第5話 妖刀"血吸"

酒場から出ると空は既に日が落ちており、藍色の空に明星がきらめいていた。あと一刻も経てば空は藍の濃さを増し、地上は一寸先を見通すことすら怪しいほどに暗くなってしまうだろう。

日没と共に人の往来が疎らになってしまった大通りを、ウォンジュンは男の姿を探し求めて歩いた。男が出てすぐに自分も酒場を出たのだから、まだ近くにいるだろうと踏んで。

案の定男はすぐ近所で見つかった。酒場の裏手、野菜の皮やら豚の頭やらがはみ出したゴミ箱から強烈な臭いの漂う一角で下着と見紛うほど簡素な鎧を纏った少女の頭を踏みにじっていた。


「あれぇ?お兄さん食べるの早いね」


恐る恐る近づくウォンジュンの気配に気づいた男が振り返った。その容貌は異様に変化しており、真っ白だった結膜が闇を閉じ込めたようにドス黒くなり、小さな瞳は鮮烈な赤色に輝いている。

男の容貌に圧倒されながらも、ウォンジュンは男が右手に握っている大太刀に目をやり「血吸に手を出したか」と察した。

"血吸"は東の島国に古くから伝わる妖刀の1種である。卓越した鍛冶の腕前を持ちながらも性格の不器用さから社会を追放されてしまった刀工が自身を嘲笑った人々への恨みを込めながら作り上げたものだと言われており、血吸に魅入られた者は自身に備わる何かと引き換えに強大な力を得ることができると伝えられている。そして得られた力は、刀に血を浴びせるごとにその強さを増していくとも。

この悪魔に魂を売ることにも似た契約を交わした者は、血吸を抜けば結膜が闇に飲まれ、瞳が鮮血の如き赤色に染まるという。男の目はまさにそういう者の目だ。

男の稚拙な物言いを振り返る限り、血吸に売ったのはいくらかの知性だろう。純粋に剣術を極めてきたウォンジュンにとって、妖魔に自身を売ってまで強さを得ることは邪道の中の邪道である。しかしウォンジュンは別に咎めようとも思わなかった。血吸に魅入られたのはあくまで他人であるならず者であって自分ではないし、妖魔の力とて立ち回りを意識しながら使い続けていれば自分自身の技として吸収できようと考えたからだ。

それよりもウォンジュンは心中に激しい高ぶりを感じていた。その高ぶりは胸を満たし、やがて喉から声となって溢れ出た。


「かっこいい〜!」


ウォンジュンは初めて目の当たりにした血吸と、それに魅入られた男の姿に感銘を受けていた。剣聖としての性なのか、それとも心の年齢がそういうお年頃なのか、妖刀に魅入られた男という存在が特別でかっこいいものに感じられるのだ。


「ねっ、それ血吸でしょ!?血吸でしょ!?近くで見せて〜!」


面喰らう男の様子をよそにウォンジュンはズカズカと男に近寄り、舐めるようにして血吸に視線を這わせた。また、黒く染まった男の結膜に触れ「色が変わっただけか〜」と朗らかに笑った。男は「痛ァッ」と触られた目を押さえた。


「噂には聞いてたけど本当にあるんだぁ〜!激アツ〜!」


生の血吸を前にしてウォンジュンは人目(といって2人)も憚らず狂喜乱舞していたが、突如男から突き飛ばされた。生ゴミの汁が染みた土の上に投げ出され、臭いに顔をしかめながら起き上がると、男が元の位置より後方に退いていた。その目の前では、さっきまで男の足に踏まれていた少女が直剣を構えている。


「まだ動けんのかよ!おなか丸出しの鎧着てるくせに!」


「うるせー!鎧のことはいいだろ!とにかく何が何でもお前を殺して宿代浮かす!」


少女の口ぶりから、ウォンジュンは彼女も宿屋の主人から男の退治を頼まれたことを察した。宿屋の主人は得物を持った旅人を見つけると片っ端から退治を頼んでいたらしい。

しかし相手は血吸の使い手。刀身に血を浴びれば浴びる程強くなっていくような相手に対しいたずらに人をけしかけても、返り討ちに遭うばかりか相手の力を増大させるだけである。

『無知は罪』とはよく言ったものだ。善意とはいえ幾人もの旅人を犠牲にしてきたであろう宿屋の甘言を思い出し戦慄したウォンジュンは、ふと思い立ち男と少女の間に入った。


「何だテメェ!」


「お姉さん!宿屋のおっちゃんは"退治しろ"とは言ったけど"殺せ"とは言ってないですよ!」


「何だその『何でもします(何でもするとは言ってない)』みたいな構文はぁ!」


「必ずしも殺さなくて良いんじゃないかっつってんですよ!どうせ今のお姉さんなんかその丸出しのおなか掻っ捌かれて血吸の養分になるだけですし!ここは1つ!提案があります!」


