20.泣くな‼
時刻はもうほとんど夜だ。邪気が最初の頃より濃くなっているのが分かる。木々が身動ぎする気配があちこちでして、気味が悪い。ちょっとした物音だけでも神経がすり減る。
「……どうだ、
「……ダメ。全然」
蒼は一鞘の呼びかけに、足を止めてふるふると首をふった。
「お前でもダメか」
「ごめん……。がんばって地中に集中してみたんだけど、動く気配が多過ぎて酔いそう……」
頭がクラクラしてくるくらいであった。そうして目を開けてみると、より一層森の闇が深くなっていて視界も混乱させられる。
「……木全部から同じ邪気が出てるって、言ってたから?」
「……うーん、それもある……」
一鞘が無言で水筒を差し出してくれたので、蒼は「ありがとう……」とそれを受け取る。
「根っこも全部同じ邪気で、それがめちゃくちゃ大量にニョロニョロ動き回ってて、全然分かんない……。せめて全部邪気が違うなら分かるかもなのに……」
「1箇所だけ邪気が異様に強いとかもないのか?」
「それも分からないくらい、複雑に絡み合ってる……」
動きを辿ろうにも、1本1本が絶えず動いているのでキリがない。
「……そうか……」
「……」
蒼が本気で具合が悪くなりそうな顔をしているからだろうか、一鞘も姫織もそれ以上訊かずに黙り込む。蒼が水筒を返しても、一鞘は無言で受け取るだけだ。
(……こんなこともあるなんて)
「やってみる」だなんて言っておいて、この体たらくだ。蒼は自分の甘さに唇を噛みしめた。こんな風に、紛らわしくて邪気の出どころが分からなくなるなんて思わなかったのだ。今までそんな事態に出くわしたこともなかった。
(戦闘員になりたいのに、こんなんじゃダメだ……)
そんな蒼を責めるでもなく、それなら適当に移動してみるかと一鞘が言っている。姫織も、異議なしと言わんばかりに小さくうなずいた。蒼はますます焦った。
(そもそも何で、こんなに動き回ってるの)
一鞘は木のパーツにはそれぞれに役割があって、根は本体を移動させているのではないかと言っていた。その根っこがこんなに動いているのだから、そうなのだろうと蒼も思う。
「……静井?」
(でも、それならあたし達が近付いた時だけ遠くに逃げればいいよね?)
常に動いていたら、普通疲れないだろうか?
「おい、何ボケッとしてんだ」
(マグロみたいに、動き回らないと死んじゃうとか……?)
回遊魚と言うんだっただろうか。でもずっと動いているのは根だけで、葉や枝、幹は攻撃を仕掛けてくる時以外は普通の植物みたいに動かなかった。改めてあたりを見渡してみる。やっぱりピクリとも動いていない。
「……どうしたの」
(あたしが邪気に敏感なことに気付いてる……とか⁉)
それ自体はあり得そうだ。だって昔お父さんも言っていた。お前は正直に物事を感じ取り過ぎる、それだと妖の方にも気付かれてしまうぞ、と。
こういうのは、穴を覗き込むのと同じらしい。こちらが覗き込んでいる時、穴の向こうにいる奴もこちらに気付くかもしれない。蒼の邪気の感じ取り方は、露骨にじーっと見続けているようなものだと、
だがもちろん、それができるのは位の高い妖の話だ。大抵の妖は気付かない。蒼だって、例えば講義で先生に自分の呪力を感じ取られてもまったく分からない。
(そっか、高位の妖だからそういうのを分かって紛らわしくしてくるかもしれないのかぁ……)
今の今まで、その可能性をまったく考えてこなかった。そんな自分の能天気さに今更ながらドギマギしてくる。さすがと言っては何だが高位の妖、やはり賢いし勘が鋭いのだと改めて実感した。
(……。あれ?)
