アイノアカシ
ムラサキハルカ
オモイ
姉の日記帳は既に百冊を越えていた。俺が生まれてから今日までの間、狂ったように書き続けているというのは両親の言。俺もまた、物心がついた頃から姉が暇さえあれば書き物をしているのを目撃している。
「弟君のことを書いてるの」
何を書いているのか聞くたびにそう答える姉は、見せて頼むとすぐさま日記帳を閉じてしまう。
「恥ずかしいから」
姉は常にこうした主張をするが、一度も中身を見たことがない俺の目からするとこうまで頑ななのはどうにも怪しく映る。そして、見られないとなればなにが何でも見たくなるというのもまた人情。今使ってる日記帳がダメならば、せめて昔のものを、と思うが、過去の記録は全て金庫に厳重に保管されてしまっている。ゆえに、日記の内容は謎に包まれていた。
「心の準備ができたら見せるから」
どこか心苦しそうにそう告げる姉に、表面上は頷きはしたものの納得はできない。
そんなこちらの気持ちがつたわっていたゆえの罪悪感からか、はたまた日記に向けられるのと同じくらいの強い気持ちゆえか、姉は俺に対してだだ甘だった。ともに食卓を囲んでいる時に隙あらばアーンしてこようとするし、勉強でわからないところがあれば体を寄せてきて懇切丁寧に教えてくれるし、時間が合う時はぴったりと一緒に登校しようとしてくる。休日にはよく一緒に映画を見に行ったり家でゴロゴロしたりするし、街を歩いている時に俺が興味を示したものをすぐに買い与えようとしてくる(幼い頃は受けとっていたが、さすがに成長してから遠慮するようにしている)。
こうした姉が情熱を込めた日記とはいったいどんなものなのか? 中身に対する興味はかぎりなく膨らんでいたが、姉はやはり頑なに日記帳を見せることを拒んだ。
「またいつか、ね」
申し訳なさげな断わりを、受けとりながらも、俺は姉が日記を見せてくれるその日が来るのを今か今かと待ち続けていた。
*
『お父さん、お母さん、ごめんなさい。』
そんな短い文面を残して、姉は近場の海に身を投げた。
俺の目から見れば何の兆候もなく、どうして? という疑問ばかりが頭に浮かびあがる。そんな俺とは対照的に両親は悲しげな顔をしつつも、どこか納得したような面持ちだった。二人とも薄情じゃないのか? という感想は、急に血を分けた肉親がいなくなった衝撃や葬儀のごたごたに押し流された。そんな式が終わると、何も手がつかなくなり、ただただ植物のように日々を送った。
*
日記のことを思い出したのは、ようやく心が落ち着いてきてからだった。少しでもいなくなってしまった姉の痕跡をとどめておきたい。そのためには、姉の生きた証そのものである日記が必要不可欠だと考えた。
本人に許可をとらないまま覗くのは心苦しかったものの、既に話すことはおろか顔を見ることすら適わない相手であるので、いたし方ないと言い聞かせて、形見である最新の日記帳を手にとる。時系列的に自殺の原因が記されているかもしれないと覚悟して最初の方を開いた。
『気持ち悪い。ただただ気持ち悪い。』
のっけから斜めに歪んだ字体で記された言葉に圧倒される。この調子だとかなり前から病んでいたということだろうか? まったく気付かなかった自らに呆れながら、ページを捲っていく。
びっしりと細かく記された文字は大抵、気持ち悪い、とか、息苦しい、とか、殺してやりたい、などという物騒な言葉で埋まっていた。日時こそ書いてあるものの、何をしている日なのかは、負の感情の言葉に埋め尽くされていてわかり辛い。あんなに穏やかな姉がこんな心を隠していたなんてと驚き、何とか情報が読み取れそうなところまで行こうと読み飛ばしていくものの、大抵は似たような言葉ばかりが目立ったので読み飛ばしてしまう。そうしているうちに、あっという間に生前、最後の日記へとたどり着く。
『もう無理。耐え難い。私頑張ったよね? 精一杯努力したよね? なのに、なんでなんで…………』
そこからしばらく延々と三点リーダーが続いた。そしてたどり着いた先で、
『あいつは。あの弟を名乗るくそがきはあんなに醜くて気持ち悪くて愚図で赤ちゃんで気持ち悪いの? なんで、私はあんな醜いものの姉をやらなきゃならないの。もうやってられない。耐えられない!』
受けいれ難い記述をみつけた。
何度か目をこすって確かめるが、書いてあることに一文字も変化はない。
弟君のことを書いてるの。かつての姉の言葉が蘇える。
となれば、先程までの記述は、精神不安定ゆえの混乱のせいばかりと思っていたが、そうではなく……。
膝から崩れ落ちそうになるのをこらえる。まだ決まったわけではない。自らを奮い立たせようとするが、力はなかなか入ろうとしなかった。
*
数日後。覚悟を決めて、金庫の中にある日記に目を通そうと決意した。
やめておいた方いいと止める母の言に恐怖を抱きながらも、ここまで来てしまったなら見なければならないという決意を強くし、無理を承知で頼みこんだ。俺の願いを聞いても母はなお、躊躇していたものの、父が息子である俺にも見る権利があるという口添えを弱々しくしてくれたのに押されてか、躊躇いがちに首を縦に振り金庫の番号を教えてくれた。
