馬を扱う者の自己否定

 馬を扱う人の中には、馬を「道具」だとはっきり明言する人もいます。そういう人を見て、聞いて、嫌な気分になる人もいるでしょう。非難する人もいるでしょう。

 でも、私は、それが一種の自分を肯定する手段と割り切っています。

 

 妹が、浜ゆでのカニをご馳走してやると言われ、喜んで出かけたところ、ぐつぐつと茹で上がる鍋の中、ガサゴソと最後の足掻きをするカニを見て、しばらくカニが食べられなくなってしまった、ということがありました。

 妹の役目は、カニが外に出ないよう、鍋の蓋を抑え続けるとように言われていた、簡単なものでした。が、カニが死んで大人しくなるまで、じっと蓋を抑え続けていたのです。蓋に、カニのキックが何度も当たるのに耐えながら。

 もちろん、そのカニは、ご馳走として大勢の人たちに振る舞われ、皆、美味しそうに楽しく、ビール片手に優雅な時間を過ごしたのでした。

 妹以外は。


 多くの人は、命は大切にしなければならない、と育てられます。全ての命を慈しむ心は、人として大切なことです。

 ですが、茹で上がるカニの必死に生きようとする命とそれを憐れむ気持ちが強くなってしまうと、ご馳走を楽しんで食べることができません。

 命をいただく、命を利用して利便性を追求する時、人はそれぞれに自分の正当性を見出して納得させないと、極度の自己否定に陥ってしまいます。

 カニを浜ゆでにして、皆さんに振る舞いたい、という気持ちが、悪であるはずはありませんが、食べ物の前に生き物と認識してしまうと、残酷物語になってしまうのです。


 馬がまだ家畜の時代は、馬が人々の生活を支えていました。

 働けなくなった馬を養うのは、生活を脅かすことであり、入れ替えて新しい馬を飼わなくてはなりません。苦楽を共にしてきた馬を処分するには、心ある人間にとっては相当の葛藤があったはずです。

 家畜として割り切る、道具として割り切って、愛情を注ぐ、という自己肯定の仕方は、決して悪ではなかったと思うのです。

 むしろ、それが常識で、そこから外れるのは、ご法度だったり、子供っぽいワガママだったりしたのではないでしょうか。

 みんながカニを食べて楽しんでいるところ、それって残酷じゃない? 酷いんじゃない? そんな殺戮を楽しんでいいの! と、誰かが叫び出せば、その場から締め出されるように。


 馬は所詮道具なんだ、という人の言葉だけを聞いて先入観を持ってしまうと、その人が本当に愛馬心がないかのように誤解してしまいます。

 イチローは、子供が「どうしたら野球が上手になれる?」と質問した時に「グローブを磨く」と答えたそうです。道具を大切にすることが、何よりも大切なんだ、と。

 馬を道具として扱うと明言している人が、必ずしも愛馬心のかけらもないわけではないのです。時として、誰よりも大事に扱っている人もいます。

 ただ、自分の目的に沿えない馬になった時は、スパッと諦めて他の馬にする、という感情に流されないための覚悟だったりします。

 1頭の馬に縛られてしまえば、次のステージに向かえないことも事実、それは競馬だけではなく、乗馬の世界でも一緒だからです。

 ダービー馬といえど、いつかは引退させて手元には置いておけない、次の新しい馬を厩舎に入れて、再び鍛える、それが競馬関係者でしょう。

 それと同じことが、乗馬の世界でも言えるのです。


 ここ最近、競馬関係者、乗馬関係者が、馬を救うプロジェクトを立ち上げて活動しています。

 馬を知り尽くしている人々が、本腰を入れることは素晴らしいことだ、と思います。そして、いよいよ時代も変わったな、と感じます。

 でも、非常に困難で風当たりが強く、大変なことだと思います。

 使えなくなった馬をどんどん出すことで仕事が回り、自分の生活を支えている、その人たちが、その馬たちを救おう、何とかしようというのですから。


 多くの人が、馬を屠場に送ることがものすごい悪で、かわいそうなことと思っていますし、当然、私も自分の馬をそういう憂い目にはあわせたくありません。

 しかし、現実を見れば、それもまた一つの産業として成り立っています。

 馬を肉にすることで生計を立てている人もいれば、そのおかげで、人もヘルシーな馬肉を食べることができ、そして、愛犬家や愛猫家が良質なペットフードを手に入れることができているのです。

