだし、どこか外に出掛ける予定もないのでそこまで心配することもなさそうだが。
「あまり難しく考える必要はない。何なら好き勝手に動いて行くとこまで行っても悪くはないだろう。イスラが力を取り戻せばいくらでも記憶の改変は可能だからな」
「そこまで出来るのか」
「もちろん私も出来るのだが、私の力の及ぶ範囲は私が管理する世界だけだ」
「へぇ」
どうやら女神の力にも色々と制約があるようだ。
取り敢えず今回のリーンとの話を通して目立つ行動は極力控え、マリアやアルファナとの親しいやり取りを控えるということが一番良さそうだ。
(……なんか、寂しい気もするな)
今まで出来ていたやり取りに制限が掛かる、それを考えると少しばかりカナタの中で寂しさがあった。
その寂しさの理由には明確に気付いており、カナタもまたやはり彼女たちに惹かれているのだなと苦笑した。
「良い笑顔で笑うじゃないか。やはり男の子はそうやって無邪気と言わずとも笑顔の方が可愛いモノだ」
「そんなもんか?」
「そんなものだ。私は小さい男の子が大好きでな? 世間の荒波を知らない無垢な表情に私は弱いのだ」
「……ショタコン?」
「しょたこん? なんだそれは」
「……何でもない」
カナタは少しリーンと距離を取った。
どうやら彼女も割と業の深い趣味というか、性癖のようなものを持っているらしく凛々しいイメージが僅かだが崩れ去ってしまった。
「さっきも言ったがあまり深く考えなくていい。少しだけ気を付けるくらいでちょうどいいだろう。君の周りには頼りになる仲間が多いはず、そうではないか?」
「それは……確かにそうだな」
マリアやアルファナを含め、ハイシンのことに気付きながらもカナタを手助けしてくれる多くの人々の顔が脳裏に蘇った。
それを思うと割とどうとでもなる気にしてくれ、カナタをこれでもかと安心させてくれた。
「それではそろそろ私は帰るとしよう……あぁだが、一応私もASMRというものがどんなものか少し経験させてくれ」
「えっと……良いのか?」
「もちろんだ。一応私も君の配信は聴いていてな? イスラほどではないがいつも楽しみにしているのだ」
どうやらリーンもまた視聴者の一人らしかった。
そのことに対してありがたい気持ちにカナタはなったものの、女神たちの間で自分がどのような存在になっているのかは怖くて聞けなかった。
経験したいと言ったリーンの為にカナタはまたマイクの準備をした。
「行くぞ?」
「頼む」
その後、カナタが披露した内容はイスラに向けたのと同じものだ。
全てが終わった後、イスラほどではなかったがリーンも脳がクラクラするような感覚を抱いているらしく、ずっと腰をモジモジと動かしていた。
「……凄まじいな。まるで脳を犯されるような感覚だ……君のことを好きな者たちからしたらたまらないと思うぞこれは。正に麻薬のようなものだ」
「そんなにか?」
「うむ。敢えて言うなら……」
“人類には早すぎた娯楽だ”
そうリーンは言い残して姿を消した。
カナタは割と真面目にASMRの運用について考えることを決め、まずは明日から数日間は気を付けることをマリアやアルファナにも伝えることにした。
こうして、カナタを守っていた魔法は解かれてしまった。
どのように行動すれば良いかある程度気を付ける必要はあるものの、カナタはある一つのことを失念していた。
それはカナタが知り合った彼女たちのことだ。
王女、聖女、魔王、暗殺者、公爵令嬢、魔女、そして仮にカナタがハイシンだと分かった場合にしてもファンの中には早々たる面子が多く居る。
果たしてそんな者たちがハイシンであるカナタの身に何か危険を齎そうとする存在が近づいた時に黙っているだろうか?
……たぶん大丈夫じゃない?
大丈夫だよカナタ、安心して良いんじゃないかな!
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます