第1部

第1章 ルーザー=デッド・スワロゥ

第1話 その「誰か」は、この世界を知らなかった。

 

 アシュロンの森は、鬱蒼とした森林だ。「異なった」世界における、シュヴァルツヴァルトを思わせるような。

 もっとも、そのような表現ができるのは、限られていたりする。

 キリは勿論、表現できない側の人物だ。物心ついた時からトルシュ村で育ったキリにとって、世界とはトルシュ村だけなのだから。

 故に、アシュロンの森は魔境だった。


「決して、入ってはいけないよ」


 大人たちは、キリたち子供にそう言い聞かせた。

 トルシュ村を隠すように広がるそこは、魔物が潜み、血も涙もない犯罪者のねぐらであると。


「じゃあ、なんでわたしたちは、そんな恐ろしい場所に囲まれて、息を殺すようにして暮らさないといけないの?」


 キリの疑問に答えてくれる大人は、誰もいなかった。

 でもキリは、つい先ほどその理由を身をもって知ることになった。文字通り、誰もいなくなってしまって。



 風の流れに乗って、恐ろしいものが沢山流れてくる。鎧がガチャガチャ鳴る音、駆る馬が立てる蹄と呼吸音、鋼と血の臭い――


「亜人は見つけ次第、殺せ!」

「逃がすな、亜人は殺せ!」

「殺せ! 殺せ! 殺せ!」

「殺せ! 亜人は、殺せ!」


 ――そして、狂ったように放たれる罵声。


 だから今、キリはアシュロンの森を走っている。走って逃げている。

 捕まれば、文字通り殺されるからだ。トルシュ村のみんなのように。

 正直、あの虐殺の場を、一体どうやって生き延びることができたのか分からない。

 しかし、なんとか逃れたキリを待っていたのは、悪夢だった。

 ――悪夢なら、どれだけよかっただろう。悪夢なら普通、目覚めれば終わってくれるのだから。


「助けて」


 キリが発した哀願を、聞き届ける者はいない。


「嫌、死にたくない……!」


 黄金色の目から、涙が溢れ出る。もう、とっくに流しきったはずだったのに。

 キリの怯えを嘲笑うかのよう、風に吹かれた枝葉が鳴った。


「誰か……助けて!」


 それでもキリは、「誰か」の助けを哀願し続けた。

 故に、キリが気付くことはなかった。ポケットに収まるものが、ぼぅっと青く光を発し始めたことに。

 まるで、聞き届けてくれる「誰か」を、求めるかのように。



 その「誰か」は、この世界を知らなかった。

 何故なら――彼はまだ、死んでいなかったのだから。

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