第2話 悪魔の問診

 しかし残念なことに、タイムカードはもう切っている。非常に残念なことに。


「成海、対応しろ」


 ほら来た――。


 時間外労働をさせるのもいとわない悪魔が。


「すみませんけど、オレこれから妹寝かしつけに帰るので」


 戸に手をかけて、ふと気がついた。すりガラス越しに見える制服の色やシルエットに、何となく覚えがある。


 途端に頭を過ったのは、まさか同級生ではないだろうか、という恐ろしい可能性だった。エセ進学校であるウチの高校では、バイトが原則禁止されている(許可を取ればできるが、申請はしていない)。


「や、山羊さん! マスクとかお面とか、何かないですか!?」


 カウンターに肘をついている悪魔に駆け寄ると、嫌味たらしくニヤニヤし始めた。


「残業するなら手当と変装道具を与えるが、どうする?」


 どうするも何も答えは一つしかない。


 差し出されたマスクと山羊のダテ眼鏡をひったくり、覚悟を決めた。


 どうぞ、と開いた戸の先には、マスクをしたセーラー服の子が立っていた。


「す……!」


 思わず声が出そうになり、慌ててマスク越しに口を塞いだ。


 常夜灯の下で待っていたのは、教室の左斜め前の席にいる鈴木凜だったのだ。


 高校に入学して早3か月。友達はあまり多い方ではなく、授業で積極的に手を上げるタイプでもない。それでも自分の趣味には全力投球の彼女に、勝手にシンパシーを感じていたところだ。


 でも、どうして鈴木さんは、こんな時間に薬種屋やくしゅやの呼び鈴を鳴らしたのだろう――。


 中へ入るよう促しても、鈴木さんは動かなかった。壁を埋め尽す薬棚や吊り下がるアンティークに目を奪われていたのだ。それに、カウンターの向こうで微笑んでいる悪魔にも。


「こんばんは、お客様。私はこの店の薬師、山羊と申します」


 山羊が他人と話しているところを初めて見る。


 こんな猫かぶりの話し方もできたのか、と謎の関心が湧いてきた。


「あ、あの、私、鈴木です。その、風邪をひいてしまったみたいで」


 鈴木さんはこんなにたどたどしい喋り方だっただろうか。


 落ちた消しゴムを拾ってもらった時や日直の時の短い会話を思い出している間にも、山羊は鈴木さんから情報を得ていた。


 今朝は何を食べたか、風邪の症状を自覚してからどれくらい経っているかなど、風邪薬を出すのに関係なさそうな質問ばかりだ。


 普通ドラッグストアでは、アレルギーや持病の有無を確認するものではないのか。


 それに問診中、山羊の視線が鈴木さんの目や腕をなぞっている。見られている本人は気づいていないみたいだが。


「うちでは患者さんそれぞれの体質に合った薬をお出ししています。お渡しする前に試飲をしていただいて、薬が合っているかの確認をしているんですよ」


 準備をしてきます、と山羊は奥の部屋に消えていった。


 そうか。ここは西洋薬を扱っていないのだ。


 あまりにも客が来ないせいで忘れていたが、研修時期に山羊が言っていたことを思い出した。ここはいわゆる、漢方をメインにした薬種屋だ。


「あの」


 病院で処方箋が出る時には、医者が病名を診断して薬の種類や量などを決めていたはずだ。しかし漢方は違う。病名で必要な薬を判断するのではなく、その人の今の状態や体質に合わせて薬を選ぶのだ――などと山羊が語っていた気がする。


「あ、あの!」


 耳を貫くほどの高音に、思わず肩をビクッと揺らしてしまった。

 もしやずっと話しかけてくれていたのだろうか。


「スタッフの方、ですよね? その、突然変なことを聞いてすみません。山羊さんって何歳か、知ってますか?」


 少なくとも300は超えています、などと正直に言えるはずもなく、見た目と比べて違和感ないであろう年齢を適当に答えておいた。


 これ、あんまり話すと声でバレるんじゃないか――?


「山羊さん遅いですね! ちょっとボク、様子見てきます」


 鈴木さんと話したのは何日ぶりだろう。


 奥に逃げながら考えていると、なにやら甘辛い匂いがしてきた。


 厨房にも似た小部屋では、白衣にゴーグル、手袋を装備した山羊が土瓶をかき回している。茶色い根や茎を火にかけているその姿は、悪魔というより魔女を彷彿とさせる光景だ。


 まさか注文したばかりの、食虫花や海獣のナンチャラとかではないだろうな――?


 そう口にする前に、鍋の似合う悪魔はこちらを振り返った。


「これは人界の中国という国で完成された医学書に基づいた、『古法』のレシピを忠実に守った薬だ。人間の患者に、魔界で出すようなオリジナルの薬を出す気はないからな」


 何を言っているのか8割は分からなかったが、ひとまず安心した。


 しかし人間用の風邪薬はわざわざ煎じなくとも、何種類かストックがあるはずだ。それに製薬会社から仕入れた顆粒タイプの在庫もある。そのことを指摘すると、悪魔は無駄に整った顔にしわを寄せた。特に眉間はひどいことになっている。


「風邪薬など出すはずないだろうが。あの女は風邪ではない」


「はぁ?」


 時々コホコホと咳をしているし、顔が赤い気がするし、何より本人が風邪だと主張しているのなら、それは風邪ではないのか。

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