運命の分かれ道
当時、私がシェルを連れてクラブを出ていく決心がなかなかつかなかったもう一つの理由。
それは、正しくはシェルは私の所有馬ではなかった、ということにあります。
その問題は、後に、値上げによってクラブを出ていく時にも大きな枷となってしまったのです。
私が乗馬を再開したクラブからこのクラブに移動したわけは、自分の馬を持つためでした。
普通のクラブで馬を持つとなると、まずは買い取って……その馬がダメになってもどうにかしなければならず、大変リスクも伴い、難しいことです。
ところが、このクラブは、大学馬術部出身のオーナーが、卒業後もOBが乗馬を続けられるよう始めたという理由もあって、預託料も激安でした。
しかも、クラブに所属している間は、馬を買い取る必要がなく、気に入らなくなったら、いつでも返してもいいし、取り替えてもいい、期間も自由という、いわばレンタル自馬が可能だったのです。
先にも書きましたが、昔は、ビール箱1つ、一升瓶1本で引退競走馬を貰い受けることが出来ました。そして、自分たちでリトレーニングして乗っていたのです。
当然、大学馬術部OBであれば、そのようなことはやってきたことですから、馬さえいて預ける場所があれば、乗馬を続けられたのです。
それでも、故障馬やものにならない馬も出てきます。そんな時に、売買なく簡単に取り替えられればオーナーとしては楽です。
そして、引退競走馬が次から次へと入ってくるクラブ側も、オーナーがついて全て面倒を見てくれればありがたい、調教もしてもらえて、手放した後も他に売るなり、肉にするなり、自由ですから、お互いウインウインの関係でした。
私は、この制度の話を聞いて、クラブを変えてシェルを持ったのでした。
今までのクラブで週5回、馬をお借りして乗っていましたが、その金額を思えば、このクラブで自分の馬を持った方が、はるかに安上がりだったのです。
ただ、あまりにも都合のいい話なので、一抹の不安もあり、書面を交わしたいと思っていました。が、今までなんのトラブルもなかったから、書面を交わしたことがない、信頼してください、で終わりました。
最初は、自馬と言っても自分の馬じゃないぞ? と肝に銘じていた私ですが、流石に5年が過ぎた頃には、気持ちが変わりました。
ここまで手をかけてしまうと、私以外の誰の馬だ! という自負が生まれました。
これが、クラブを出ていくのにかなりの足枷になってしまったのです。
シェルを売ってくれるのか、一体いくらで売ってくれるのか? が不明だったからです。
私は、時々、冗談混じりに「シェルはいくらくらいなんでしょうね?」と聞いたりもしましたが「まさか、出ていくんですか?」と言われて、それ以上は聞けませんでした。
本気で出ていくことを決めれば、シェルの値段で揉めることは間違いありません。
そこで、私はシェルと同じレンタル自馬でもう1頭、短い期間でお借りすることにしたのです。
自分が気兼ねなく乗れる馬を、シェルが治るまで持つことで、クラブに居場所を作ろうとしたのです。
でも、その頃、クラブのレッスン馬は故障馬が続出、クラブとの関係は最悪なので競技馬として調教中の馬は貸してもらえないだろうし、人気のレッスン馬も無理だろうと思い、お借りする候補の馬を2頭に絞りました。
1頭は、あーこです。
乗り心地が良かったこと、まだレッスン馬として日が浅いのでファンがついていなかったこと、さほど手をかけていない状態なので誰からも文句を言われない馬だろう、というのが選んだ理由です。
もう1頭は、自馬を解消されてクラブに戻されたばかりの馬で、一度だけ以前のオーナーに乗せてもらったことのあるの馬です。
その馬は、シェルと同じLクラスで活躍していた馬で、その馬をお借りできたら、私の練習にもなり、競技にも行けるかもしれません。
しかも、その馬はオーナーに手放されたことで精神的なショックを受けていて、体調が思わしくなく、レッスンで使えたり使えなかったりと、順調ではありませんでした。
ただ、この馬は競技経験が豊富なので、これからの競技会シーズンを思えば、私には貸したくない馬でしょう。それに、私もちょっとまたがったことがあるとはいえ、ほぼ乗ったことのない馬で、よくわからない馬でした。
私は、クラブ側の顔色で馬を選ぶことにしました。
快くもう1頭持っていただけてありがたい、ならばこの馬を、こいつに馬を貸すのか? と、嫌な顔をされたらあーこを指名するつもりでした。
案の定でした。
クラブ側は、私に馬を触らせたくない、本当は1頭だって扱わせたくない、だから、ものすごく警戒心をもたれました。
おそらくもう1頭の方の馬の名前を出せば、お断りされたでしょう。あーこの名前を出すと、ホッとした顔をして、好きにやってください、と言いました。
こうして、あーこは私の一時的な馬になったのでした。
もう1頭の候補だった馬ですが……。
この馬は、競技会後、体調が戻らず、出て行ってしまいました。
ものすごく痛い話なのですが、この馬はその競技会にかけていました。ここで結果を残せば、オーナーと過ごした幸せな日々が戻ってくると、おそらく信じていたのです。
でも、自分の馬を持つ甲斐性のある人は、競技会前に自分の馬を選びます。自分の馬が持てないから、クラブの馬をお借りして競技に出るのです。
ぐったりしていた馬が、大会が近づき、経路の練習をし始めた頃から、別馬のように輝き始めました。
それが最後の輝きだったのでしょう。
大会二日目には、もうボロボロで破行もひどく、棄権しかないのでは? と思えるほどでしたが、本番は気力を振り絞り、いい歩様で回って帰ってきました。
その健気な姿に、涙が出ました。
良い馬だったので、いいオーナーさんに巡り合って、どこかで幸せにやっている、と信じたいのですが、そんな甘い話はないでしょう。
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