 馬で生計を立てている人たちが、馬を救おうとすることは、自分の仕事・生活基盤を否定する可能性もあり、自己否定に繋がってしまう危険性があります。

 そして、実は競馬ファンも競馬ファンでいられなくなる、自己否定しなければならなくなる可能性があるのです。


 かつて、ネット上のコミュニティで引退競走馬を救うにはどうしたらいいのか? という話題が上がりました。

 こういう話題は、たいてい、荒れて終わりになりますが……。


 競走馬オーナーが最後まで責任を持つべきだ、という意見がありました。

 何億円もの馬をパーンと買えてしまうオーナーさんですから、それくらいのことを馬にしてあげて当然では? という意見です。

 ですが、毎年数多くの馬を買い、さらに、引退後の馬の面倒を見て、その馬たちの寿命が引退後も20年続くとしたら? それが、競走馬のオーナーに全て課せられてしまうと、おそらく、競走馬を買ってレースに出そうなんてオーナーさんは、激減してしまうでしょう。

 我々は、競走馬のオーナーがいるおかげで、名馬に出会うことができるのです。


 サラブレッドの生産頭数を制限すれば、殺される馬は減る、という意見もありました。

 が、生産頭数を制限するということは、多くの種牡馬や繁殖牝馬を処分しましょう、という逆の殺処分の始まりです。

 競走馬引退後も繁殖の道がますます狭まり、多くの馬が行き場を失います。しかも、優秀な馬を生産するという競馬の醍醐味が薄れてしまいます。


 中には、乗用馬の輸入を禁止し、引退競走馬が乗馬として生き残れるようすべきだ、という意見もありましたが……これは、乗馬というスポーツに競馬の尻拭いをさせるような意見で、カーリングにストーンを使わず、ヤカンを使うべき、と言っているようなものです。(とはいえ、サラブレッドが乗馬に向かないとは言いませんが)


 競馬こそ悪、そんな残酷なことはやめるべき? 

 レース中にも多くの馬が故障で命を失っている、こんなひどい生き方を馬に課すのはやめましょう、という意見です。

 でも、おそらくそうなれば、数年後にはサラブレッドは姿を消すでしょう。

 かつては、アラブのレースもありました。アラブの種牡馬もたくさんいた時代がありました。実際は、アングロアラブというアラブの血が一定量入ったサラブレッドのレースでしたが。しかし、アラブ限定のレースがなくなると、アラブはほとんどいなくなってしまいました。


 結局、引退競走馬を救おうと考えれば考えるほど、人間は汚い、残酷だ、と自分自身を否定することになってしまいます。


 そもそも、競馬は良い馬を求めて、淘汰を繰り返してきたスポーツです。

 生き残れる馬を選び、選ばれない馬を淘汰する、それが競馬の本質です。

 強烈な輝きを放つ馬は、闇に葬る馬が多ければ多いほど輝きを増すもの。

 良い馬を求めて血統を繋ぎ、良い馬の中から、さらに選りすぐって頂点を決める。選ばれない馬を捨ててきて、今に脈々と繋いでいる、今後もそれが変わることはないでしょう。

 馬の淘汰を悪としたらもう成り立たない……競馬が愛される限り、馬は大量に生産され、大量に殺される運命です。

 これからも、人間はロマンを求めて多くの馬を生産し、その馬の中から名馬を育て、その子孫を繋いでゆくでしょう。


 血統のロマンは求める。

 淘汰される馬は救いたい。


 この矛盾を、常に競馬ファンも抱えているのです。

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