こうして、金庫から最初の日記帳を取りだして開く。
『はじめておとうとにあった。なんてきもちわるいんだろう。はきそう。』
第一印象の時点で最悪だったのを確認して、泡を吹きそうになった。とはいえ、これがすべてとはかぎらない。そう奮い立たせて続きを読んでいく。
『ぎゃーぎゃーおさるさんみたいになく。うるさすぎる。』
『わたしのほうにまんまるいめをむけてくる。みるな。』
『おかあさんのおっぱいをすってるときのかおがきもちわるい。』
さほど上手ではないひらがなで書かれた言葉の数々は、子供らしい感情といえばそれまでであるが、罵詈雑言で溢れていた。当然、赤ん坊だった俺にまともな記憶はないので、身におぼえはほとんどないが、ここまで言われるほど醜かったのか、と嫌になる。少しでもいい記述をみつけようとページを捲っていくが、結局、似たような発言ばかりが続いた。
ならば、もう少し成長してからだったらどうだろうかと、俺が小学生ぐらいの頃のノートを開いた。
『カルガモみたいにわたしについてくる。さわられるとぞわっとする。』
『すぐにかんしゃくを起こす。なんとかなだめる。なんで、わたしがキゲンをとらなくちゃならないのか。』
『クラスの悪がきにいじめられたのをなぐさめる。いっそ、なぐられて気をうしなってかえってこなければいいのに』
予想通りといえば予想通りの言葉の連なりに呆然とする。記憶ではこの時点で既に姉は俺を甘やかしはじめていた。それなのにもかかわらず、この日記の内面は弟である俺への強い不満で終始している。これはいったい、どういうことなんだろう? 疑問が解消されないままこの年の離れた姉の日記の中から目ぼしい記述を探す。そして、とうとう俺が中学生の頃の日記に手をかけ、
『このところ、お父さんとお母さんが昔言った「優しくしていればそのうち愛情が湧く」という言葉をしきりに思い出す。けれど、いまだあの醜い生き物への愛情は一ミリも湧いてこない。』
姉が俺に優しくする動機らしきものを目の当たりにした。
つまりは両親の言葉を信じて、死ぬまで実行してきたということなのか? だとすれば、すべては偽物だったと? 既に崩れかけていた姉とのこれまでが粉々に砕けそうになる。
いや、まだだ。お父さんとお母さんの主張通り、弟に対する愛情が湧いたかもしれない。少なくとも俺の目には姉はそう見えたのだから。
ページを捲っていく。相変わらず、俺に対して罵詈雑言を吐いているが、こころなしか幼年期や小学生時代ほど無秩序に悪口を投げつけてはいないように感じられた。これならば希望があるのではないか。そう思おうとしてページを捲り続け、そして生前最後の日記の一つ前の一冊に手をかけ、
『夜中。お父さんとお母さんがこそこそ話しているのを盗み聞く。それによれば、あの醜い生き物はお母さんがお父さんを裏切り、別の男の種を受けとったことで生まれたらしい。私の勘は正しかった。そして、両親のいつぞやの愛情が湧くだとかどうのこうのという都合のいい言葉に腹が立った。けれども、なによりも悪いのは、あの醜くて醜くて仕方ない生き物なのだ。アレが生まれたことが全ての諸悪の根源。ああ、気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い……アレは責任をとって今すぐ私の前からいなくなって欲しい。というか、死んで欲しい。』
憎悪が完全になったことを理解せざるをえなかった。
母に対して、なんてことをしてくれたんだ、という怒りが湧いたもののそれ自体は置いておく。問題は、姉の感情を俺の生まれが肯定してしまったこと。歯車が完全に嵌ってしまった。
『いっそ、あのクソガキに全部ぶちまけてやろうか? でも、そうしたらあの生き物の醜さに情けなさが加わるだけだ。スカッとするどころか、こっちの体調が崩れるだけだし。でも耐え難い。死ねばいいのに。っていうか死ね……』
延々と続く憎悪の言葉。それはこの日記帳に呪いのように刻まれたのだ。
*
そして、俺は今日も姉の残した日記を隅から隅まで読み直している。何しろ細かい文字で書かれているうえに、大量に書かれている。だから読み飛ばした部分だってあるのだ。……というのは半分本音半分建前。
いまだに俺がその目で見た姉と日記の中の姉が重ならない。ゆえに、後者だけが本物ではなく、前者もまた本物なのだと思い、その証を目を皿にして探していた。残念ながら、今は見つかっていない。だが、いつかきっと、俺は姉の愛情に溢れた記述を発見するのだ。
必ず。あるいは。たぶん。きっと……ある、はずだ。なくちゃ、ならない。あってくれ……お願いだから……なぁ……姉さん……
アイノアカシ ムラサキハルカ @harukamurasaki
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