悪魔系薬師の症例日誌 ~しがない人間助手がお送りします~
@tokotoko_sn
第1話 初めての客
時給1,300円という、地方にしては破格のバイトに飛びついてからひと月。
今のところ、この
まぁ、こちらとしてはありがたいことだ。最初の条件通り、客がいない間は課題をしていても良いのだから。
勉強に飽きたら、独特な匂いを漂わせる薬棚を観察しても良し。店内にひしめくレトロな家具を撮影して、SNSに上げても良し。それも飽きたら、読書がてらブラインド越しの人波を眺めていても文句は言われない。
カウンターに座って、誰も来ない店の番をしていればいいのだ。高校生のバイト先にしては、考え得る限り最高の環境に違いない。
ただ、ある一点を除いては。
「ええ、はい。絶叫の谷4丁目、廃ビル横の薬種屋です」
最高の労働環境を最低に変える唯一の問題。この店主だ。
骨董品かざりだと思っていた壁掛けの電話で、奇特な雇い主は今日もあちら側の誰かと話をしている。
「食虫花の根は袋で二重に密閉して、海獣の
最初はうっかりヤバい所に来てしまったかと頭を抱えたが、その認識は間違いではない。
この薬種屋の主人、
「
受話器を戻した山羊の、琥珀に光る瞳がこちらに向いた瞬間。
羊の骸骨が「カラカラ」鳴った。
店の玄関横に吊り提げている頭蓋が揺れ、しまいには耳を裂くようなベルを奏で始めたのだ。
こちらは耳を塞いでもまだ鼓膜が震えて気持ち悪いというのに、山羊は平気な顔で玄関まで歩いている。
「もう来たか。予定変更、今すぐ
待って、と手を伸ばす隙もなく、山羊は骸骨のぽっかり空いた目から垂れている紐を引っ張った。
まずい、アレが来る――!
これまでに何度も起こった悲劇が頭を過る。
今から掴まる場所を探しても、もう遅い。
瞬きひとつの間に、ぐるりと視界が回転する。店中の家具も課題のノートも山羊も、そして自分も。そっくり全部、天井に向かって真っ逆さまに落ちていった。
○○市在住の高校生、櫻井成海(16)。
死因、落下による衝撃で天井に頭を強打したこと。
「まぁ、若いのに可哀想」と全国のお茶の間から聞こえそうなニュース映像が脳内に流れてから、しばらく経った気がする。しかしいつになっても、天使は迎えに来ない。
「おい、早く荷物を受け取りに出ろ」
天井に仰向けのまま潰れた情けない姿を見下ろしてくるのは、天使ではなく
渦巻く角を生やし、琥珀色に囲まれた瞳孔は丸型ではなくマイナス型をしている。おまけに口元には、獲物を嘲笑うかのような笑みを浮かべていた。山羊の、
草食動物の悪魔なのに、歯が尖ってるんだよな――。
「山羊さん、
山羊は首をすくめると、人様のほっぺたを物凄い力でつねってきた。ヤギのクセに、ヒズメではなく人間と同じ5本指で。
「だから言ってやっただろう、スイッチすると。薬棚や調剤道具、お前の私物でさえ見事な着地を決めているというのに、ひっくり返っているのはお前だけだぞ」
それより早く戸を開けろ、と笑みを深める山羊に迫られ、仕方なく起き上がることにした。
決して圧力に屈したわけではない。助手バイトとして、店主の指示を聞くだけのことだ。
赤黒い空の下で待っていたのは、気の良さそうな双頭の鳥の悪魔だった。印鑑もサインも要求せず、箱一つと散らした羽を残して去っていく。
バフォメット(山羊の魔界での通り名らしい)宛ての荷物は、ダンベルが詰め込まれていそうな重量感だ。何が入っているのか尋ねると、山羊は呼び鈴代わりの頭蓋に手を伸ばしながらこちらを振り返った。
まさか、また事前申告なしにスイッチする気じゃないだろうな――。
「今からするぞ、スイッチ」
「ま」
今回は当たり所が悪かったようだ。
最後に「待て」と言いかけたところで、記憶が途切れている。
ハッと目が覚めると、小上がりに転がされていた。枕代わりになっている鞄から携帯を探り出すと、すでに退勤時間が5分後に迫っている。
人を気絶させた張本人は、特に悪びれた様子もなく、薬棚の管理チェックをしていたところだった。山羊頭から、すっかり人間の擬態に戻って。
言いたいことは山ほどある。あるのだが、いちいち突っ込んでいては、ここではやっていけない。いや、やっていかねばならないのだ。
「客も来ないし、オレいる意味あるのかなぁ」
「人界では開店してまだひと月半だ。あちらではちょうど300年経ったがな」
さすがの魔界耳だ。
バインダー片手に座敷の縁に腰かけた山羊は、決して逃さない、というようにこちらを覗き込んできた。
爽やか好青年の皮を被ってまでして、なぜこの悪魔は人界で薬種屋を始めたのだろうか。魔界での商売は軌道に乗っているように見えるのに。
「体の悩みがある者なら、人魔関係なく受け入れる。そのために私は薬師をしているんだ。分かったか? 脳容量1キロバイトの成海よ」
いや、分からない。山羊が人の心を読めることは分かったが、偏った人界知識による例えが分からない。
それにしても本当に、この悪魔に人の悩みを聞くことなどできるのだろうか。
悪魔はともかく、人間の気持ちが分かるのだろうか――。
また心を読まれたのか、山羊の長い腕が目にも止まらぬ速さで伸びてきた。
「いだだだだ! ほうひてひふも意地悪するんです? オレ、マゾじゃないんですけど」
ほっぺたをつねる手を引き剥がすと、山羊は指を空中に置いたまま止まっていた。
「まぞ? マゾ――」
人界を訪れて間もない山羊は、まだまだ俗語に弱い。こうして知らない単語を投げておけば、意外にも真面目な悪魔は辞書を引き始めるのだ。
山羊が辞書を取りに戻っている間に帰ろう――。
21時にもなれば、今頃の時期でも外は真っ暗だ。今夜は何を買って帰ろうか、と玄関の引き戸に手をかけたその時。
頭上の骸骨が「コロコロ」鳴った。
「えっ」
初めて聞く音だった。
いつものアレと違う音がしたということは、人界の客が来たということ。つまり戸を隔てた向こう側に、たった今誰かが立っているということだ。
この薬種屋でバイトを始めてからひと月。
山羊が待ち望んでいた、初めての客だ。
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