馬の全ては救えない
馬に触れていない人、趣味の乗馬の人、仕事で馬と関わっている人、皆それぞれに馬を愛していても、どこかズレがあり、噛み合わない。
それで、お互いに理解されずに反発し合ったり、疎外感を持ったり。馬の命を救おうと思っても、連携が取れずにうまくいかなかったり。
そんな例をたくさん見てきて、だいぶひねくれてしまいました。
私は乗馬愛好家です。
その立場からの考え方です。
とはいえ、乗馬をやっている人が、皆、同じ考えではないと思いますが、ズレを埋めるために本音を綴りたいと思います。いや、もしかしたら、大いなる反発の元になってしまうかも知れませんが。
厳しい話が苦手な人は、この先は飛ばしてください。
引退競走馬に限らず、全ての馬を幸せに天寿を全うさせようとするのは、私は不可能だと思っています。
年間7千頭ものサラブレッドが生まれますが、全ての馬を養老に送ったり、乗馬にしたりは、どう考えても無理だからです。
一瞬は助けることができても、馬は25年ほど生きます。5歳で引退すれば20年、20年は人間の人生でもかなりの長い時間です。
先にも例を挙げましたように、ある人に引き取られて余生を幸せに送っているんだな、と信じていたら、安楽死させられていた、ということもあります。
気持ちだけでは、約20年間、馬を救い続けることは難しいのです。
趣味の乗馬を長く続けていると、ああ、これは仕方がないんだな、と納得しないと、続けられないところが確かにあります。その上で、自分の中で、なんとか折り合いをつけないと、精神がやられてしまいます。
自分ではなんともしようがないことを、現実を見ずに「どこかで幸せにやっている」と強く信じて笑っていたり、「どうせ肉それ当たり前」と冷ややかに割り切ったり、様々な方法で納得するのです。
その様子は、馬を扱っていない人から見ると、馬を扱っている人たちはどこか冷めていて薄情だと感じてしまうのかも知れません。
これは、馬がいる国共通の葛藤です。
乗馬人口が多い国は、確かにもっと馬のウェルフェアが優れているとは思いますが、だからと言って、全ての馬を救えているわけではなさそうです。
行き場のない馬はどこの国にでも存在します。
世界には、馬の屠殺を禁じている国もありますが、他の国に馬を輸出してそこで屠殺させているだけです。自分の手を汚さなくしただけで、全ての馬を救っている訳ではありません。そして、日本はその輸出先であり、馬を買い取って屠殺している酷い国、と叩かれるわけです。
現実から逃げられないところまで追い詰めると、人間は何て残酷で汚いのだろう? と自己嫌悪に陥る、しかし、どんなに他人を責めても自分を責めても、事態は好転しません。受け入れるだけしかありません。
乗馬クラブや牧場で、病気や怪我で亡くなった馬・安楽死させられた馬は、よっぽどオーナーが尽力しない限り、産業廃棄物として処理されます。
私は何頭もクラブで命を落としてしまった馬を見ましたが、たてがみや蹄鉄を形見として引き取るのが精一杯で、後はトラックに乗せて運ばれていって終わりです。
どんなに愛された馬も、ゴミ扱いです。
トラックに乗せて……と言っても、500キロ以上ある巨体を乗せるには、ロープをかけてクレーンなどで引っ張り上げるしか方法がなく、その様子はお客さんが見ようものならトラウマになりそうなもので、普通は人に見られないように時間を選んで積み込みます。私もその作業を見たことはありません。でも、トラックに積まれてブルーシートで隠された大好きな馬に、お別れを告げたことはあります。
あーこのいる牧場は、養老牧場の顔もありますので、亡くなった馬はお骨にして馬頭観音に納めて弔ってもらえますが、そういうところはまだまだ稀です。
いや、むしろ現実がそうだからこそ、自らの馬の余生を考えて牧場を開いた初代オーナーが、馬頭観音を作って、馬の供養にこだわったのでしょう。
中には、かわいそうな生き様を見せ、かわいそうな死に方をして、最後はゴミとして処理されてしまう馬もいます。
それが、馬の命を救ったということなのでしょうか?
屠場に送らなければ、馬は救われたと勘違いする人のなんと多いことか。
数年前、雪の中で凍死寸前の馬をレスキューしたニュースが話題になりましたが、誰も見つけることがなければ、あの馬は痩せおろとえて死に、ゴミとなって処分されていたでしょう。そうして消えてゆく馬はまだまだいるのです。
私は、馬を屠場送りにする人たちを責める気持ちにはなりません。
一瞬の善意で命を救われたのに誰にも手をかけられず、放置されて、無駄死させるくらいなら、誰かがその手を汚して決断しなければならないのだ、と思うからです。
私たちには不都合な真実ですが、屠場で潰えた命に私たち自身が恩恵を受けていることを、忘れてはいけない、私たちがやりたくない仕事を請け負ってくれている人々がいることを忘れてはいけないと思います。
一流の競走馬として育てるために、乗馬としてのセカンドキャリアを与えるために、そして、安全安心で良い肉を提供するために、誠心誠意尽力していることには違いがないのです。
馬の命を奪うことで生計を立てている人たちがいる、その人たちを悪だと糾弾しても、自分はその恩恵を受けないぞと頑張っても、命を大切にすることにはなりません。
私たちの生活は、やはり、他の家畜同様、用途を変更された馬の命もいただいて成り立っているのです。
ちなみに、私が馬のケアで使っている蹄油の成分の大部分は馬油です。
私の大切な馬の幸せは、多くの馬の犠牲で成り立っている……だからこそ、やらなければならないことがいっぱいあります。
私たち人間は、馬がどのように生きるのか、指し示さなければなりません。
自然のまま放置、人の手をかけない……は、見捨てていると同意であると認識し、責任を持たなければなりません。
それは、種として絶滅する運命だった馬が、人間と共に歩むことによって、種を繋いできた、人間に必要とされる生き方をすることを宿命としたからです。
馬は人なり。
たまたま出会った人が、「お前は他の動物の血肉となれ」なのか「安らかに死ね」なのか「なんとか生きていて欲しい」なのか「速く走れ」なのか「ゆっくり歩け」なのか、それはその馬の運命なのでしょう。
私は、目の前にいる馬たちに、乗馬として生きる道を指し示したい。
人々に愛され、必要とされ、幸せに生きる道を教えてあげたい。
馬術を目指す多くの人々が、お金にゆとりがあるのなら、できるだけの名馬を手に入れ、上を目指したい、競技会でいい成績を収めたい、と願うと思います。
でも、私はきっとそれよりも、1頭でも多くの馬を引き取って、乗馬として幸せに生きていけるよう努めたいと思ってしまった、それが私の目指す乗馬スタイルなのでしょう。だから、あーこだったのでしょう。
それでも、たとえどんなに愛情を込めようと、注意を払って接しようと、シェルやあーこが亡くなる時には、必ず後悔するでしょう。
安楽死を選ぶ時は安楽死を選んだことを、選ばなかった時は最期まで苦しませて死なせたことを、事故で死んでも病気で死んでも、老衰で死んでも、まだ何かできたはずだと後悔するでしょう。
それが、馬を持っていて一番怖いことです。
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