ふと、何かが記憶に引っかかった。
「ねぇ、この妖って――」
思いついたがまま言葉を口にしようとふり向いた――その時。
「……えっ」
間抜けな声が漏れた。突然、体がふわっと浮いたのだ。違う。地面がなくなっている。何の前触れもなく地面が口を開けて、その真上にいたのが蒼だった。
「「蒼ッ‼」」
形相を変えた2人の表情が、やけにクッキリ目に映った。重なるふたつの声も、ハッキリと耳が拾う。
蒼はその呼び声に応えることもできず、むなしく口の中へと落ちていく――……。
大きな口の中に落とされたハズだが、狭いトンネルを転げ落ちていくようだった。体のあちこちを壁らしきところにぶつけていく。
そして蒼を急降下させていくトンネルは、気分が悪いが……食道を連想させた。かなり湿っていて、ぶつかる度にベトベトするのだ。……粘液に覆われている。
そんな地獄のようなトンネルを長い時間(蒼にはそう思えた)は、突如終わりを迎えた。
「わあぁぁぁああぁぁあああぁぁぁぁッ⁉」
終着点からゴロゴロゴロゴロと高速縦回転の連続。そうしてぐるっぐるに目がまわった最後、顔面からズベッと着地する形で止まった。体術で好成績を叩き出しているとは思えない無様さであった。
「うぅ……」
顔がじんじんと痛むが、幸いなことに鼻の骨は折れていないようである。蒼は顔をおさえながら、周囲を見渡した。
「……巨大マリモ?」
そんな間抜けな例えしか思い浮かばなかった。苔むした、巨大な球状の空間。教室よりさらにひとまわりふたまわりは大きいのではないだろうか。地面は平坦というか、中央に向けてやや下っている。だから巨大マリモの上半分といったところか。ところどころに太い蔦や蔓草が這っていて、とにかく緑、緑、緑。壁にはところどころ、チョロチョロと湧き水が漏れているようだ。確かに地下に落とされたはずなのに、不思議なことに外よりも明るく周囲を視認できる。無論、明かりなんてないのにだ。今にも鳥のさえずりが聞こえてきそうな、のどかな光景と言えた。植物と土の匂いが濃く香っている。
しかし蒼は、この現実離れした空間に血の気が下がった。
(もしかして……、閉じ込められた?)
蒼は愕然とした。こんなの一体、どうすればいいというのか。きっとここは地中奥深くだ。そんなところまで来てしまったら、尚更助かるなんて望み薄なんじゃないか。みぞおちのあたりに、冷たい感覚が這い上がってきた。
(しかも、あたし1人で――……)
その時背後で、ズザザザザザというような音が耳に届いた。
え、とそちらを見ると、苔むした壁に蒼が四つん這いで入れそうな大きさの穴が開いている。多分、蒼が落ちてきた穴だ。ズザザザという音は、そこから絶えず響いている。そして、その音がだんだんと近付き……――、
「よっ……と」
軽やかに少年が着地した。余裕のある様子で、たった今自分が出てきた穴の方をふり返る。何かが滑り落ちてくる音が、まだ聞こえてくる。
「お、」
と少年はこれまた大したことなさそうに漏らして、穴から飛び出してきた少女を簡単に受け止めた。小柄な少女は、あっさりと少年の腕に収まって無事着地する。
「一鞘、姫織……!」
ずっと座り込んだままだった蒼は、思わず立ち上がっていた。そうして、2人に駆け寄りかけたところで、
「「ぶっ‼」」
……2人に同時に吹き出されていた。
「おまっ……顔赤過ぎ……!」
「……マンガみたい……」
肩を震わせながらの2人の指摘に、蒼ははっとして自分の顔を両手で覆う。
「しっ、しょうがないじゃん! 突然落っことされたんだから!」
涙目で訴えるが、
「だからって顔から突っ込むかぁ⁉」
一鞘に珍しく笑い飛ばされた。
この非常事態にもかかわらず、蒼は2人の笑いが収まるまで待つ羽目になったのだった。
「……いやー、笑った笑った」
ようやく笑いが治まったところで、一鞘が息をついたが――笑い過ぎである。
「……お腹痛かった」
姫織まで失礼なことを言ってくる始末だ。すっかりイジけて隅っこに体育座りしていた蒼は、しかしあれっと我に返った。
「2人とも、何でここに⁉」
蒼は落ちた時、確かに上に一鞘と姫織がいたのを見届けていた。落ちたのは自分だけだったハズだ。
「お前が落ちた穴が広がって、おれも姫織もあっという間にまっさかさまだ」
「……サヤでも除ける暇なかった」
それはもう一気に広がったのだろう、と蒼でも想像できた。
「で、ここは……、地下なんだよな」
あたりを見渡す一鞘も、さすがに戸惑っている。それはそうだ。こんなに明るくて、のどかですらある光景。ここだけ写真に撮って誰かに見せても、まず地下だとは思わないだろう。
「……もしかして、ここが本体?」
「……えっ……」
姫織のつぶやきに、蒼は目を見開く。だが確かに、ここにも邪気があって――でも、地上で感じた邪気よりも純度が高いような。
