第3話 故に、彼は堕ちた。


 一瞬、我を失いかける。

 それほど衝撃的だったのだ。彼を覗き込むようにして立つ、異様な存在というのは。

 奇怪な風体の少女だった。

 結うことも留めることもせず垂らした長い髪は、虹の光沢を持たない螺鈿らでんの色。

 肌は、砂浜に打ち上げられた貝殻のように透き通った白。

 身に纏うのは、漆黒の布地を複雑に縫い合わせたゴシックドレス。

 少女は、異人だった。日ノ本ひのもとの国の人間の色を持たぬ、外の人間だ。

 目が合うと、少女は瑠璃るり色の目を細めた。――笑ったのだろうか?

 否、嗤ったのだろう。

 純粋な異人にしてみれば、彼はコウモリだ。獣でありながら翼を持ち、鳥でありながら牙を持つ中途半端な存在だ。

 転びバテレン(※)が戯れに市井の女を孕ませ産ませた、異人でも日ノ本の人間でもない、彼という存在は。


「……悪くない。お前で良さそうだ」


 その声は、ひどく優しい。

 マリヤ――キリシタンが崇める女というのは、もしかすればこのような声を持っているのかもしれなかった。

 故に、彼は戸惑いを隠せない。桜貝を思わせる薄い色の唇から吐き出されたのは、剣士として名を馳せるまで、それこそ生まれ落ちた時から浴びせられ続けていた、いわれのない罵りではなかったのだから。


「このまま戦いに身を置き、武を極めん者として、無様に敗れ、ただ死んでいくなど、つまらぬと思わぬか? つまらぬ、と云うのならば……」


 彼のそんな感情を、少女は無視する。そして、一方的に喋りたててくる。


雛僧こぞう、わたしを受け入れろ」











 一体、なにを、言っている? それよりも、お前は……お前は一体、なんなんだ?

 直後、抱いた疑念は、直感に変容する。

 この異人の少女は――否、そもそもこれは人間ではない。

 死神、狐狸こり妖怪あやかしの類、火車(※)を引くという悪鬼――いずれにしろ、ロクな存在ではないに違いない。


「ここで散ることを、無様に終わることを拒むのなら、死の境界を踏み越えた先、安寧など許されぬ戦場いくさばに臆さぬというのなら、至高たかみ渇望するのぞむというのなら……雛僧こぞう、わたしと契約しちぎり、【騎士ドラウグル】となれ。

 わたしは【魔神】ディスコルディア。【英雄】たる資質を持つ人間を、【騎士ドラウグル】へと昇華させる者」


 異人の少女の姿のそれは、ディスコルディアと名乗った。











 紡がれた言葉は、彼を混乱に陥れるものばかりで構成されていた。

 それでも、わかることが、唯一つ――これは、誘惑だ。

 ディスコルディア――複雑なまじないのような名を持つそいつは、彼を誘いをかけている。肝心な詳細を、巧みに惑わして。


「強さを与えてやろう、とこのわたしは言っているのだ。それこそ、お前を打ち破ったあの剣士を超える」


 その言葉が、引き金となる。彼の脳裏に、記憶に刻まれた光景が、断片的に浮かぶ。


 独りあてもなく流離う幼少時。

 刀を振るい殺すことを覚えた少年時代。

 ただひたすら剣技を磨き、剣士の名声と悪名を広めた青年時代。

 

 そして、最期を迎える今。


 あの凄腕の剣士との決闘。

 彼を打ち負かし、悠々と去って行く勝者の後ろ姿。

 敗者である彼に、目をくれることはない。



 ――本当に、悔いのない人生、だったのか?

 ――このような最期のためだけに、俺の人生はあったのか?


 彼は、今、揺らいでいた。彼を人間として保たせる理性と、彼が彼である前の一つのいきものが求める欲望の狭間で。


「迷うな。時間はあまりない。貴様の魂は、既に燃え尽きかけのろうそくだ。間もなく、死神の腕に抱かれよう。さあ、どうする?」


 異変は、唐突だった。

 ディスコルディアの背後で、煙が吹き上がる。

 つん、と鼻の奥を強烈に刺激する硫黄の臭気に、思わずむせかけた。

 言うなれば、それは扉だ。この世の存在ではない存在が、現れるための。

 そいつは、髑髏どくろだった。ぼろぼろの黒衣で全身を包み、手には馬鹿でかすぎる鎌を携えている。

 その手の知識に疎くとも、あの世からの使いだと、彼は瞬時に理解した。


「の、ぞ……む」

「ほぅ……」

渇望するのぞむ、と……俺は、言った、のだ! でぃすこるでぃあ!」


 故に、彼は堕ちた。

 人間であることより、いきものであることを選んだのだから。


「契約だ! 俺を、この俺をどらうぐるに……そして、至高たかみへと導け!

 俺は契約を渇望するのぞむぞ! でぃすこるでぃあ!」

「契約、成立だ!」


 ディスコルディアは、笑みを変えた。

「してやったり!」と嗤う、奸智に長けた悪党の笑みに。


 それが、彼がこの世界で見た最後のものとなった。











✟✟✟✟✟✟


転びバテレン

江戸時代に拷問や迫害によって信仰を棄てたキリシタン(キリスト教徒)のこと。

キリシタンが信仰を棄てることを「転ぶ」と言う。

宣教師などの宗教指導者の場合、転びバテレンという。


火車

悪行を積み重ねた末に死んだ者の元に現れる、地獄からの迎えの車。

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