「チスイとかよくわからんこと言うなーっ!」


問答無用と言わんばかりに少女がウォンジュンに向けて斬りかかった。構えは大上段。脇の隙が大きく、振り下ろしたのちに立て直すのにも隙ができる悪手であり、一撃で相手を仕留められなければ自身が不利となる。

現に少女はウォンジュンが見る限り素人だった。腰が入っておらず、ただ直剣の重みに任せて振りかぶっているようにしか見えなかった。ウォンジュンは少女の斬撃を難なくかわし、脇腹を指で突いてやった。少女がギャッと悲鳴を上げて地面に転がる。


「お姉さん話を聞いてください!」


「わかった!わかったから!」


「まず血吸の彼はもうこの街を出るらしいので退治する必要は無くなりました。なので今ここで勝負を挑んでも無駄でしかないしお姉さんだったら確実に犬死にして終わりです」


少女の表情が曇る。彼女も自身の実力がならず者ひとり倒すのに及ばないことぐらい自覚していたらしい。それでも宿代を浮かせねばならぬ事情があったのだろうとウォンジュンは推察した。


「とりあえずお姉さんはこれから宿に戻って『ならず者を退治した』と伝えて下さい。思いっきり顔に踏み跡があるし、あとお持ちの剣に血でも塗っておけば信じてくれると思いますよ」


「え、良いんですか…」


「だって宿代をタダにしたい事情があるんでしょ?」


「…すみません、すみません」


少女は地面に跪き、何度も頭を下げた。

ウォンジュンが「いいから」と少女に頭を上げるよう促していると、取り残されていた男が歩み寄り「俺はどうすればいいの?」と尋ねてきたので、ウォンジュンは「どこへなりと自由にお行き」と返した。




翌朝、ウォンジュンは宿屋を出て次の街へ行く準備をすべく街の商店で買い物をしていた。

争いの後、ウォンジュンは少女の直剣で自身の腕を切りつけ、流れ出た血を剣に塗りたくった。少女は「野良犬でも斬れば良いのでは」と目を剥いていたが、無駄な殺生をしたくなかったウォンジュンは「いーの!」と押し切った。

その甲斐あって少女がならず者を退治したという嘘は宿屋の主人に信じられ、彼女は無料で宿に一泊することができた。代わりにウォンジュンは宿代として2000文を払わなければいけなかったが、もともと金を払って宿に泊まる予定でいたのでこの出費は痛くも痒くもなかった。

次はどの街へ行こうか。首都ハンバリクを目指すか、小さな町を転々とするか。まだ見ぬ土地に大きな期待と一抹の不安を抱えながら陳列棚の薬を取るウォンジュンの背後に妖魔を思わせる強烈な気配が漂い始めた。振り返れば顔の右目頭から鼻筋にかけて赤黒い痣を持った、羽織から胸の開いた深衣から全てが黒ずくめの大男─血吸のならず者がしょぼくれた顔で立っていた。刀を抜いていないので当たり前だが結膜は白く、小さな瞳は薄暗い茶色をしている。


「あれ!街出なかったの!?」


「1人で他の街に行っても同じ感じになりそうで…」


不安げに呟く男の表情は、ウォンジュンには親とはぐれた幼子のように見えた。

男が血吸の力を得る為にどれ程の知性を失ったのか定かでないが、何にしても『力をこそ全て』といった生き方しかできないことは明白である。

ただ力のみに頼る生き方は彼を永遠に孤独たらしめるだろう。あまりにも寂しい人生じゃないか。

男の末路を想像して悲しくなったウォンジュンは、男の手を取り微笑みかけた。


「一緒に旅しようか」


男の顔に輝くような笑顔が浮かんだ。

男が力のみにしか頼れないなら、自分が男を導いてやればいい。どうせ自分も男も明確な目的地など無いのだし。


「ありがとう、お兄さん」


唐突に男がウォンジュンを抱きすくめた。華奢な身体が男の強力な腕力で締めつけられ、開いた深衣から覗くたくましい胸筋にウォンジュンの顔面が埋められる。


「苦しいんですけど…」


気道を塞がんばかりの力強い抱擁にウォンジュンは言葉で抵抗を示しつつも、人肌の温かみに、谷間から香る汗のにおいに得も言われぬ愛おしさを覚えるのだった。

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