馬の幸せを考える

私はコウモリ

 爆弾発言かも知れません。

 私は、引退競走馬を救う活動に長い間、関わらないようにしてきました。

 引退競走馬を引き取っているんですね、すごいですね! などと言われると、なんだか罪悪感で、嫌な気分になり、あまり積極的にシェルやあーこを、引退競走馬だと言わなかった時期もあります。ネット上に実際に「引退競走馬を救う活動はしていません」と明記している時期もありました。


 私は、ただ純粋に趣味の乗馬を楽しんでいるだけの人間であり、たまたま巡り合った馬が引退競走馬であっただけで、他の種類の馬でも構わなかったのです。

 それで、立派な人間のように思われても、ちょっと……。


 先にも書きましたが、私は自らの手を汚していないだけで、多くの馬の行く末を知っていて、何もしてこなかった、つまり、見捨ててきた人間です。

 多くの馬を救うには、大金が必要になりますが、お金だけあればいいのではなく、馬を扱える技量のある人が、数多くいなければならないことも知っています。

 自分の知らない可哀想な馬を救うことよりも、自分の目の前にいる馬を大切にする方が、私には重要なことでした。

 私には子供がいないので、ちょっと例えとしては変ですが……ユニセフのマンスリーサポートにお金を出すよりも、自分の子供に全部使っちゃうよ、ってことなのです。

 しかも、自分の馬は2頭だけ。他の馬は、大切に扱ってはきたけれど、救わなかったのですから。そのことについて他人に責められるのも当然嫌ですが、「馬を救っている人」という評価をされることも、非常に辛いものです。


 馬に携わっている者は、馬と人とがより近しい関係でいられるように、馬に人間との付き合い方やルールを教えることを重要に思います。

 でも、遠くで馬を愛でる人たちは、馬が人から解放されることが一番幸せと考える人が多いようです。人間こそが馬の不幸の源、そのせいか、馬と密に付き合おうとしないように感じます。

 結果、乗馬をやっている=虐待している、酷使している、人の身勝手に馬を付き合わせている、という思考に陥りがちです。

 乗馬をやっている身としては、「それって虐待じゃないんですか?」と、悪びれもなく、あっけらかんと聞かれてしまうのが、かなり辛い。攻撃的に言ってくるなら、もうなおさらです。

 長年積み重なった経験で、乗馬をやっていない馬大好きな人は、どうも苦手だな、と感じることが多くなってしまいました。

 そういう人たちの中に身を置くと、引退競走馬を持っているということで尊敬され、乗馬をやっていることや、それでいて馬を見捨ててきたことで冷たい目で見られ……苦痛この上ないのです。

 全員が全員そうではないのですが、あえて嫌な思いをすることはないと、引退競走馬に関わることからは、距離を置くようにしていました。


 ところが、不思議なことに。

 いざ、あーこを手放さなければならない危機的状況になった時、多くの乗馬仲間は、あーこを諦めるように私を説得する方にまわり、なかなか賛同を得ることが出来ませんでした。

 むしろ、私が距離を置いてきたような人たち、引退競走馬を救いたい多くの人たちからの共感を得て、あーこを維持できることになったのです。

 あーこという馬に救いの手を差し伸べてくれて、本当にありがたいことです。

 でも、同時に私は自分のことを「まるでコウモリだな」と思うようになりました。


 昔、獣と鳥が戦争をしていた時、コウモリは、優勢な方へとついて「毛があるから獣です」「羽があるから鳥です」と、都合よく振る舞っていました。ところが、争いが終わると、両方から「お前は仲間ではない」と追い出され、仕方がなく、洞窟の深いところに住むようになりました、というお話。

 私は、そんなコウモリです。


 もしも私が、周りの乗馬仲間の立場だったら?

 私のように、経済的にも立ち行かないのに馬を手放さないと騒いでいたら、もしもし? と、やはり手放すよう説得する方に回っていたと思うのです。

 何を今更、あなただって、馬を維持する大変さはよくわかっているでしょう? 最後まで面倒を見ることはそうそう簡単じゃないし、その馬の世話をすることで乗馬を続けられなくなる可能性だってあるんだよ、あなたのためにならないし、自分のわがままに多くの人たちを巻き込んではいけないよ、と。

 命に責任を持つ重さを知っているからこそ、そう言うと思います。

 そして、そういうふうに説得する人に、私は「違うよ、あーこは乗馬として能力のある馬なんだよ、価値のある馬なんだよ」と言い続けているのです。


 つまり……。

 乗馬仲間には感情論ではない「可哀想だからあーこを助けたんじゃない」と言い、馬に乗らない人たちには感情に訴え「可哀想なあーこを助けてください」と言う。

 まさに、私はコウモリなのです。


 深く暗い洞窟の岩壁を見つめながら、自問自答してみる。

 どうして、乗馬の神様は、私をコウモリにしたのだろうか? と。

 ありのまま、自分の感じるがまま、馬と接することで、今の満ち足りた乗馬ライフを手に入れてきたのに、今更、どうしてどっちつかずの私にしようとするのだろう?

 私にどう振舞えと?


 もしかしたら、時代が変化しているからかも知れません。

 かわいそうな馬たちの命を救うだけなら、多くの人の善意を集めればいい、でも、その馬たちが幸せに生きるためには、知識も経験も必要になります。馬を救いたくて救っても、実際に扱える人がいなければ、手をやいて終わりになってしまいます。

 そして、馬が人々の生活を支える存在から、どちらかというと余暇を楽しみ、スポーツの相棒、または人々の癒しになる存在に変わりつつある今、馬を扱う人々も、所詮は経済動物、家畜だから仕方がない、目を瞑るしかない、とは言い切れないのでは? それでは、癒しを求めて馬に触れ合いたい人のニーズに合っていないのでは? と思うのです。

 馬が幸せそうに見えるから、人は癒やされるのだと。

 つまり、時代がハイブリッドなコウモリみたいな人々を求めているんじゃなかろうか? 


 長年、乗馬を続けてきた私は、馬を扱った経験のない馬好きとは、どこかすれ違いを感じてしまいます。でも、これは乗馬をやらない、馬と触れ合っていない馬好きの立場からも言えるのではないでしょうか?

 馬を救いたくて動いているのに、馬を扱える人たちからは、なぜか冷たい目で見られていて、協力を得られない。どこか、馬を扱えないことで、馬鹿にされているような気がする、自分の熱意をわかってもらえない、などと。強烈な疎外感しかない、どうして馬を扱っている人に、自分の思いが伝わらないのだろうと。

 これは私に言わせると、決して馬鹿にしているわけでも、下に見ているわけでもなんでもなく、身についてしまった経験値が警笛を鳴らすだけで、正義と希望を胸に突っ走るファンタジー界の勇者に釘をさす長老のようなものなのです。

 多くの馬が幸せに過ごすためには、勇者も長老も必要な時代になった、そういうことなのかも知れません。

 馬を扱える人と扱えない人を繋ぐために。

 私は、コウモリになったのかも知れません。

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