上峰加奈子の読んでしまった日記

卯月白華

あめはやんだはずなのに

 上峰うえみね加奈子かなこの脳裏を過ったのは、"日記"。

 義兄である"征司郎せいしろう"の"日記"。

 それから……もう一つの――――


 "征司郎"と上峰加奈子は実の兄妹ではない。

 両親が亡くなった幼い"征司郎"を、彼女の父親が養子にしたのだ。

 彼女の父である政司と"征司郎"の両親は親戚だった。

 "征司郎"の父親は政司の兄だったし、彼の母親は政司の従姉だったという関係だ。

 本来の跡継ぎは"征司郎"の父。

 だから政司は一族外から妻を娶ることが許された。

 それで終わりの話。

 そのはずだったのに。


 兄夫婦がそろって亡くなり、政司夫妻が本家に戻った直後、政司の妻が妊娠していると判明した。

 予め"征司郎"は政司の養子になった後だったけれど、まだ分からなかった腹の子供の性別を皆が気にした結果、反対する妊娠中の妻を説き伏せ、政司は一族縁の占い師や呪い師に見せたのだ。

 結果は――――女の子。


 上峰加奈子は産まれる前から"征司郎"との婚約が内々に決まっていた。


 母方としては、それは承服しかねると強く強く物申し、保留にはなった話しだったけれど。

 あくまでも保留であり、立ち消える事は決して無かった。

 ……"征司郎"が死ぬまでは。


 上峰加奈子が産まれて数年後だったのだ。

 "征司郎"が亡くなったのは。


 だからなのか、彼女の記憶に"征司郎"は朧にしか残っていない。

 幼い頃は母方の実家で暮らしていたし、小さかったから覚えてはいないのだと、中学校を卒業するまで思っていた。


 ――――"日記"を見つけてしまう前までは。


 エスカレーターで高等部に進むとはいえ、この家では15歳の年に行われる中等部の卒業式は特別だった。

 彼女の一族では元服になぞらえて、これ以降は男女とも大人扱いになるのだ。

 だから、その年に一族で中学校を卒業した子が居れば皆集め、一族総出の集まりが行われる習わし。

 集まりを明日に控えていた彼女は、何故か眠れず真夜中に悶々としていた。

 ただ無意味に流れる時間に、彼女は一念発起してしまい、家の中を散歩するという暴挙を行ってしまう。


 そう、応接間だ。

 この時期ならば暖炉に火が灯っているはずだと、真夜中の応接間に行ってしまった。

 苦手な剝製が所狭しと置いてあるというのに。


 彼女が一番敬遠している、人食い虎だという話の、今にも襲いかかりそうに見える大きな大きな古い全身剝製の前。

 そこにまるで佇むように立てかけてあった


 真っ黒な紙で表紙が覆われていた。

 裏も表も真っ暗な"日記"。

 中身さえも黒一色。


 ただ見ただけでは、黒いばかりのノートだった。

 何も書かれていない、まるで吸い込まれそうなノート。

 それが……広げた拍子に、紙で手を切った時。

 その血がノートに吸い込まれた時だった。

 文字が、浮かんできたのだ。

 血のように真っ赤な文字が。


 みっちりと強い筆圧で書かれていたのは、赫々とした恨み辛みに妬み嫉み。

 意識せず文字を目で追って、幾つかは目を通した時だっただろうか。

 唐突に、目が爛れそうな文字が、腐臭を放つ音声となって彼女の耳に流れ込んできた。

 吐き気を伴う歪みと澱みしかない感情の波。

 思わず逃げるように目を閉じれば、不思議と汚染されそうな声は止む。

 けれど目を開けて文字に視線を向けるだけで、また頭の中に疎ましい声が流れ込むのだ。


 ……どうして気がついてしまったのだろうかと、今でも彼女は時々思ってしまう。

 どれほど悍ましい事だとしても、浅ましくても。

 無知も罪であり、知らなかったからといって決して罪は消えないのだと、心が軋む程分かっていても。

 それでも知らずにいられたらと。

 見つけさえしなければ、この"日記"の持ち主の真実に気がつかずに済んだ。

 ――――自分の罪深さも、忌まわしさも、知らずに済んだのかもしれない。

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上峰加奈子の読んでしまった日記 卯月白華 @syoubu

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