(何だか空気自体も森の中よりおいしい気がするし……)
妖の中にいるというより、植物の中にいるという方がしっくりきてしまう。
「……随分デカイ本体だな」
とは言うものの、一鞘も異論はないらしい。
「本体そのものを強化する為に時間を稼いでいたのかもしれないな」
「……えっ」
――不自然な音が耳に届いたのは、その時だった。
3人は、同じ方向をふり向いた。
苔むした地面の、中央。蟻地獄でもいそうなそこに、穴が開いていた。いや、違う……口だ。生々しく濡れた濃い緑の唇が開いており、そこから見えるのは光ひとつない真っ暗闇だけ。人間の唇に似ているのに歯がないのが不気味だ。
マンホールの倍はありそうな大きさのその口から、水が湧き上がる音が聞こえていた。そして、実際に……水がしみ出していた。
無色透明な液体は、しかし水ではないと傍目にも分かった。どろりとしていて、ゆっくりと地面を覆っていく。
「何……あれ……」
ただの唾液なんかじゃないことだけは分かる。いや、唾液だとしても妖のなら良くない。人間にとっては有毒なものもある。
今はまだ中央周辺のみを覆っているだけだが、異形の口はずっとただ開き続けている。そして無色透明の液体もゆっくり、ゆっくりと範囲を広げていた。触れられた緑は何ともないようだが、それが妖の体の一部であるからだろう。
絶句する蒼の脇を、一鞘が通り抜けていく。え、と蒼が見届ける先で、湧き水の淵まで来た一鞘がしゃがんだ。そして手の甲を水面に付着させた。
「一鞘⁉」
一鞘は動じた様子ひとつ見せず、すぐにその手を持ち上げた。透明な液体は、想像していた以上に粘度が高いらしい。どろりと長く太い糸を引き、一鞘の手と水面とを結びつけている。
姫織がささっと駆け寄り、ポケットからハンカチを取り出した。「ん」と一鞘が受け取り、手の甲をそれで拭った。強めに、こするように。
蒼も慌てて2人に近寄った。
「……! それ……」
蒼はそれ以上、言葉が出なかった。透明な液体に触れた一鞘の手の甲は、腫れ上がっている。
「消化液みたいなものらしいな……これだけでも痺れる。絶対座るなよ」
先程まで蒼が座りっぱなしだったことを言っているのだろうか。しかし、何と答えればいいか分からなくてオロオロするばかりになってしまう。
一鞘は水筒の残りの水を手の甲にかけ、粘液の湧き出る口を見つめて皮肉気に笑った。
「確実におれ達のとどめを刺そうって腹か……」
「うそ……」
蒼の力なくつぶやく声が、むなしく緑の空間に吸い込まれていく。一鞘も姫織も、それっきり黙り込んでしまった。その間にも、粘液はじわじわと広がっている。
このままでは溶かされて養分になる。その事実に打ちのめされた。
(……何で)
――何でこんなことに。
ずっと隅に追いやっていた薄暗い思いが、腕を伸ばして蒼の心を引きずり込んでいく。
……病気で死ぬ、だとか。事故で死ぬ、だとか。それこそ戦闘員になって、妖討伐任務で死ぬ、だとか。
そういうのなら、ぼんやりと考えたことはあった。だってお母さんは病気で亡くなっている。お父さんも、戦闘局の任務で……。
でもこれは違うじゃないか。
だって、あたしは「何とかは風邪引かないもんだねぇ」なんて
何よりまだ研修学校の戦闘科に通い始めたばかりの1年生で、まだちっとも知らないことばっかりで……。
(……なのに、何で)
1度首をもたげた「何故」は、容赦なく蒼の心を打った。違う。そうじゃない。
(……あたし、一鞘と姫織のせいにしたいんだ……)
こんな森の中で話そうなんて言ってきたから、とか。龍能なんて持っているから、とか。――蒼に【五天】を探せなんて無茶なことを要求してくるから、とか。
そうやって全部他人のせいにして、自分を正当化したかった。そのことに気付いて、すごくそんな自分にショックを受けている。……もしかしたら、気付かないフリをしていたかっただけなんじゃないか。
(あたし、嫌なヤツだ……)
恥ずかしい。そんな思いが突き上げてくる。
思い浮かんだのは、数時間前の
一鞘が茶音のことを「嫌いだ」と言った時、蒼は、自分の中の憤りを認めることができた。けれどあれは、全部自分本位なものだった。
(理不尽な態度を取られたのは、一鞘も同じだったのに)
一鞘の為に怒ることが、できなかった。助けてもらったことも、すぐには認められなかった。人としてどうなのと思っていた相手に助けられたことで、蒼は、感謝したのではなく勝手にプライドを傷つけられていたのだ。
2人のことを嫌悪感から怒鳴りつけるばかりの教師よりも。おためごかしな茶音よりも。
自分の方が、ずっと一鞘と姫織のことを見下していたんじゃないか……。
――こんな状態であたし、死ぬの?
