あーこっこクラブへようこそ!

あーこっこクラブ誕生!

 ……と言っても、特別な企画ではなく、YouTubeのメンバーシップの呼び名です。

 実は、あーこの共同馬主が3人になった時、私は嬉しくて「あーこっこクラブだね」と表現しました。

 私だけではなく、これからは3人で協力してあーこを育てていこう、と夢を抱いたのです。

 その夢は、前述したように、見事なまでに玉砕しました。

 でも、その時と同じように、あーこを支援してくれる人たちには、仮想オーナーにでもなったような気持ちで、あーこを見守ってほしいと願ったのです。



 私の理想の乗馬ライフは、シェルとの日々です。

 そして、あーこも誰かいい人と出会い、私とシェルのような関係を築いて、幸せに過ごしてほしい、と願いました。

 私は、馬を子供だとは思っていませんが、少なくても、子供がいなくてどこかぽっかり空いている部分を、シェルが埋めてくれたことは認めます。

 満ち足りているはずなのに、申し分ないほど幸せなのに、なぜか、やるべきことをやり残したような、他の人が成し遂げたことをサボってしまったような、虚しさを感じていた、そんな私に、シェルは癒しをくれました。

 私は、シェルに救われた。

 シェルは、私の人生の一部。

 私の人生を豊かにしてくれた大切な馬です。


 だけど、あーこは……。

 そんな私とシェルの間に、影を落とす存在でもありました。

 あーことの出会いがなければ、シェルと私は「二人は死ぬまで幸せに過ごしましたとさ」のハッピーエンドで終わったはずなのです。

 馬を2頭抱え込んでしまったために、共倒れになる危険性を孕んでしまった。

 私は、あーこを持った時に頭を抱えて、鬱な気分になっていました。なんで、こんなことを、周りの反対を押し切ってしてしまったのだろうか? と。

 しかし、同時に、長年悶々と考えていた馬に対する気持ちを、私の魂の叫びを、このように批判覚悟で、語る覚悟がついたのです。


 無知ほど残酷なことはない。

 本当に馬が好きならば、馬のことをもっと知る勇気を持って欲しい。

 まずは一歩踏み出してほしい。


 もちろん、馬が大好きな人たちが、その気持ちの強さだけで、私のように馬に接する機会が与えられ、同じ経験ができるとは思っていません。そして、同じ考えになるとも思っていません。

 それぞれに事情があるのですから。

 自分の大切な家族を見捨てて、生活の基盤を失ってでも、馬に尽くしてしまうのは、人間として正しいとは思いません。

 そんなに馬がかわいそうならお前が引き取れ! なんて考えてはいません。

 だからこそのあーこっこクラブです。

 私は、あーこの失敗も自分の失敗も、包み隠さず、できる限り、表にしたいと思っています。それで、批判があっても仕方がない。できる限り、綺麗事ではない現実を見せて、事情があって馬と触れ合えない人にもできるだけリアルな体験をしてほしいと考えています。

 成功例は希望を、失敗例は学びを、それぞれ与えてくれるものです。

 たとえ、私に何の力がないとしても、あーこっこクラブを通して馬と触れ合った人は、何かができるかも知れません。



 昔は、1頭の馬のストーリーは、ぶつ切りで、点で人と繋がっていました。

 手放せば後は追わない、どうなっても文句を言わない、知らない、気にしないことで、罪の意識も持たずに済みましたし、後の人がその馬をどう扱おうと糾弾せず済みました。

 しかし、今は、線でつながるストーリーになりつつあります。

 どのように生まれ、どのように育ち、どのように走って、引退して、そして命を失うのか……全て、人の知るところになる。

 多くの人が、1頭の馬の物語を目にすることになる。


 それは、どういうことか?


「黒馬物語」が19世紀のイギリスにもたらした影響が、物語っています。

 ブラックビューティの一生は、多くの馬がたどるように色々な人の間を渡って行って、出会った人に左右され、不幸にも幸せにもなる馬の姿を描いています。

 この本のおかげで、多くの人たちが、馬のウェルフェアについて熱心に考えるようになり、強すぎる馬具の禁止など、具体的な事例もあった、とのことです。

 点だけの物語なら、馬の一生に責任を持たない。

 自分の手を離れたらなら、その後はどうでもお好きにしてください、私も責任は持ちませんし、どのように扱っても文句は言いません、ということです。

 なんとか少しでも生きるチャンスを与えたいとただ同然で馬を人に譲るその気持ちを、ラッキーとばかりにそのまま肉にして金儲けするような人たちが山ほどいた時代、それが当然だった時代がありました。

 でも、線につながれば、自分達の手を離れた後も考え、その後のことにも気をかけることとなります。


「一勝よりも一生」という有名な調教師の言葉があります。

 いや、その一勝がなければ一生もないでしょう? と思った人も多いのではないでしょうか?

 過去の「手放した馬は追わない」という考えでは、確かにそうなります。

 この調教師さんは、引退後も引き取り先を熱心に探して多くの馬にチャンスを与えました。そして、その後も気にかけておられたようです。

 当然、そのように気にされてしまうと、引き取った先も心ある人間ですから、少し重たいと感じつつも無下には扱えません。

 良い人に巡り会えた馬は、やはり、幸せに生きるチャンスが多いのです。


 点だけで馬を見ている人たちは、やはり、どうしても目先の利益しか考えられなくなってしまいます。

 未勝利を勝ち上がれそうにない馬を、故障する可能性の高い使い方をして、せめて手当だけでも貰おうか? とでも考えているのか、多くの競馬ファンが、疑問視するような使われ方の馬もいます。

 一方で、何もできないけれど、せめて、これくらいは、とたくさんのお守りをつけて、お世話になった馬を送り出す競馬関係者もいるのです。

 ただ、いらなくなった馬を捨てるように乗馬クラブに押し付けるような人もいれば、大事にしてほしいと願いを込めて、できる限りのことをして送り出す人もいる、人はそれぞれです。

 お守りごときで神様は守ってくれないかも知れませんが、そのお守りを見て、次にその馬を預かった人の心に何か訴えるものがあれば、その馬の生きるチャンスは広がるのです。

 これからは、1頭1頭の馬の生き方が闇に葬られることなく、人前に晒され、評価され、検証されてゆく時代になって行きます。

 でも、まだまだ、多くの人が検証するには馬という動物が、身近ではなく、特別すぎるのです。

 本当に馬が好きならば、馬を知る勇気を持ってほしい。


 私は、あーこの物語を多くの人に伝えたい。

 そして、多くの人たちが、あーこを通して馬を感じてほしいと思っています。

 各々が自分らしく、馬の幸せについて、考えられるように。

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