ふと今の状況をはっきりと意識して、胸を切り裂かれたような思いがした。こんな、ねじくれた自分のまま。それと同時に頭をよぎったのは、晦日のことだ。いつだって、思い出すのは笑顔の瞬間。なのにその笑顔に悲しみがこみ上げる。
――お父さんも、こんな気持ちだったんだろうか。そう思うと、今日1日だけで何度も堪えてきた涙が溢れた。
こんな妖なんかに命を奪われることになって、悔しかったんだろうか。悲しかったんだろうか。――空しかったんだろうか。
こんな、こちらの気持ちを散々もてあそんで、足掻くだけ足掻かせて、命を踏みにじるような、残酷な手段で。
悪い妖を見抜けと、教えられていたのに。……何も見抜けなかった。
父が「見抜け」と言っていたのは妖の善悪だけではなかったのだと、今、初めて気が付いた。
悪い妖を見抜かなくちゃいけないのは、そういう妖に傷付けられる人がいるからだ。……そしてそういう人が1人でもいなくなるよう、守る為だ。
(あたし、今日、1度だって守れなかった……‼)
自分が逃げることばっかりに夢中になっていた。一鞘も、姫織も、あんなに自分のことを助けてくれていたのに。森が豹変した時に姫織に手を貸してはいたけれど、アレだって蒼が手を貸そうが貸すまいが、結局閉じ込められていたのだ。だって蒼がそう気付いてそう言った。
見抜くのだって、守る為だ。守る為に、悪い妖を倒す為の手がかりを見抜くのだ。なのに、ちっとも見抜けていない……。
あたしは今まで何をやってきていたんだろう。お父さんみたいな戦闘員になりたいって、思っていたのに。自分の無力さを思い知りながら、助けが来ないこんな場所で跡形もなく消えるようにして死ぬなんて……。
うっ、と嗚咽が漏れて、
「……泣くな鬱陶しい‼」
「ひぃッ⁉」
思いっきり怒鳴られて、涙が引っ込んだ!
驚いて顔を上げると、怒鳴り声の主がズカズカとこちらに迫ってくるところだった。片手だけで蒼の襟を掴んだかと思うと、そのままぐいと引き寄せられた。顔に影がかかる。それほどの近さで、一鞘が容赦なく睨みつけていた。龍能を、【
一鞘の怒りは、他の誰でもなく蒼に、蒼だけに向いていた。
「葬式みたいな雰囲気醸し出してる場合か! 今やるべきことは違うだろ!」
ガツンと頭を殴られるようだった。それほどの一喝だった。
「泣いているヒマがあったら考えろ! おれはこんな化け物に殺される気なんかさらさらないんだよ‼」
分かったか、と怒鳴りつけて、一鞘は蒼を乱暴に手放した。突き離され、蒼は数歩後ろによろめいた。唐突に突き離された反動で、顔が下を向く。ったく、と一鞘はブツブツと悪態をついている。
「……う」
顔を伏せたまま、蒼は小さくつぶやいた。一鞘は聞き取れなかったらしく、眉間のシワを深くした。……見えていないけれど、きっと深くした。
「はぁ? 何だよ、また『ひどい』とか言う気じゃないだろうな、」
気を悪くした一鞘に再び詰め寄られ、しかし蒼は、今度は自分から一鞘をまっすぐに見上げた。
「ありがとう一鞘……、元気出た!」
あぁ、多分自分は今笑っている。心の底から。意表を突かれたように、一鞘が目を見開いた。
意識が、気力が、意志が、しっかり開かれたのを感じる。
――もう空しくなんかない。
「ごめんね2人とも、あたしも考える!」
姫織はそれでいい、と言うように微笑んでゆっくりとうなずいてくれた。一鞘の方は、まだ言葉を失っているらしかった。それでもいい。さっきもう大事な言葉をくれたのだから。
まだ目にとどまっていた最後のひと雫を振り払うべく、蒼は指で力強く拭った。――ここからが正念場だ。
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